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正義の味方

【あらすじ】
 企業の若手顧問弁護士である「私」は自身のキャリアのために様々な案件に対処する。
 あるとき「私」は、小さな孫を連れたおばあさんから「亡くなった息子の発明ではないか」と特許権侵害の相談を受ける。企業側の利益を守るために仕事を進める中で、「私」は自分がなんのために弁護士になろうとしたのか、はじまりの思いを取り戻していく。

 私がやっている顧問弁護士という仕事は、知られているようで知られていない。
 ハリウッド映画なんかでは、企業のピンチに颯爽と出て来て一発逆転で裁判に勝利する。みんなが持ってるイメージはだいたいそんな感じだと思う。
 それで当たらずしも遠からずなんだけど、実際は映画のように会社が乗っ取られるかどうか、なんて事件は滅多に起きない。起きるにしても、会社の乗っ取りっていうのはもっと粛々と行われるものであって、それこそ法律に則って行われるから、あまり法廷闘争って感じにはならない。むしろ経理と私たちとの半々の仕事になる。
 だいたい顧問弁護士というのは、弁護士事務所が企業と顧問契約を結んで、企業がお困りの時には優先的に事に当たりますっていうだけのことで、映画みたいに会社のトップと個人的に仲良しで、恋の悩みや人生相談まで受け付けて、週末は一緒にヨットに乗ってディナーを食べて、なんて夢みたいな話はない。
 実際の顧問弁護士の仕事は、もっと地味だ。私たちの仕事はもっとルーティン化されていて、もっと華がなくて、もっともっと数多い。
 本当に、なんでそんなことで訴えるんだっていうくらい、みんなよく企業を訴える。労災、労基法違反、セクハラ、パワハラと、そんなのどうでもいいじゃんってことまで、よくもまあ訴えるネタを見つけてくると感心するほどだ。
 この背景には明らかにアメリカの影響がある。なにかといえばすぐ訴訟。濡れた猫をレンジで温めたら死んじゃったから賠償金を払え、という訴えが認められて多額の賠償金をせしめたお婆さんの話に煽られて、日本人も訴訟大好きになってしまった。
 この話、私たちの業界では常識だけど、まったくの嘘。こういう話を聞いて我も我もとなってしまう辺り、日本人は集団ヒステリーに陥りやすい傾向があるんじゃないかと思うけど、みんなもう少しよく考えた方がいい。
 私も仕事をしていてセクハラを感じないわけでもない。でもそんなのでいちいち腹を立てたり、訴えたりしていたらきりがない。きりがない上に自分のキャリアにとってもなんの得にもならない。もしセクハラを受けたら受けたで、いざというときにそれを武器として使えばいいだけのこと。昨今の訴訟を見ていると、みんな訴えどきをわかってない。もっとも、みんながそうやってくだらないことで訴えてくれるから私たちには仕事があるわけだし、私は二十九才にして人も羨むようなお給料をもらえているわけなんだけど。
 とはいえ、私の専門はなにもセクハラ訴訟というわけではない。弁護士兼弁理士である私の専門は権利関係、特に特許に関することが専門だ。この分野の法整備と弁護士が充実したのはさっきいったアメリカの影響もあるんだけど、いちばん大きいのはお隣中国の影響。
 結局お流れになったけど、二〇〇九年に中国が導入を目指していた「IT製品ソフト設計情報開示法」が業界に与えた影響は大きかった。これは、外国企業はIT製品の制御ソフトを中国政府に対して公開しなくてはならないというもので、要するに企業秘密を明かせというものだ。
 日米欧の猛反発を喰らって成立には至らなかったものの、中国はなにをやって来るかわかったものじゃない。それに対する備えを固める過程で、各企業は特許や知的財産権に関して異常といっていいほど神経質になった。
 それは私が担当している国内特許法関連の分野にも影響して、スタッフの大幅増強がなされている真っ最中に、私はいまの事務所に潜り込むことが出来た。
 私はまだ弁護士になってほんの数年の駆け出しだけど、学生時代からずっと特許法が専門だったし、事務所に入ってからもよい仕事をしていると思う。
 ところで、よい顧問弁護士の条件てなんだと思う?もちろん訴訟に負けないことは大事だけれど、それ以上に大事なのはそもそも訴訟を起こさせないことで、こっちの仕事の方が割合としてはずっと多い。説得だったり、示談だったり、あまり大きな声ではいえない方法だったりを駆使して、訴えるぞといってくる相手を思いとどまらせる。
