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死者たちのエロ本 ~脱輪のおすすめ本3選~

第一章 作者の死去
この回想録を書くにあたり、それを最初から始めるか、あるいは最後から始めるか、しばらく決めかねていた。つまり、冒頭に私の誕生を持ってくるか、それとも死にするかということである。通例ならば、誕生から始めるのが相応しいということになるのだが、二つの理由から別の手法を採用することにした。まず一つめの理由として、私が正確には死んだ物書きではなく、物を書く死人であるということが挙げられる。そういうわけで、墓は第二の揺りかごなのだ。


死んだ作者が墓の中から生涯を語り始めるーー
マシャード・デ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』(伊藤奈希砂/伊藤緑訳、田所清克解説、国際語学社、2008)の刺激的な冒頭部分だ。


全160章からなる短い断章によって構成された本書では、人生のきらめきや苦悩を語る言葉が親しげなユーモアとまばゆいポエジーを連れてひょっこり顔を覗かせる。

突如、「これ倅(せがれ)よ、このままでは人生とはいえぬ」という声がした。父だった。ポケットに二つの提案を携えてやって来たのである。私は旅行鞄に腰かけて、まったく動揺することなく父を迎えたのだった。父は立ったままわずかの間じっと私を見つめていたが、感極まって私に手を差し伸べた。「倅や、神のご意志に従うのだ」「もう従っていますよ」と答え、父の手に口づけした。

ある日の朝、屋敷の周りを散歩していた時のことである。ある考えが私の脳裏にある空中ブランコにぶら下がるようになったのである。一旦ぶら下がるとその考えは腕や足を振り始め、想像し得る限り最も大胆な綱渡り芸人のごとく離れ技を披露して見せた。私は立ち止まってじっとそれを見つめていた。突如、その考えは大きく跳躍したかと思うと、両腕と両足を大きく拡げて、ついにはX(エックス)の形になったのだった。


例えて言うならイケてるTwitter、目で食べる詩。おいちおいち!😋🍴と食べ進むうちあっという間にかっぱえびせん。
むずかしいことはなにもない。われわれはただ「物を語る死人」の奔流のごとき語りに身を委ねればいい。思春期のありがちな失敗に共感しつつ苦笑いを浮かべ、恋人との今生の別れに涙を流し、一人の男の栄光と挫折から人生というものに思い馳せるーー
小説はひとつの経験であり、旅である。読む者に取り返しのつかぬほど魅惑的な変容をもたらす旅。
優れた小説は、靴紐を固く締め、やや緊張気味に自室を後にした頃の自身の姿を思い描くことがもはや困難な地点へと、高く高く、読者を放り投げる。
ここはどこ?わたしはーー
しばし途方に暮れた後、投げ出された地点からおそるおそる踏み出される最初の一歩。かつてともに旅した者たちの声を脳内に巡らせつつ、また新たな物語の語り手となって。
読者であることの幸福は、放り投げられる体験とその対決との間に横たわっていると言っていい。


💀


ぼくらはみんな生きている。
生きているから笑うんだ。
それだけで十分なはずなのに、なぜかしら、自己について語る営みをやめられない。
人間だもの!
つまり、われわれは人生というゲームのプレイヤーであると同時に、その模様を外から語る実況者でもある。
「選ぶべきだ。生きるか、物語るかー」
みつをの次に偉大な哲学者サルトルはそう言ったが、生きながら物語ることだってできるのではないかしらん?というのが僕の提案だ。
本書の語り手が死者であり、日常的な次元とは異なる世界から言葉を発しているという事実はだから、ひとつの本質を突いた真理でもある。
なぜなら、“語るわたし”はある意味で“生きるわたし”とは独立した生を生きているからだ。
言葉は他者であり、語りは死の世界から聞こえてくる呼び声であり、われわれはその親しげで不気味な声に耳を傾け、うまく折り合いをつけていかなければならない。
あらゆる動物の中で人間だけが二重化された生のややこしさに出会う。“語るわたし”と“生きるわたし”の分裂は、コミュニケーションを巡って時に様々な困難や障害をわれわれにもたらすが、しかし、例えばあなたが小説やフィクション、他の誰かの物語をまるで自分のことのように楽しむことができるのは、まさにこの歯痒さのゆえなのだ。
あらかじめ“生きるわたし”の中に“語るわたし”という他者が内包されているために、見知らぬ他者の物語に共感を寄せ、自分ごととして味わうことが可能になるのである。
お茶代はそのささやかな証明にほかならならない(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)っ🍵オチャ


