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noteに書きとめたいこと(と、創作童話をひとつ)。

noteに記事を初めて投稿して、20日程が経った。

元々何を書こうと決めてアカウントを開設した訳ではない。強いて言えば、短文を呟くならツイッター、まとまった長さの小説を投稿するのはピクシブを既に利用しているので、それ以外の長文、例えばエッセーのようなものを投げる場所を作っておこうという程度だった。ただ、そうやって新しい場所を開拓すると、書きたいことが案外色々出てきた。

でも、よく考えてみると、そのほとんどが自分個人についての話題なのだ。

例えば、自分が今まで作ってきた絵や詩や小説のこと。自分に影響を与えてきたアーティスト達のこと。自分と周囲の人間との関わりのこと。

何も、自分について書くことが悪いことだとは思っていない。確かに、過度に華美な自分語りは煙たがられるし、後に自分で読み返したときに恥ずかしくなることもあるだろう。しかし、インターネットの片隅に独り言を放流する分には前者の懸念は薄いだろうし、後者についても、私はそこまで気にしない性分だ。

むしろ、私は普段から、自分の今の思考を文章をはじめとする作品に残すという作業を大切にしている。今この瞬間の自分というのはその一瞬にしか存在しないのだし、そのとき触れているものや考え、関わっている人なども、絶えず変化していく。したがって私が作る作品もそのときの私にしか作れないものであって、それをみすみす逃してしまうのは大変もったいない。それに、過去の自分が残した作品を見ると、自然とその延長線上にある現在の自分を見つめることもできるのだ。

だから、自分の話を書いていきたい。このnoteを、誰か特定の人間に聞いてもらおうと思うと気が引けてしまうようなくだらない話でも、小説や絵の芯にはならないようなちょっとしたことも、書きたいと思ったときに書いていくような場所にしていきたい。

……と、そんなことを考えていたら、即興で短い童話のようなものができた。ちゃんとした記事はまた今度書くことにして、今日はこれを置いておこうと思う。



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活字の部屋


どこまでもどこまでも続く、広い広い部屋。ここには、たくさんの棚がきっちりと並んでいて、さらに、それぞれの棚の中には、もっとたくさんの、数えきれないほどの活字が詰まっています。活字はなんとなく意味が似ているものが固まって置いてあるようですが、ここがどれだけ広いのかは分かりませんから、どこに何の活字があるのかも知ることはできません。この場所を、「世界」とか、「宇宙」とか呼ぶ人もいます。

私は今、この部屋の棚の間を歩いています。手には、文選箱という小さな木箱を持っています。そして、時々立ち止まって、目の前の棚の中から活字をひとつ拾い、この文選箱に入れます。普通本を作るときには、印刷したい原稿を片手に持って、それに合わせた活字を拾っていきますが、私はそのような見本の原稿を持っていません。ただ、そのときどきに目に留まった活字を、ひたすらに拾い集めていくだけです。

この場所には、私の他にもたくさんの人がいます。みんなそれぞれが、私と同じように、それぞれの文選箱に活字を入れています。私は時々、すれ違う人に会釈したり、少し立ち話をしたりします。時には誰かについて行ってみたり、反対に誰かについてきてもらったりもします。そうやって、私の文選箱には、色々な棚の活字が少しづつ増えていくのです。

さて、私は今、印刷所にやって来ました。ここでは、今までに拾ってきた活字の中からさらに文字を選り抜いて並べ替え、機械にセットして紙に印刷することができます。印刷機の形や大きさは様々で、インキの色や紙の質感も人それぞれ違います。今日は、ついさっき拾った活字を使って短い文章を印刷してみることにしました。

なめらかな白い紙に青っぽいインクで文字が刷られたポストカードが、十枚ほど出来上がりました。私はそのうち九枚を、そのままポストに投函しました。そして残った一枚を、大事にしまいました。

私は今までに、こうしてたくさんの文章を刷ってきました。それらの中には、このようにポストに投函したものもあれば、誰にも見せずにしまい込んでいるものもあります。たったひとりの大切な人に差し出したものもあれば、もうどこへやってしまったのか分からないものもあります。

そして、私はまた、活字の棚の間を歩きはじめました。片手に持った私だけの文選箱に、毎日毎日、新しい活字を入れながら、私はいつまでも歩き続けます。

この文字が、私だけの物語になるのですから。


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(見出し画像は、印刷博物館 印刷工房にて撮影しました。)

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