 私たちみたいな弁護士がいるおかげで、実際に訴訟にまで発展するケースは稀だ。年間の知的財産権関連のトラブル数万件のうち、ほんの数パーセントしか法廷に持ち込まれることはない。
 でもいざ訴訟となれば、最近の裁判所は原告の利益保護に傾き過ぎていて、ちょっとしたことですぐに特許使用の差し止め命令が出る。それだけで、設計も完了し、ラインも立ち上げ、生産も軌道に乗っている企業にとっては大打撃だ。
 だから出来る限り、訴訟に持ち込まれる前に話を付ける。
 もちろん大きな企業には法務部があって、特許の調査や申請はそちらでやっているけど、特許侵害に関係したクレームや訴訟はうちの事務所で引き受ける。要するにやっかいごとはこちらに回ってくるというわけだ。
 私の経験からいって、特許関連で訴えて来る人の約半数はお金に汚い人で、残りの約半数は頭がどうかしちゃってる人で、普段は「約」に含まれちゃってるごく少数の人がまっとうなだけだ。ただこのまっとうな人も、残念ながら法律には詳しくない。
 だから自分が考えたものと似たようなものを企業が発売すると、それは自分の発明を盗んだものだと訴えて来る。企業がその発明について特許法で完全に守られていても、彼らはそんなことは知らないから。
 私は企業と契約している事務所に勤める人間だから、当然企業の利益が最大になるように働く。
 特許というのは、なにかを発明した人がその利益をきちんと受けられるようにと定められたものだ。発明者が利益を受けられなければ誰も発明なんかしようとは思わないし、発明しても公開しようとは思わない。
 そして発明が利益をもたらすというのは、そもそもその発明が人々の役に立つからであって、そうでなければいくら特許を持っていても意味はない。
 企業としては第三者の特許を拝借するよりも、自らが持っている特許を利用した方がいい。その方が話が早いし、余計な特許使用料を上乗せせずに商品化出来る。特許使用料を上乗せしなくて済むということは価格を引き下げられるということであり、その分多くの人が商品が持つ恩恵や利便性に与れるということだ。
 だからそれを阻もうとする人、そしてあわよくば濡れ手で粟の利益をかっさらっていこうとする人を、私は容赦なく攻撃する。


「こんなことやられたら、うちは商売どころじゃありませんよ」
 苦笑いしながら、吉田さんはいった。
 吉田さんは、吉田金型製作所の社長さんだ。彼の経営する製作所では、うちの事務所が顧問契約をしている会社が販売する携帯電話やスマホの金型を造っている。
「クライアントとしても、吉田さんの会社を潰そうだなんて思っていないんですよ。吉田さんのところは技術レベルも高いですし、いろいろと無理なお願いにも応えていただいていますから」
 その吉田さんの会社が、金型製作の特許についてクライアントと争う姿勢を見せた。
 争点となっている金型製作方法というのは、従来のプレス方法よりも軽量かつ複雑な形状を非常な強度で製作出来るもので、とても薄く、デザイン性に富んだ携帯を造ることが出来る。
 その製作方法はクライアントが吉田金型製作所に技術指導したものだ、というのがこちらの主張だ。もちろん特許も取ってある。
 ところが、その技術は自社で開発したものだというのが吉田さんの主張だ。だから特許使用料(私たちプロは実施料という)を払う必要もないし、逆にクライアントを通じてその技術を使用している他の製作所に使用料を請求したいという。
 顧問弁護士事務所としてはそんなものに応じるつもりはさらさらなく、不当な請求だとしか思えないし、思わない。
 当然、吉田さんにはその訴えを取り下げるようにお願いした。しかし吉田さんは、件の金型製作方法はあくまでも自分の会社が編み出したものだから、裁判ではっきりさせたいという。
 だから、はっきりさせてあげることにした。いくつかのおまけを付けて。
 金型製作の特許以外に、私たちは二件ほど特許侵害で裁判所に差止め請求を出す準備がある。
「故意過失要件の立証責任は被告側にありますので、吉田さんが私たちの訴訟内容について否定されるのでしたら、ご自分で自己の行為の具体的様態を明らかにしなければならないんです。特許法の一〇三条と一〇四条の二、それから民事訴訟規則七九条の三に基づいて」
