見出し画像

「もとの身体に戻りたい」  将来の夢よりも治療を優先 20代女性が意見陳情~子ども甲状腺がん裁判始まる

 東京電力福島第一原発事故による、放射線被ばくの影響で甲状腺がんを発症したとし、 事故当時福島県に住んでいた6〜16歳の男女6人が、東電に計6億1600万円の損害賠償請求を求めた訴訟の第1回口頭弁論が、5月26日に東京地裁(馬渡直史裁判長)で開かれた。

 6人の原告は甲状腺がんの手術前夜とおなじように、不安で眠れ夜を過ごし、この日を迎えたのではないだろうか。

 「なぜ原告が6人しかいないのか」「なぜ提訴まで11年もかかったのか」。裁判の冒頭、原告側の河合弘之弁護士は次のように説明した。

 「甲状腺がんと原発事故は、因果関係がはっきりしないのだから、そのことを言うべきではないという圧迫的な社会的な空気が強いのです。その中で原告らは増していく症状、 苦しさに耐えかねて11年経ってようやく提訴するに至ったのです」

手術しないと23歳までしか生きられない

 そして、固く口を閉ざしてきた甲状腺がん患者が、原告として意見陳情した。

 原告の入廷直前、法廷にはパーテーションが設置され、傍聴席からは証言台が見えないように遮蔽された。誹謗中傷や差別から、原告を守るための措置だ。

 事故当時中学3年生だった、原告の20代女性は「あの日」のことから振り返った。11年前のあの日、3月11日は中学校の卒業式だった。友達と「これで最後なんだねー」 と何気ない会話をし、部活の後輩らと写真をたくさん撮った。地震が起きた時は、友達とビデオ通話で話していたが、揺れは強まり通話は切れた。

 原発事故を意識したのは、原発が爆発してからだった。翌12日に1号機、14日に3号機、15日には4号機も爆発した。16日は高校の合格発表だった。地震の影響で電車は止まっていたので、歩いて学校まで行った。発表を聞いた後、友だちと乗降口の外で長い間立ち話をした。

 「その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした」

 その日、県庁所在地の福島市では、毎時20マイクロシーベルトを超えていた。事故前よりも500倍高い放射線量だった。

 甲状腺がんは県の検査でみつかった。この時のことは今でも鮮明に覚えているという。新しい服とサンダルを履いて、母親と一緒に検査会場に向かった。

 検査にどれだけの時間を要したのだろうか。首にエコーを当てた医師の顔が、一瞬曇ったように見えたのは気のせいだったのか。

 「母に『あなただけ時間がかかったね』と言われ、『もしかして、がんがあるかもね』 と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした」

 検査の結果、精密検査が必要になった。病院で血液検査をし、穿刺吸引細胞診(せんしきゅういんさいぼうしん)もすることになった。喉元に注射針を刺し細胞を取り、良性か悪性かを診断する検査だ。

 「この時には、確信がありました。私は甲状腺がんなんだと」

 10日後、担当の医師はがんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明した。

 「その時、『手術しないと23 歳までしか生きられない』と言われたことがショックで今でも忘れられません」 

 法廷は水を打ったように静まり返っていた。

将来の夢よりも治療を優先

 手術の前夜は、全く眠れなかった。不安でいっぱいで、泣きたくても涙も出なかった。「でも、これで治るなら」と思い、手術を受けたという。術後、声が枯れ、3か月くらいは声が出にくくなってしまった。

 大学入学後、がんが再発した。治療に専念するために、大学は辞めざるを得なかった。

 「『治っていなかったんだ』『しかも肺にも転移しているんだ』とてもやりきれない気持ちでした。『治らなかった、悔しい』この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした」

 がんは肺やリンパ節にも転移していた。「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」と思い詰めた。2回目の手術の後、首には大きな手術跡が残った。リンパ節への転移が多く、傷は大きくなった。鎖骨付近の感覚もなくなり、今でも触ると違和感が残ったままだという。

 「自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようになりました」

 2回の手術の後、肺転移の病巣を治療するために、アイソトープ治療も受けた。高濃度の放射性ヨウ素が入ったカプセルを服用して、がん細胞を破壊する治療法だ。外来で2回受けたががんは消えず、3回目は入院することになった。

 入院してヨウ素を服用した夜中、急に吐き気が襲ってきた。「私は、それまでほとんど吐いたことがなく、吐くのが下手だったため、眼圧がかかり、片方の目の血管が切れ、目が真っ赤になっていました」。

 治療後は、唾液がでにくくなり、水分の少ない食べ物が飲み込みづらくなった。味覚も変わってしまった。

 「この入院は、私にとってあまりにも過酷な治療でした。二度と受けたくありません」

 傍聴席のあちこちから、すすり泣く声が聞こえた。

もとの身体に戻りたい

 そんな辛い思いをしたが、治療の効果は出なかった。

 「以前は、治るために治療を頑張ろうと思っていましたが、今は『少しでも病気 が進行しなければいいな』と思うようになりました」

 がんになってから、将来の夢よりも、治療を最優先してきた。大学も、将来の仕事のための勉強も、楽しみにしていたコンサートも、全部諦めてしまった。

 「でも、本当は大学を辞めたくなかった。卒業したかった。大学を卒業して、自分の得意な分野で就職して働いてみたかった。新卒で『就活』をしてみたかった。友達と『就活どうだった?』とか、たわいもない会話をしたりして、大学生活を送ってみたかった。今では、それは叶わぬ夢になってしまいましたが、どうしても諦めきれません」

 同級生たちは、すでに大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っている。そんな彼らを、羨望の眼差しでみてしまうという。「友達を妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い」と涙ぐんだ。

 治療のかいなく、体調はどんどん悪くなっている。疲れやすくなり、手足の痺れや腰痛などに悩まされている。息がつまったような感覚にも襲われる。また、手術をした首の前辺りがつりやすくなった。

 「自分が病気のせいで、家族にどれだけ心配や迷惑をかけてきたかと思うととても申しわけない気持ちです。もう自分のせいで家族に悲しい思いはさせたくありません」

 女性は涙をこらえ、最後にこう訴えた。

 「もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います」

争点は被ばくとの因果関係

 この裁判の中心となる争点は、放射線被ばくと甲状腺がんとの因果関係だ。原告側は、がんになった原因は被ばくと推定されると主張。

 その根拠は1子どもの甲状腺がんは年間100万に1人か2人しか発症しない稀ながん2福島県では、事故後38万人の子どもから、少なくとも293人の甲状腺がんが発症3子どもの甲状腺がん発症の一番の危険因子は被ばくなどとし、因果関係は疫学的に立証できるとしている。

 一方、東電側は答弁書で「原告らはがんを発症するほどの被ばくはしていない」などと反論している。

 弁論の最後に原告弁護団は、次回以降も原告の意見陳情を認めるよう求めた。東電側は「争点整理を優先すべき」だとしたが、陳情については「裁判所に判断を委ねる」と述べた。

 次回の口頭弁論は、9月7日に開かれる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?