新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その1

1:23 「セックスした事がない女性の子供が救世主」だとみんな思い込んでいた

「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」
イザヤ書7:14「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」
マタイ「Ἰδοὺ ἡ παρθένος ἐν γαστρὶ ἕξει καὶ τέξεται υἱόν, καὶ καλέσουσιν τὸ ὄνομα αὐτοῦ Ἐμμανουήλ
イザヤ書「ἰδοὺ ἡ παρθένος ἐν γαστρὶ ἕξει καὶ τέξεται υἱόν καὶ καλέσεις τὸ ὄνομα αὐτοῦ εμμανουηλ
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」

イザヤ「καλέσεις」→マタイ「καλέσουσιν(呼ばれる)」で格が変わる以外は七十人訳とほぼ完全に一致。
ではなんで日本語訳がズレるのかというと七十人訳が不正確だから。
旧約の時制はこの日本語訳のほうが正確な模様。

で、この箇所。
ヘブライ語、というか元々の聖書では「若い女」位の意味だった所を、七十人訳が「処女(セックスした事の無い女)」と誤訳しちゃって、マタイもそのまま使っちゃった事で有名。
キリスト教の黎明期からユダヤ教徒からは「若い女」であって「処女」ではないというツッコミが入っていたのだが、キリスト教徒は七十人訳におけるやらかしは神の意図だと言い張ってゴリ押しした。今でも正教会とかは旧約聖書の底本に七十人訳を使っている。神の意図でも誤訳は誤訳だけどな。

ただ「若い女」としているイザヤ書も変ではある。息子にインマヌエルと名付ける若い女なんてユダヤ教社会ではいくらでもいただろうから、それで預言になるんかいなとは私も思う。

2:6 ベツレヘムは小さいのかそうでもないのか

「『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」
ミカ書5:2「しかしベツレヘム・エフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである」
マタイ「Καὶ σύ, Βηθλέεμ γῆ Ἰούδα,
οὐδαμῶς ἐλαχίστη εἶ ἐν τοῖς ἡγεμόσιν Ἰούδα
· ἐκ σοῦ γὰρ ἐξελεύσεται ἡγούμενος, ὅστις ποιμανεῖ τὸν λαόν μου τὸν Ἰσραήλ」
ミカ書(七十人訳だと5:1)「καὶ σύ βηθλεεμ οἶκος τοῦ εφραθα ὀλιγοστὸς
εἶ τοῦ εἶναι ἐν χιλιάσιν ιουδα ἐκ σοῦ μοι ἐξελεύσεται
τοῦ εἶναι εἰς ἄρχοντα ἐν τῷ ισραηλ καὶ αἱ ἔξοδοι αὐτοῦ ἀπ' ἀρχῆς ἐξ ἡμερῶν αἰῶνος」
「καὶ σύ βηθλεεμ(ベツレヘムよ)」のみが一致。

マタイの文章と七十人訳はほとんど一致していない。…というかこれ、意図的に文脈捻じ曲げてるような。
「ユダの中で小さいものだが→決して最も小さいものではない」だと意味正反対だし。
一方別の場所(4:15-16)で、マタイは七十人訳に「栄光を与えられる者」に書き足された「ユダの一族」を(原典に従ってか、マタイが改ざんするつもりだったのかは不明だが)削除していたりもする。

マタイはここでは王権関係者のモブのセリフとして「ベツレヘムはユダの中で最も小さいものではない」とし、
4:15-16ではイザヤの預言として(七十人訳をいじくり?元に戻し?)「ユダの一族」の栄光を否定しにかかっている。

マタイはユダ族に(もしかすると故意に預言を弄ってでも)なにか含みがあったのだろうか?

2:15 昔々、エジプトからモーセたちが来たので

「エジプトからわが子を呼び出した」
ホセア書11:1「わたしはわが子をエジプトから呼び出した」
マタイ「Ἐξ Αἰγύπτου ἐκάλεσα τὸν υἱόν μου」
ホセア書「ἐξ αἰγύπτου μετεκάλεσα τὰ τέκνα αὐτοῦ」
七十人訳からはかなり変わっており、特に「μετεκάλεσα(呼び出した)」が「ἐκάλεσα(呼んだ)」になっている。

しかしここでは珍しくマタイがヘブライ語の聖書に近く、
http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/OTpdf/hos11.pdf
では該当箇所が「呼んだ」と訳されている。

なおまぐれ当たりの可能性もある。少なくともマタイ福音書では七十人訳の誤訳がそのままの箇所が圧倒的に多い。

ホセア書ではモーセらの出エジプトを指す箇所であって「我が子がエジプトから呼び出」されたら何かが起きるとかが書かれたりはしていない。
このいい加減な引用からマタイはマリアと幼少のイエスが一時避難したが、その後エジプトからイスラエルに帰ってきた、だからホセア書の預言が成就したと主張している。
のだけど、イエスらが本当にエジプトに避難した(あるいは何らかの理由で引っ越したとか?)かは不明…というか、おそらくそんな事実はなかったらしい。避難する理由とされる嬰児殺しも史実性薄いし。

あ、ちなみに「わが子」=特定個人でキリストという事にすると三位一体論に都合のいい読み方も出来るよ。キリスト=モーセにもなっちゃうけど。

2:18 子供たちは死んだ事にしておこう、そうだヘロデも嬰児殺しした事にしよう

「叫び泣く大いなる悲しみの声が
ラマで聞えた。
ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」
エレミア書31:15「嘆き悲しみ、
いたく泣く声がラマで聞える。
ラケルがその子らのために嘆くのである。
子らがもはやいないので、
彼女はその子らのことで慰められるのを願わない」