 私は吉田さんが事態をよく飲み込めるように、噛み砕かずにいった。法律的な内容を理解出来るかどうかと、事態を理解出来るかどうかというのは別問題なのだ。この場合、吉田さんが法律を理解してくれる必要はまったくない。裁判に訴え出ようものならどういうことになるかさえ理解してくれればそれでいい。
 ありがたいことに吉田さんは物わかりがよく、「商売どころじゃない」という言葉につながった。
「うちは特許の侵害なんかしちゃいないし、むしろ逆だっていってるんですよ」
 いかにも町工場の社長という風情の吉田さんは、うちの事務所の応接室では悲しいくらい浮いて見える。
 携帯電話の製造というと、たいていの人はハイテク工場を思い浮かべるものだ。確かにチップや基盤のラインの方はそうなんだけど、ボディのもととなる金型の製作は町工場で行われていることが多い。
 日本の町工場は優秀だ。無痛注射針や手術用のマイクロ鋏、望遠鏡や顕微鏡などの光学機器、さらには小さな鈴に至るまで、あんなものを造れる工場は世界中どこにもない。
 残念なのはその製法が一子相伝だったりする上に、特許を取っていないことが多いことだ。
「それは裁判所が判断します。ただ判決が出るまでに、だいたい二年くらいかかりますが」
 これがだめ押しになる。
 自分が起こしたものも含めて、三つもの訴訟を抱えてやっていける町工場はない。あっという間に体力が尽きる。
「わかりました。訴訟は取り下げます」吉田さんは頭を掻きながらいった。「ですからそちらの方の訴えも控えていただきたい」
「もちろんです。クライアントも吉田さんとの訴訟合戦なんて望んではいませんから」
 これは本当だ。クライアントが望んでいるのは、町工場は町工場らしく大企業の意向に従っておとなしく仕事をしてくれること。訴訟なんかで煩わされたいとは思っていないのだ。
「じゃあ、先方にもよろしくお伝えください」
 部屋を出て行くとき、吉田さんの唇が「くそ女」と動くのがちらりと見えたけど、それは褒め言葉として受け取っておく。
 こうして私はまたひとつ、事務所の期待に応え、クライアントに降りかかる混乱を未然に防いだ。


 続く一件は、誰にとっても楽勝のはずだった。なぜならまったくの素人が、個人の特許の帰属を争うといってきたからだ。素人だから、当然そんないい方はしていなかったけど。
 それどころか、この人は裁判所に行くのでも、行政書士のところに行くのでもなく、直接クライアントのもとに乗り込んで来たのだ。
 こういう手合いは、だいたいが自分の頭の中にあった発明を誰かが盗んだとかなんとか、そういうトンデモなことをいい出すに決まってる。人の頭の中を覗ける装置があるのなら、企業はあなたの発明なんか盗まずにその装置を商品化しようとするはずだ。彼らはそういうことすら理解出来ない。この人たちが行くべきは裁判所ではなく、病院だ。
 クライアントも適当にあしらって、うちの事務所に行くようにいったんだろう。顧問契約を結んでいると、こういうおかしなのも気軽にほいほいよこされる。もちろんこちらは契約に則って仕事をするし、規定以上の手間を取られたらそれも契約に則って追加料金を請求するから一向に構わない。
 それに私はまだ事務所の主力というわけじゃない。だからこういう人たちをうまく処理することのひとつひとつが大事なキャリアになっていく。
 私のキャリアとなるべく事務所にやって来たのは、訴訟とはまったく縁のなさそうなおばあさんと小さな男の子だった。
「会社の方に直接いらしたそうですね」
「小宮山です」と深々とお辞儀をするおばあさんに、私はソファに座るようにうながした。「ええ、あの、どなたに相談していいかわからなかったものですから」
 私は、「どうぞ」とおばあさんにお茶を勧めた。半ズボンの男の子にはオレンジジュースだ。ちなみにどちらも私が自ら運んで来た。
「ご迷惑だったでしょうか」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ただ会社にはそういったお話を聞く部署がありませんので、私が伺わせていただきます」
 お話を聞いて、説明をして、納得をして帰ってもらう。そのために、私は誠心誠意出来る限りのことをする。お茶だって自分で運ぶし、相手が年配の方ならクライアントといわず会社という言葉を選ぶ。
