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リスク回避の違和感

わがことの鹿庭です。4月は高齢で山に登れなくなったタケノコ農家さんに代わり、ほぼ毎日タケノコを掘りにいっていました。タケノコの収穫は慣れてはいますが、まだまだ力が入りすぎるところがあり、昔の人の体の使い方がいかに上手だったかとより実感した1ヶ月でした。

世の中に「リスク」というものはたくさんあります。日常のほんの小さなことから人生を左右するような大きなものまで様々ですが、みなさんはそのリスクとどう向き合っていますか?

先日のこと、親戚で集まる機会がありました。みんなで食事をしていた時、いとこの2歳の子供がまだ熱いトウモロコシを食べようとしていました。すると周りの大人たち4〜5人が「まだ熱いよ!」「アッチアッチよ!」「フーフーしなさい」「まだ食べれんよ」とみんなでその子がトウモロコシに手を伸ばすのを阻止。その子の「リスク」を回避してあげようとみんな親心なのです。
ただ、僕にはその子の表情が「なんで目の前に大好きなトウモロコシがあるのに食べられへんねん!」「なんで大人は食べてるのに僕は食べたらいかんのやねん!」と言ってるかのように見えるのです。笑
そこで、いとこに「一回触らせてあげてみたら?火傷するような温度じゃないし、自分で体感しないとなんで食べれないのかわからんよ」と伝え、いとこも納得してその子の思うままに触らせてみました。
案の定「熱っ!」となって、目を丸くして手を引っ込めました。でもすぐに自ら一生懸命フーフーし始めたのです。そして少し冷めたトウモロコシを美味しそうに食べていました。
よく子供には、成功体験が大事と言われます。それと同じように、失敗体験も必要なのです。大人は経験してきているので、何がリスクで何が安全なのかを知っていて、子供の失敗を未然に防ごうとしてあげます。
しかし、子供はなぜ止められてるのかわかりません。そして理不尽に止められて不満が残り、結果何がリスクなのかわからないままになるのです。

子供連れの家族がいるとよく耳にするのが、子供が何かをする前に制止させる声。親としては子供が怪我などをしてはいけないから、気持ちはわかります。ですが、子供はまだ何がリスクかもわからないうちに止められて、そのリスクを知らないまま成長していくのです。
子供の体がしっかりしてくると、いろんなところに登ってみたり、危なっかしいところを歩いてみたり、どこでも走ってみたりするものです。大人は「危ないからやめなさい」と言うのです。しかし「危ない」がどう言うことなのか子供はまだ知らず、もし何も知らないまま成長していくと、いざリスクに遭ったとき、それを防ぐ方法も回避する方法も対処する方法も、なにもわからないままなのです。
簡単に言うと、走って転けたことがない子供は、転けない走り方、滑った時にバランスをとる体の使い方、転けたときの手のつき方や体のさばき方がわからないので、いざ本当に転けたときに思いがけない大怪我をすることがあります。
親心があまりいきすぎると、子ども自身がリスク回避をする感覚を上手に身につけられず、それを見て親はイライラしてしまったり悩んだりしてしまうことがあるようですね。大人は子供が何かをしている時、大怪我や命に関わるような危険がないように見守ったり、すぐに手を差しのべてあげられるようにしてあげたいものですね。最初はなかなか面倒なのですが、実はその方が後々になって子供は自分である程度身を守れるようになると思います。

と、ここまでは子供のお話。
今の世の中、大人になってきてもいきすぎたリスク回避や間違ったリスク回避が多いように感じます。何か本質とずれているような…
例えば、コロナ禍のマスク。なぜほとんどの人がマスクをしていたのでしょうか?もちろん最初は感染防止が目的でした。ですが、1年2年とほとんどの人がマスクをしていても感染者数は増えたり減ったり。食事の時は外して会話し、食事が終わったらつけて、というカタチだけの感染対策が日常になっていたように見えました。
そして、そこに違和感を感じつつも、マスクを外せない人が多かったように思います。マスクをすることによって、呼吸が浅くなり血中酸素濃度が薄まり、結果免疫力を下げると言う専門家や医師の研究結果を聞いたとしても。マスクをすることで、何のリスクから守っていたのでしょうか。コロナウイルスではなく「世間の目」から自分を守っていたのかもしれません。

例えば今、政府が推し進めているLGBT理解増進法案。LGBTQの人たちが安心して暮らせる社会を目指す、というものです。LGBTQの人たちが差別されるリスクを無くそうというもの。しかし日本は先進国の中で、法整備がもっとも遅れているとメディアは言っています。
同性婚を認め、ジェンダーレストイレを設置し、男女同じ制服を着て、保健体育では同性の性行為を子供に教え、スポーツでも身体的な男女の区別を曖昧にしたりすることが、差別というリスクを無くすと言うことだと本気で思っているなら、人間というものの本質をみれているのかな?と投げかけざるを得ないでしょう。
「差別」と言うものは、目に見える垣根や仕切りのようなものではなく、個人の心のあり方からくるものだと思います。いくら法律で権利や施設の使い方を決めても、心の中で認め合えないのであればそれは差別です。そしてこういう違和感を持っていたとしても、それを口にすると差別者扱いされるリスクを恐れ、多くの人が「触らぬ神に祟りなし」であることが多い世の中になってきているのではないでしょうか。実際のLGBTQの方達の思いは置き去りになり、法律だけが先走っているように見えます。
差別、それは法律によって無くせるものではなく、人間の心のあり方であり「隣人を愛せる心」が本物の秩序や法律を作るのだと思います。
本質的な愛がなければ、リスクを避けようとする行いもさらに大きなリスクを招くことになりがちなのです。

「違和感」をもつことはとても大切。
今の日本社会、一見僕たちはさまざまなリスクから守られているように感じるかもしれません。保険、助成金、手当、補償、教育、医療、生活保護なども含めてリスクを軽減してくれるものが溢れているようにも思います。ですが、なぜか多くのリスクに直面しています。直面していることにすら気づいていないこともあります。
もしかしたらいつのまにか大人たちは、本当のリスク回避の仕方を忘れてしまっているのかもしれません。リスクを恐れず本質と向き合い、乗り越えることがいちばんのリスク回避だと思うのです。

僕自身、こう言うことを書くと批判的な意見を頂くこともあります。ですが、そのリスクは承知の上で、今後の世の中の更なるリスクが少しでも減ることを願い、自分の感覚を研ぎ澄ませていこうと思います。



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