💀


パンチラインという言葉がある。
ヒップホップ用語で、「ボクサーのパンチのような衝撃をもたらす一撃必殺のフレーズ」をいう。
パンチラインが発見されるのはしかし、なにもラップの言葉の中だけではない。
哲学者ニーチェは「神は死んだ」というパンチラインを放ったし、ジョン・レノンは「ビートルズはキリストより偉大だ」というパンチラインを繰り出しマスコミから袋叩きにあった(笑)
文学、とりわけ海外文学もまたパンチラインの宝庫。だが実を言えば、それ以上にクールでかっこいい、痺れるような打撃の連続を味わえる行き過ぎたドMにはたまらないジャンルがある。
それが批評だ、と言えばあなたは驚くだろうか?
ジャン=ピエール・リシャール『フローベールにおけるフォルムの創造』(芳川泰久+山崎敦訳、水声社、2013)は、そんな驚きと戸惑いを殴って殴って殴り倒し、あなたがタップした後も永遠に殴り続ける強烈なパンチラインブックである(笑)


「でも、ヒヒョーの本なんでしょ?
ほんとにおもしろいの?
タイトルからしてなんかむずかしそうだし·····🤔」
もっともな意見だ。
たしかにこれはフランスの文豪フローベールに関するまじめな文学批評の本であり、生半可な理解を許さぬ難物である。
著者のリシャールは“テマティスム”(テーマ批評)というメソッドの発明者で、本書は、フローベールの小説の全作はもちろん、友人や恋人、家族に宛てた手紙から非公開の日記にまで目を通し、批評対象がこの世に書き残した言葉のすべてを数年がかりで熟読することによって(!)フローベール作品の中から一貫したテーマを取り出すことを試みている。
でもそんなの関係ねえ!!!
そう、関係ない。
大切なのは、とにかく文章の一文一文、言葉のひとつひとつが死ぬほどかっこいいということだ。
帯文に引用された言葉からしてもうヤバい。

恋する者は、液化するまえに、愛のなかでねばつく。

なんたるパンチライン!
一撃でノックアウト、だまってレジへと直行である(笑)
とはいえあなたは不思議に思うかもしれない。
「まじめなブンガクヒヒョーの本で、“愛”·····?🤔」
いい質問ですねえ。
実のところ、本書の内容は文学批評などではない。画期的な恋愛マニュアル、もっと言えば世界一かっこいいエロ本なのである(笑)
嘘ではない。
以下、フローベールの代表作『ボヴァリー夫人』を対象に、リシャールが「ねばつき」「生地(ペースト)」というテーマを作中から取り出しつつ分析を行っている箇所を読んでみてほしい。

愛もまた吐き気である。愛のなかで存在はゆっくり腐ってゆく。と同時に、みずからの発汗に誘われて、相手も腐ってゆく。愛する者は骨格を失い、可塑性そのものとなる。エンマを待つレオンの「両手はみだらな湿り気をおびていた」。そしてこの手が欲望の対象の女の手にふれてその湿り気を感じるとき、ふたりの両手は、どこまでも柔らかく驚くほどよくのびる、同じひとつの生地(ペースト)のなかで、べとべとにからみつくことになるだろう。

ひいーーーっ!!!
なんだこれ!!!!!!!!!!!!!!!
そこらの文学作品とポルノグラフィーが尻尾巻いて巻いた尻尾を繋いでなかよく逃げ出すほどのエロさとかっこよさである。
さらにはこう。

もはやそうなればエンマもレオンもなく、ただひとつの生地(ペースト)しか存在しない。ふたりは緊密に一体となり、姿をなくしてしまうが、それでもなお快楽の本能的な動きによって、たがいに「こね」あい、たがいを識別しつづける。類似しているがこれほど完全ではない仕方で、フレデリックはマリー・アルヌーの手を握って、「彼女の皮膚のあらゆる微粒子のなかに浸透してゆくように」感じる。愛とは肉の相互浸透である。そのなかで個人は個人として存在することをやめるのだが、しかしそれでもひとつとなった生が脈打ちつづける。愛はそれぞれを相手のなかに沈めるというより、ふたりをひとしく肉の匿名性のなかに沈める。

はあ·························(深いため息)
もはやなにも言うことはない。
批評の言葉が他のすべてのジャンルの言葉を遥かに上回るほどクールでかっこよく、ときに現実に肉薄するなまなましい強度を持ってこちらに迫ってくるという点をわかってもらえればそれで満足だ。
リシャールの文体は僕のひとつの理想だが、リシャールと違ってはずかしがりやさんの脱輪は書くふりをしながらはずかしがってばかりいる(はよ書きなさい!)


