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実るほど頭を垂れる稲穂かな 謙虚になる

人は一人では生きて行けません。
それだけに如何に人に認められる存在であるかで人の徳、価値が違ってくるのかと思います。

対して、人は、他人より秀でた能力を持つことで、時に高慢になってしまうことがあります。
しかし、高慢であっても、その秀でた能力を認めるのであれば、頼られる存在であるのかと思います。

しかし、勘違いしてはならないのは、すべての人が、その秀でたであろう能力を認めるとは限りません。
認めていない人にとって、その高慢な姿勢は嫌われ、関わりを持ちたくないはずです。

その人の価値は環境や他人が決めます。
それを勝手に自分基準で過剰評価して高慢になれば滑稽以外の何者でもありません。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

これは、稲の穂は実るほどに穂先が低く下がる状態を例えて、人間も徳がある人であれば、偉くなればなるほど、謙虚な姿勢で人と接することが大切ということです。

また、昭和の大横綱であり、何よりも、未だに破られない69連勝記録の持ち主である双葉山が70連勝を目前に敗れた時の言葉です。

「いまだ木鶏たり得ず」

何度もいいますが、69連勝は、未だに破られていない大記録なのです。
にも関わらず発したこの言葉は、木の鶏のように何事にもおいても微動だにしない徳が自分にはないとして、引き続き精進することを誓った謙虚なる言葉です。

謙虚ですが、そのものは徳ではないと考えます。
むしろ、徳のある人が、結果的に謙虚であると捉えた方が良いかと思います。

また、日本の幕末の志士であり陸援隊隊長の中岡慎太郎氏の言葉です。

「謙虚とは堂々として過信しないことだ、それは断じて卑屈であることではない」

私は、これが、謙虚を表現したもっとも理解し易い言葉だと捉えています。

私は決して、徳のある人間ではありません。
にも関わらず、肩書きや年齢から勘違いして、自分でも気づかない内に、周囲の人たちへの対応が横柄になっている可能性もあります。

少しでも徳のある人に近づけるように、まずは、何事も、何よりも謙虚であることを優先させようと意識しています。
これからの人生で自分が身を置く環境で、認めていただける人間でありたいと思います。

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