マタイ「Φωνὴ ἐν Ῥαμὰ ἠκούσθη, κλαυθμὸς καὶ ὀδυρμὸς πολύς·」
エレミア書(七十人訳だと38:15)
φωνὴ ἐν ραμα ἠκούσθη θρήνου καὶ κλαυθμοῦ καὶ ὀδυρμοῦ
「叫び泣く大いなる悲しみの声が
ラマで聞えた」
マタイは「θρήνου(哀歌)」を外して「πολύς(とても)」を書き足している。ほかは格変化しているものの大体一致。この書き足しは別にヘブライ語に忠実でも無い。

Ῥαχὴλ κλαίουσα τὰ τέκνα αὐτῆς, καὶ οὐκ ἤθελεν παρακληθῆναι ὅτι οὐκ εἰσίν
ραχηλ ἀποκλαιομένη οὐκ ἤθελεν παύσασθαι ἐπὶ τοῖς υἱοῖς αὐτῆς ὅτι οὐκ εἰσίν
「ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」の所。
こっちの引用はかなりアバウトで、ヘブライ語にもちっとも忠実ではない。

いわゆる「嬰児殺し」のエピソードを語った上で、エレミア書ではラケル(に繋がる一族の)子供が全部殺された時に救世主が出てくるから、ナザレのイエスは救世主だよと主張している箇所である。
…なのだけれど、エレミア書ではこの後16-17で「主はこう仰せられる、「あなたは泣く声をとどめ、目から涙をながすことをやめよ。あなたのわざに報いがある。彼らは敵の地から帰ってくると主は言われる。17 あなたの将来には希望があり、あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると主は言われる」
と続いて子供たちは帰ってきていたりする。

ついでにいうとこの嬰児殺しの話も史実性は乏しい。そんな真似してたら史書に何らかの記述が残る筈だが、今に至るまでこの件を裏付ける史料は一つも見つかってない。

…ただマタイの時点ではイエスの同時代人も生きていたので、そんな派手な捏造をしたら逆効果だったんじゃないのかとも思える。何か下敷きになるような出来事でも起きていたのだろうか。

2.23 救世主がナザレ出身なのは預言には書かれていなかったよ…

2:23「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」
こんな記述は七十人訳にもヘブライ語にもなかったりする。
かつ今でもキリスト教徒はここのこじつけに苦労している。
イザヤ書11:1「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」からの引用? と「?」付きで書かれるが、七十人訳とは全く被っていない。
マタイ「καὶ ἐλθὼν κατῴκησεν εἰς πόλιν λεγομένην Ναζαρέτ」
イザヤ書「καὶ ἐξελεύσεται ῥάβδος ἐκ τῆς ῥίζης ιεσσαι καὶ ἄνθος ἐκ τῆς ῥίζης ἀναβήσεται」
見ての通りである。

逆に言えば、イエスがナザレ出身だったのは事実かもしれない。
生まれた場所に旧約聖書からのこじつけをしようとした(全然上手くいってないけど)ともとれる。

3.3 そうだ、ヨハネ派乗っ取ろう…ええ文章あるやん!

「預言者イザヤによって、
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と言われたのは、この人のことである。」
イザヤ書40:3「荒野に主の道を備え、
さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ 」
この「さばく」は「砂漠」の事。「裁く」ではない。

マタイ「Φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ· Ἑτοιμάσατε τὴν ὁδὸν κυρίου, εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους
イザヤ書「φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ ἑτοιμάσατε τὴν ὁδὸν κυρίου εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」が七十人訳と完全一致。
ヘブライ語にある「さばく」は七十人訳で欠落している。

ここはイザヤ書40:3-5
「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。
4 もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。
5 こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」
からの引用で、地形が変わるとされるがマタイ、マルコ、ヨハネは省略している。一方で40:5の記述はマタイも意識させるつもりがあったかも。
他の三人がどれ位正確に引用していたかはまだ調べていないのでしばらく待ってほしい。ただ、四人揃って原典にはある「砂漠」を書き落としているのは確認した。

四つの福音書全てが引用している箇所で、特に一番古いテキストであるマルコでは冒頭に書かれている。
実は洗礼者ヨハネが刑死し、ナザレのイエスが十字架にかかった後もなお洗礼者ヨハネのグループはしばらく生き残っていたらしい。当時から名高い彼らの権威をキリスト教徒、というかユダヤ教イエス派?が乗っ取ろうとした戦略が草莽期からあった事がこれで伺える。
この企てが大当たりしたのは皆様知っての通りで、ヨハネはイエス・キリストの踏み台という扱いがすっかり定着した一方、洗礼者ヨハネの一団は歴史の闇に消えてしまった。

イザヤ書40:5の「主の栄光」は人物の事ではないと読むのが普通の読み方だが、イエスが神であると最初期から考えていたキリスト教徒は「主の栄光」を神、キリストであると読みたいであろう。
何と言うか、ゴリ押せる歯車がたまたまイザヤ書に転がっていたのが洗礼者ヨハネの遺した教団にはツイてなかったなぁと。

まだ3/26だが、一旦ここで区切る。
続きは次回投稿へ。


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