💀


さて、最後はラッパー、音楽家、文筆家、批評家、ラジオパーソナリティーと多彩な面を持つジャズ・ミュージシャン菊地成孔のエッセイ集『スペインの宇宙食』(小学館、2003)を推すハラしてみよう。


菊地成孔という人は脱輪というあーちすとの元ネタというかチャラさのロールモデルのような人で、昔からその仕事ぶりには変わらぬ敬意と共感とを抱き続けてきた。
ある時期まですべてのアルバムを聴きすべての文章を読んでいたほどのファンだが、なんといってもなるたそ(僕が勝手に呼んでいる愛称)の魅力はこの第一冊目にとどめを刺す。
マシャードの黒いユーモアとリシャールのエロスを合わせ持ちつつ、無数の死者たちの声をポリフォニー(交響曲)のように響かせた劇場。それは菊地がテナーサックスを演奏するライブハウスであったり、ガールズバーとキャバクラの間に挟まれた映画館であったり、吐瀉物が撒き散らされた裏路地であったりする。
ただひとつ一貫しているのは、「他者と徹底的につき合う」という精神分析的な生き方と「音楽によって憂鬱を官能に、絶望を爆笑に変える」という芸術家としてのポリシーだろう。
菊地の作品のすべてがそうであるように、本書にもまた多量の毒が含まれているが、毒は用法を誤らなければ薬にもなる。
本書が持つ毒素は僕の内部に深く浸透し、四肢を痺れさせつつ病んだ魂を癒し続けてくれている。
これについてはしかし、実際に本書を読んで“くらって”(衝撃を受ける、の意。ヒップホップ用語)もらうのが一番だろう。
代わりに個人的な思い出を少々。


💀


僕が20歳の時、菊地成孔がペペ・トルメント・アスカラール(スペイン語で“甘い色男の砂糖漬け”)というバンドを引き連れて京都のKBSホールでコンサートを行ったことがあった。
なるたそが来る!憧れの人に会える!と、今と変わらず素直でかわいかった僕はどきをむねむねさせつつ会場に足を運んだ。
ライブの内容は置くとして、終演後菊地のサイン会があった。みながぺぺの新作アルバムを携え列に並ぶなか、僕一人だけが読み返しすぎてぼろぼろになった『スペインの宇宙食』をぎゅっと握りしめていた。
自分の番が来たーー
「あ、あの、こんばんは!ライブ最高でした!」
「ははは、ありがとう」
「今日友達もライブに誘ったんですけど」
「ほう」
「今ダンテに夢中だからって断られました」
「あははははははははははは!それおもしろいね、おもしろい(笑)」
「ꉂꉂ(ˊᗜˋ*)ʬʬ ♡♡ 」
「あ、宛名どうする?」
「あー、あの、脱輪で!」
「だつりん?」
「はい、わがぬげると書いてだつりんです」
「ふ~ん。表紙裏でいい?」
「はい!」
(マジックペンでさらさらサインした後、愛用の香水ティエリー・ミュグレーのエンジェルを本が溺れ死ぬほど振りかけてくれる)
「はい」
「ありがとうございます!」
「ところでさ、なんで脱輪なの?」
「あ、あの、ライターネームで、脱輪って名前で雑誌とかに書いてて」
「そーなんだ!ホストかと思った!(笑)」
「ホストじゃないですよ。そんな源氏名のホスト絶対売れないでしょ!(笑)」
「いやなんか、そーゆーのが好きな特殊な顧客でも付いてんのかと思って(笑)」
「そーゆーのってなんですか(笑)」

愉快な思い出だ。
今でも僕が持っている『スペインの宇宙食』からは、数年前に廃番になったエンジェルの独特の匂い、鼻を刺す甘い芳香が漂ってくる。
さて、ライブが跳ねた後、大満足のていで家に帰りつき、幸福な一日の記憶を追体験すべくサイン本を開いてみた。
そして一言。
「だつゆやないかい(笑)」




おしまい😇


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