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「暇」について考える

頭を使って何かを考えている時間がとても好きで、その時間自体に価値はないのかもしれないけれど、自分のなかではいろいろと生まれている感覚があって。

「行動する」「考えて動く」「アウトプットする」など、成果にこだわるにはその発信にも力を注がなくてはならないのは、そのとおりなんだけど。

次どうしようか、こうしようかと思っているとき、自分の身体はとても身軽でどこへでも行けそうな自由さがある。ずっと続けばいいのに、とは思わないがその可動域の広さにはつい甘えてしまう美しさもある。

米津さんの過去のブログを遡って読んでいたら、「暇」というタイトルのブログがあった。他にもおもしろい切り口の記事があったけど、個人的にはこれが一番なるほど、と思った。

暇について。余った時間やすることがない状態(Wikipedia)に使われるけれど、今の自分はこれかもしれないと思った。

時間を持て余している。やることはあるけど、机のすみに寄せては焦燥感がたらたらと流れる時間を過ごしている。

いや、やらなきゃいけないんだけど。吹っ切れていない感じというか。別にマイナス思考とかではなく。ただそういう時間なんだろうと。

今が生産的な時間なのか、ただ溝に捨てているだけなのかは現時点では答え合わせはできなくて、自分の今後が明らかにしていくものだと思う。そのときに後者だったとは思いたくないから、結局頑張らないとってなるわけで。

そんな何者でもない自分が取れる選択肢は多いのか少ないのかと問われたら、たぶん年齢的にはたくさんある気がするけど、意外とそれほど多くはないのではないか。この時間にこの決断をするって連続をどんどん重ねていかないと進める範囲が狭まっていく気がして、その疲労とかにやられてしまっているんじゃないだろうか。

そういうことを考えるにも時間って資源は使われて、何に時間を使うかと何に使わないか、の判断軸があるのとないのとでは歩く未来は全然違うよなあと思う。思ってる。

哲学は終わりがないからこそおもしろいが、終わりがないからこそ沼にハマる。幸か不幸かで考えると、短尺では楽しいけれど、長期的に見たらどっちなんだろうか、となって、つまりわからない。

しかし、考えることはやっぱり楽しい。考える力をどんどん生かして仕事や生活のあらゆるところに活用したい。今の時点で、暇があるからこそ「余白」が生まれるのだと思う。余白をどう使うかが大切になる。




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