 それくらい相手のことを配慮して、しっかりとわかっていただく。あなたの訴えには意味がないということを。
「それで、どういった内容でしたかしら」
 だいたいのところはクライアントから聞いているけど、こうやって話をさせることで相手がどの程度かを推し量ることが出来る。
 目の前に座っているのがごく普通に見える年配の方であっても、私が油断することはない。
「あの、こちらの会社で今度発売された携帯電話なんですけども、それがうちの息子のものなんじゃないかと思いまして」
 説明はまずまずまともかな。しかし息子というのは、まさか隣でストローの端を噛んでいる半ズボンのことではないだろう。
「これなんですけどね」
 おばあさんはデパートの紙袋から、クリップで留められた薄い書類を取り出した。様々な図面、数式、私には意味不明ないくつもの書き込み。
「これは、設計図ですか?」
「さあ、私にはよくわかりませんので」
 自分でもよくわからないものの特許を侵害されたといって訴えて来るのはご遠慮いただきたい、と私は思った。もちろん、そんなことはおくびにも出さない私の顔にはずっと笑顔が貼り付けてある。
「この子が携帯電話のコマーシャルを見たときに、『パパの電話だ』っていいましてね。それで、いろいろ探しましたらこの子の机の中からこの書類が出て来たんです」
「どの携帯ですか?」
 おばあさんは、今度は紙袋からパンフレットを取り出した。
「これです」
 お年寄りにとっては、スマホもフィーチャーホンもどちらも携帯電話だ。そのパンフレットは、うちの事務所のクライアントがつい先月発売したばかりのスマホのものだった。四枚の紙のように薄いディスプレイを、それこそ四ッ折りにした紙を開く要領で広げられることが売りの新機種。たたんだままでも、画面にタッチして通話もメールも可能。さらには同じ機種を最大四台連結して、一枚の大きなディスプレイとして使うことも出来る。マイクとスピーカーとカメラは四枚のディスプレイのうち一枚の隅にL字型に配置され、フレームは広げているときも気にならないほどに細い。
「他に資料はございませんか?」
 私は訊いた。
「この書類じゃ、わかりませんか?」
「これだけですと、すぐにはお返事いたしかねます」
 あたりまえだ。
 おばあさんが持ち込んだのは特許登録謄本でもなく、特許申請書でもない。手描きの小汚い書類なのだ。中にはマグカップを置いた痕や、折り目の付いてしまっているものまである。
「これを書いたご本人にいらしていただいて、直接お話を伺えれば早いんですけど」
 書類の内容がわからないおばあさんに来られても、こちらとしては話の進めようがない。当の息子さんはいったいなにをしているのやら。
「息子は少し前に他界しまして」
 おばあさんは普通の調子でそういったから、息子さんが亡くなったショックから立ち直るだけの時間は経っているということなのだろう。
「そうでしたか、失礼しました。ご愁傷さまです」
 それなら、どうしようもない。
「では、こちらで詳しく調べさせていただいてもよろしいですか?」
 私は書類を両手でまとめた。
「ええ、どうぞ、お願いします」
「これは、オリジナルですか?」
「え?ええと」
 現代の言葉が通じないからといって、私は苛ついたりしない。貼り付けた笑顔のまま、私は訊き直した。
「写しですか、それとも本物ですか?」
「ああ、ええ、本物です」
「でしたら、コピーを取っておいた方がいいですね。少々お待ちください」
 私はいったん席を立った。
 オリジナルを預かったって私はなくしたりしないし、ましてやわざと紛失するような真似はしない。しかしこの辺をきっちりやっておかないと、あとで揉めることもある。
 ほんの数枚しかない書類のコピーはすぐに済んだ。
 オリジナルをおばあさんの目の前で封筒に入れて返却し、「出来るだけ早くご連絡しますから」といって二人を送り出した。
 立ち上がるときに「いたたたた」と膝をさすっていたおばあさんに、私は駆け寄って手を貸してあげた。そして部屋を出るとき、おばあさんはただでさえ曲がっている腰をさらに曲げて、「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返していた。
