コミュニケーション>批評>翻訳>説明>わたし

いっつも「批評とは結局説明である」って言ってるけど、本当は「翻訳」の方が近い。
批評はある作品や作家が持っている“言葉”を自分の言葉に翻訳する過程において、ある程度他者との間で共有可能なものとして成立しはじめた範囲の説明に過ぎず、そこには必ず余剰がある。
私という存在が翻訳されつつあった痕跡が。


それはなにものかがわたしにこすりつけたにおいの臭跡であり、発見した時には既に書かれた後だから、いつも必ず間に合わないものとしてわたしの前に姿を現す。
だから、批評家は共有可能なものを解き明かそうとして、結局それより多く共有不可能なものの存在を明かしてしまう。
なぜできないのか?
どこに壁があるのか?
問いを突きつめていくと、「あらゆるすべての事件の真犯人=壁は、わたしという認識の主体である」という結論にならざるを得ない。
この時初めて、翻訳されるべき対象としての私が目を覚まし、こちらを見つめ返す。


生まれて間もない私がもぞもぞとうごめくなら、わたしは不可能な私をそれでも翻訳し続けていかねばならない。
かくして批評家は単に作品や作家を論じる範囲を超え出、「わたしの余剰を新たに引き受けはじめた私」を人目に晒し篩にかけるための試練としてのコミュニケーションの場に連れ出される。


結果として批評家は、自らの割り切れなさ=固有性の奥深くへ降りて行こうとすればするほど、他者とのコミュニケーションの場において常により一般的なものに、うまくすれば最も一般的なものの手によって裁きを受けることになるだろう。
批評家は大衆の批評対象にならなければいけないし、なによりも“私”自身が強くそれを望むのだ。



野生動物の保護にご協力をお願いします!当方、のらです。