新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その4

8:4 なんで皮膚病患者ってこんな扱いされたんだろうね

「だれにも話さないように、注意しなさい。
ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、
それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」
レビ記13:49「もしその衣服あるいは皮、
あるいは縦糸、あるいは横糸、あるいは皮で作ったどのような物であれ、
その患部が青みをおびているか、あるいは赤みをおびているならば、
これはらい病の患部である。これを祭司に見せなければならない」

直接引用ではない。この後レビ記14:2以降で、らい病の罹患者を「清める」為の儀式がズラズラっと並ぶ。この長ったらしい儀式を全部やると、名目上も清められた(らい病が治った)事の証明になったのだろう。

皮膚病だけは「いやす」のではなく「きよめる」という扱い。現在は病気の一つである事が分かっているのだけど、当時はそうではなかったのである。残念ながらナザレのイエスもマタイもそんな事は知らなかった。

8:17 ちなみにキリストは病気しなかった事になってるらしいよ

「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」
イザヤ書53:4「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」
マタイ「Αὐτὸς τὰς ἀσθενείας ἡμῶν ἔλαβεν καὶ τὰς νόσους ἐβάστασεν」
イザヤ書「οὗτος τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν φέρει καὶ περὶ ἡμῶν ὀδυνᾶται」
一応ここから引用しているという事になっており、全然違う事を言っている訳ではないが文章はほぼ全く違う。

この箇所は53:2-3の
「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。」
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった」
から続いている。ここで言う「病を知っていた」は実際に病人だった、ないしその時期があったという意味に読めるが断言はできない。

9:13 イエスは自覚してそれまでの律法を逸脱したのだろうか?

「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」
ホセア書6:6「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない」
マタイ「Ἔλεος θέλω καὶ οὐ θυσίαν
ホセア書「ἔλεος θέλω καὶ οὐ θυσίαν
「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」

ホセア書では「燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」と続き、儀式よりも神を知る事を喜ぶとあるが、福音書では「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と問われての回答であり、罪人への哀れみを喜ぶと解釈していて微妙に意味が違う。

とはいえ旧約の神を知る事は「罪を正しく裁く事」であるが、ナザレのイエスにとっての神を知る事は「罪人を許す事、愛する事」なので、彼自身においては意味は通っている。「パリサイ人」扱いされた人々も彼らの律法においては別に間違っていないのだけれど。

10:35-36 急にカルトみたいな事を言い出す救世主

「わたしがきたのは、
人をその父と、娘をその母と、
嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36 そして家の者が、その人の敵となるであろう」
ミカ書7:6「むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、
嫁はそのしゅうとめにそむく。人の敵はその家の者である」

直接引用ではない(実際ミカ書とはほとんど被ってなかった)けれど関連付けされるらしい。

ミカ書7:2-5「神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。
みな血を流そうと待ち伏せし、おのおの網をもってその兄弟を捕える。
3 両手は悪い事をしようと努めてやまない。
つかさと裁判官はまいないを求め、
大いなる人はその心の悪い欲望を言いあらわし、
こうして彼らはその悪を仕組む。
4 彼らの最もよい者もいばらのごとく、
最も正しい者もいばらのいけがきのようだ。
彼らの見張びとの日、すなわち彼らの刑罰の日が来る。
いまや彼らの混乱が近い。
5 あなたがたは隣り人を信じてはならない。
友人をたのんではならない。
あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ
6 むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、
嫁はそのしゅうとめにそむく。人の敵はその家の者である」

とあり、ひどい疑心暗鬼が起きているのかあるいは起こしているのか知らないが、まあともかく人間は全部クズだから信用するな、神だけを信じろという文脈。

マタイ福音書ではそこまで混沌とした状況を想定している訳ではないようで、そこそこは信用できるだろう隣人や家族を切り捨ててキリストである私に従え、という意味になるのか。あるいはミカ書みたく今は悪い時代だから誰であっても信用するなと言いたいのか。…キリスト教関係者には前者で説明される事が多かったが私には確証できない。

11:10 預言を改ざんしたのは誰か

「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、
あなたの前に、道を整えさせるであろう』
と書いてあるのは、この人のことである」
マラキ書3:1「見よ、わたしはわが使者をつかわす。
彼はわたしの前に道を備える」
マタイ「Ἰδοὺ ἐγὼ ἀποστέλλω τὸν ἄγγελόν μου πρὸ προσώπου σου, ὃς κατασκευάσει τὴν ὁδόν σου ἔμπροσθέν σου」
マラキ書「ἰδοὺ ἐγὼ ἐξαποστέλλω τὸν ἄγγελόν μου καὶ ἐπιβλέψεται ὁδὸν πρὸ προσώπου μου」

だいたい同じ意味になるいくつかの異同の中に一つ決定的な違いがある。
「ἀποστέλλω」と「ἐξαποστέλλω」は
どちらも「使わす」とか「送る」とかの意味。
「κατασκευάσει」は「つくる」。
「ἐπιβλέψεται」は「見通す」、
ここでは「測量する」、つまり(道を)「備える」とも訳せる。
決定的なのはマラキ書の「προσώπου μου(わたしの前に)」が「προσώπου σου(あなたの前に)」になっている事。
単なる誤字かとも思ったのだがマルコやルカも「わたし」を「あなた」と書いており、おそらく七十人訳からの改ざん。またここはヘブライ語の原文でも「わたし」である。

…となるとマルコからマタイ、ルカと揃って(多分意図的に)やらかしたか。最初期からキリスト教がヨハネ派を乗っ取りにかかったのは先述の通り。つまりヨハネを「使い」に、イエスを「あなた」とし、ヨハネはイエスの踏み台であると宣言する為にマラキ書を書き換えた訳である。
ただし一番古いマルコは預言としてここを使っているが、イエスの言葉にしたのはマタイとルカ。なので、イエス自身が預言を捻じ曲げてヨハネ派を乗っ取りにいったか否かに関しては留保をつける必要は大いにある。

なおマラキ書はこの後神に従う者が生き残り、そうでないものが焼き尽くされるという、聖書でよくあるアレ。この後4:5「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」と続くので、この「使者」はマラキ書においてはエリヤとしか読めない。

12:7 イエスは自分の倫理を疑ってなかったらしい

「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』
とはどういう意味か知っていたなら、
あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
8 人の子は安息日の主である」
ホセア書6:6「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
9:13と同一箇所の引用。こちらは弟子が安息日に禁じられていた事を咎められての返答。「人の子は安息日の主である」は…自分は神に等しい、あるいは神であると宣言しているようにしか見えない。そろそろ雲行きが怪しくなってきたぞ。

さーてナザレのイエス自身がヨハネ派を乗っ取りにかかったのか否か。個人的にはイエス自身にはそんな発想はなかったようには見えるが…

次回は大量の文章&マタイオリジナルの改ざんが疑われる箇所に入る。
一旦ここで一区切り。


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