 本当をいうと、おばあさんが他になにか決定的な証拠を持ってでもいない限り、すぐに返事をすることは可能だった。クライアントはこのスマホに関する特許をひとつ残らず取得しているでしょう、登録謄本もないあなたに勝ち目はありません、と。でも納得がいくように、しっかりと法的根拠を固めてあげよう。
 私は終始笑顔を心がけていたし、息子さんが亡くなったと聞いたときには哀悼の意も表した。だからおばあさんの主張が無効だとわかっても、恨まれることはないだろう。私は親身になって話を聞いてくれた、心優しい親切な弁護士先生だ。
 ただコピーから戻ったとき、あの半ズボンがおばあさんに「あのお姉ちゃん、どうしたの?」とささやいているのを私は聞き逃さなかった。私がドアを開けた途端に男の子は口を閉じてしまったから、なんの話をしているのかまではわからなかったけど。
 私のことをおばちゃんではなくお姉ちゃんと呼んでいたから気にしないでおいてあげるけど、おかしなガキだ。


 翌日の朝いちばんから、私はその一件に取りかかった。まずは昨日コピーを取った書類の確認からだ。
 この件についての結末はもうわかっているから、これはおばあさんを納得させてあげるための材料集めに過ぎない。ちょろっとやって、はい、おしまい。
 おばあさんの持って来た書類には、作成された日付すら書かれていない。それが書かれていたってなんの証拠にもならないから特許申請をしておかなければならないのだけど、それにしたってひど過ぎる。息子さんがいつ亡くなったのか知らないけど、この書類を作ったのが息子さんだという証拠もない。
 書類の一枚目には、ひとつの四角形が四つに開かれていく様子が描かれていた。といっても、ラフなスケッチに過ぎないそれは、縦に長く書かれた漢字の「田」と大差ない。
 二枚目。そこにはさっきより大きな四角形が二つ描かれ、各辺に書き込みがされている。一方の四角形には『蒸着式』とか『ブリッジ』とかいう単語や、『相互連結端子はバネで背面に引き込み』などという注釈。もう一方の四角形には『同期信号送受信部』とか、『連結用磁石格納部』などと書いてある。
 おばあさんに返してしまったものの代わりに駅前の携帯ショップでもらって来たパンフレットと見比べれば、コンセプトが同じなのはわかる。ただ技術的な内容まではパンフレットからはわからないので、クライアントから細かい技術仕様書を送ってもらう。
 それを見て、私は目を丸くした。
 仕様書の内容が、おばあさんの持って来た書類に記されていたものとそっくりだったのだ。ケーブルの収納方法とか細々した端子の位置とかはより洗練されているけど、二つの書類は同じものを表しているとしか思えない。
 私は技術仕様書の内容をもとに、「ほら、こんなに違うでしょう」とおばあさんに教えてあげるつもりだった。数値や規格のことまではわからなくて構わない。見せつけて、「違う」と感じてもらえればそれでいい。書類の作成日が云々というのでは、「生前に書いているのを見た」だなんだと水掛け論になって鬱陶しいからだ。しかしこれでは、「ほら、同じでしょう」としかいいようがない。
 こうなると、可能性は三つだ。
 一、このスマホのコンセプトおよび基本設計はクライアントが考え、おばあさんの息子がパクった。
 二、このスマホのコンセプトおよび基本設計はおばあさんの息子が考え、クライアントがパクった。
 三、このスマホのコンセプトおよび基本設計は両者が独自に考え、たまたまそっくりだった。
 三番目の可能性はまずありそうにないけど、どの場合でも私にとって重要なのは、クライアントがこのスマホに関する特許をきちんと取得しているかどうかだ。
 私はクライアントの法務部に問い合わせ、四ッ折りスマホに関する特許番号を確認。そのひとつひとつを念のために特許電子図書館で照会した。
 結果、問題なし。
 クライアントは四ッ折りスマホ関連の特許を、ひとつ残らず完璧に取得していた。
 私はおばあさんに電話して、その旨を伝えた。
「お持ちいただいた書類に書かれている携帯電話と新発売になった携帯電話とはとてもよく似ていますけど、特許はすべて会社の方で持っています」
「そうですか、でもねえ」
 でももなにも、これだけしっかり特許を取られていては、おばあさんには手の出しようがない。
「あの子はこの携帯電話が売り出される前にこれを書いていたんですよ」
