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もし私が文芸を学ぶ道に進んでいたら

逆説的に言えば、「なぜ私は文芸を学ぶ道に進まなかったのか」。


大学受験の頃、私の第二志望以下はほぼ全てを文学部が占めていた。普段から、私の本質は”詩人”だと思うだの、宮沢賢治の作品に人生を変えられただのと豪語している人間だから、そういった学問分野に乗り出そうとするのはごく自然なことだ。

しかし実際のところ、私は第一志望の大学に合格し、美術教育を学んでいる。昔から絵や工作が好きてだし、どちらにしろ教員免許取得は目指すつもりだったから、こちらもまぁ無理はない。

正直、どちらの道に進むことになったとしても、私は楽しく学んでいたと思う。今色々な画材や表現方法で作品をつくったり美術史や鑑賞法を学んだりしているのと同じように、文章を書いたり読んだり文学史や批評を学んだりしていたことだろう。

では、何故私は第一志望を文学部にしなかったのか。

言ってしまえばよくある話だ。それは、「一番好きな領域を侵されたくないから」。


私が文章を創作するのは、何よりも自分のためだ。

絵画、音楽、小説などなど、「表現」のための手段はたくさんある。私はその中のいくつかを普段から使っているが、よく振り返ってみると、私の中でどんな表現よりも先に生まれるのは、言葉なのだ。

何かに心を動かされたとき、いつの間にか頭の中にたくさんの言葉が渦巻いて収拾がつかなくなることがある。これはどうにも手に負えない、と考えていると、渦巻く言葉の断片に詩や小説のかけらが浮かび上がってきたりする。それをすくい上げて整った文章にしてやると、少しだけ頭の中がすっきりするのだ。嬉しくて楽しくて仕方ないときにも、不安で苦しくてやりきれないときにも、こうして言葉を綴ることが、私を支えている。

最近はこのようにして整えた言葉を日常的にインターネットに放流するようになってきたが、誰かに見てもらうということは元々二の次にすぎない。むしろ、抱えている気持ちを誰にも話せないときに、代わりに文章という方法を取ることが多いのだから。これはあくまで目に見えるひとり言なのだ。


美術を学んでいると、色々な場面で「アートと社会の繋がり」が話題に上る。元来アートは、社会に参加するために、或いは社会に何かを訴えるために使われてきた、ということらしい。至極もっともな話。

私はその考えを興味深く学び糧とする一方で、同時に、じわじわと心が痛めつけられていくような気持ちさえ覚えてしまう。

それは、私が生きるために日々行っている「自分のための創作」が無視されているような印象を受けてしまうからだ。

私がこうして自分を救うために創作をしているのは、そのために様々な表現方法を体験し習得しようとしているのは、そしてそのように作られた他者の作品を共感をもって鑑賞するのは、未熟で無価値なことなのだろうか?

そんなはずはない。そう思いたいし、きっと他の学問分野を探ってみれば、そういった創作活動が肯定的にとられている文脈もあるだろうと思う。なにせ、この世界は学べば学ぶほど知らないことが見えてくるのだから。


こうして悶々とした思考を文字に吐き出していると、やはり私の大学選びは間違っていなかった、と思う。美術という領域を社会のために明け渡したとしても、文学という一番頼れる領域は、私だけのものにしておけるじゃないか。

私はいかにも内省的で、いつまで経っても自分のことしか考えようとしない。それでも生きている以上社会に貢献できる方法があるとしたら、このまま美術の教員を目指すことが一番だと今は考えている。

そう決意しつつ、それでも自分として生き続けるために、面白い本を読み面白い人と話し、そして自分のための物語を書き続けることを許してほしい。



(見出し画像は、以前デザインした原稿用紙風アクリルキーホルダー。boothで販売中。)

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