 ほら来た。みんなそういうことをいう。俺が先だ、私が先だ。でもそんないい分、特許登録の前ではなんの役にも立たない。法律は文句言いのためにあるのではなく、それを遵守し、行使する人間のためにあるのだ。
「息子さんがこの書類をいつ書いたかという確実な記録はありませんか?」
 それがあったって、特許登録していなければ意味はないけど。
「さあ、私はそういうことはよくわからないものですから」
 じゃあ誰ならわかるのよ、といいたい気持ちを抑えるのには多少の自制心が必要だった。
「どなたか、わかる方はいらっしゃいませんか?旦那さんですとか」
「あいにく、主人ももうおりませんで、わからないんですよ。それで、どなたかにお願いしようと思いましたので」
「息子さんはこれをどこでお書きになったんでしょう?そこになにか残っているかも知れませんが」
 もしまだ他になにかあるなら、とっとと出してもらって、処理してしまいたい。あとからぽろぽろ出て来て、いつまでも関わり合いになるのはごめんだ。
「さあ、工場こうばかしらねえ。家の中にはあまりこういうものを持ち込んで来ませんでしたから」
工場こうばですか」
 昨日は書類を受け取るだけで帰してしまったから詳しいことを聞かなかったけど、亡くなった息子さんは旦那さんの跡を継いで小さなバネ製造工場をやっていたらしい。「工場こうばの方はそのままにしてありますから、よかったら見てやってもらえませんか」
 年寄りというのは、なにを考えているのかわからない。おそらく法律のことなんてなにも知らないから、私が公正中立な立場だと思っているのだろう。私がその工場こうばでなにか決定的な証拠を——そんなものがあったとしての話だけど——見つけて、こっそり処分してしまうかも知れないなどとは露ほども疑わない。
 もちろん私は不正を働くつもりはない。ただただクライアントの利益を守り、私のキャリアにとってプラスになることが大切だというだけだ。
 ありそうにないけど、三つの可能性のうち二番目が大当たりで、しかもなんらかの形で証拠が残っている場合、クライアントにとっては鬱陶しいことになる。それは防がなければならない事態であり、今後に火種を残さないようにしっかりと潰しておかなければならないことだ。
 この時点で、私にとっては十分に鬱陶しい。どうして私が町工場まちこうばなんかに出向かなければならないのか。うっかりすればそこらに転がっている金屑でパンプスに傷が付くし、髪に油の臭いが染み付いたらその日一日ブルーになる。そんな臭いは、女が漂わせていいものじゃない。
 それでも、私には魔法の言葉がある。その言葉を唱えれば、私にはなんだって出来る——『仕事だから』


 町工場といってもそのスケールは様々だ。町内の一区画を占領するような大きなものから、家のガレージ程度の慎ましいものまで。
 おばあさんに教えられた住所にあったのは、その中でも最小の部類に入るものだった。看板には色褪せたペンキで、『有限会社 小宮山撥条』と書いてある。閉ざされたままのシャッターからは、物音ひとつ聞こえて来なかった。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか」と何度か声を張り上げると、開いたのは工場のシャッターではなく隣の民家のドアだった。
「わざわざすみませんねえ」
 顔を出したのは、先日事務所に来たあのおばあさんだった。
「工場の方はもう動いていないんですか」
「ええ、息子が亡くなりましてから、閉めてしまっているんです」
 私は工場ではなく、おばあさんとあの男の子が住んでいるという家の方に案内された。
 通された部屋は畳敷きで、懐かしいちゃぶ台のある部屋だった。襖の向こうに見える仏壇からは、線香の煙が立ち上っている。これが私の訪問に合わせて仕組まれた演出だとしたら、たいしたものだ。
「どうぞ、召し上がってください」と、おばあさんは赤い急須からお茶を入れてくれた。
「おかまいなく」
 気持ちはありがたいけど、私はここに世間話をしに来たのではない。とっとと工場を調べて帰りたいのだ。
「お茶うけ持って来ましょうね」
 おばあさんはまた膝をさすりながら立ち上がる。そうまでされて席を立つわけにもいかず、私は黙ってお茶をすすった。
 戻って来たおばあさんの持つお盆に載せられていたのは、私が久しく目にも口にもしたことのない醤油せんべいだった。
「旦那さんですか?」
 私は襖の間にかろうじて見える遺影の方へ目を遣った。
「ええ、主人が亡くなったのはずいぶん前ですけど」
「息子さんはいつ?」
「三年前になります。交通事故で亡くなってしまって。そのあと一年もしないうちに、悦子さんも亡くなってしまって」
 年寄りの話には、突然新しい登場人物が現れる。悦子さんというのは、どうやらなくなった息子さんの奥さんらしい。
 そうか、奥さんも亡くなっていたのか。私はおばあさんが孫を連れて事務所に来たのは、奥さんが仕事かなにかで子供をおばあさんに預けているからだとばかり思っていた。
 じゃあ、このおばあさん一人であの男の子を育てているんだ。
「主人と息子夫婦で隣の工場をやっていましてね。このご時世ですから、バネなんか作っててもちっともお金にならないんですけどね。
 息子も若い頃は工場をたたもうっていってたんですけど、主人が自分にしか作れないバネがある、だから俺が生きてるうちは工場を続ける、息子のおまえが跡を継ぎたくないなら好きにすればいいって、そういって続けてたんですよ。
 そのうち、いつの間にか息子も工場を手伝うようになってくれて、大学を出てからは一緒に働くようになってくれたんです」
「そうなんですか」
 一子相伝、受け継がれる匠の技。日本の技術の底力だ。
「主人が亡くなって、息子が跡を継いでくれて、悦子さんがお嫁に来てくれて、二人でどうにか工場を切り盛りしてくれてました」
 目の前の茶碗をじっと見つめて話すおばあさんは、終始懐かしそうな顔をしている。
「五年前に孫が生まれて、私にもよくしてくれて、いいお嫁さんでした。私ね、悦子さんがお嫁さんに来るときに、バネ工場なんて食うや食わずの生活だけどいいのって訊いたんですよ。そうしたら、私は小食だから大丈夫ですなんてね。
 それが、息子が死んですぐになんとか肝炎っていう病気になってしまって、亡くなってしまったんです」
 症状が出てすぐに死亡するというのなら、おそらく劇症肝炎だろう。
 年齢的に旦那さんを亡くすというのは、仕方ないとはいわないけれど、道理ではある。だけど息子とその奥さんまでとは、不幸というのはどうにも偏る。
「息子が死んでからね、悦子さんはまだ若いんだから誰か探して再婚したらっていったんですよ。慶ちゃんのためにもその方がいいって」
 慶ちゃんというのは、あの半ズボンのことに違いない。
「でもね、悦子さんはそんなこと出来ませんって。バネを作るのは無理でも、パートでもなんでもしてこの子は自分で育てますって。私のことも面倒見てくれたんですよ。実家には弟がいるから大丈夫ですっていって」
 おばあさんは顔を伏せてしまった。
「悦子さん死ぬ前にね、何度もすみません、すみませんって。私に謝ることなんてなんにもないのに、ずっとそういってたんですよ。
 慶ちゃんにもなんにもしてあげられなかった。でもパパはね、とってもすごい人で、みんなの役に立つものを発明したのよっていってました」
 で、それがあの四ッ折りスマホだっていうんでしょう。
 おばあさんの不幸な境遇には同情を禁じ得ない。だけどそんなお涙頂戴話は、法律の前では意味がない。そんなに子供が可愛いなら、悦子さんも息子さんも、死ぬ前にきちんと特許を申請しておくべきだったのだ。それがだめなら、実用新案申請でもいい。
 法改正にともなって申請が減ってきているとはいえ、特許に比べて取得が簡単な実用新案は、町の発明家にとってはまだまだ利用価値がある。
「工場の方を見せていただいてよろしいですか」
 私はまだ半分以上お茶が残る茶碗を置いて立ち上がった。
 経済を動かすのは、涙ではない。


 しばらく稼働していないとはいえ、工場内にはまだ鉄と油の臭いが立ちこめていた。灯りのスイッチを入れると、電灯からはわずかにぶうんという音がする。
 ないな、ここには。
 直感とかそういうものではなく、工場内の様子に基づく推測だ。
 コイリングマシンとか、端面研磨機とか、私が仕事上やむなく覚えてしまった機械たちが並べられた工場内には、落ち着いて書類を書けるようなスペースはない。それどころか、机ひとつ見あたらないのだ。所狭しという感じがするのはその機械のせいばかりではなく、実際に建物自体が狭いからでもある。
 私は一応、工場内を見て回った。
 こういう町工場でものを作っている人は、往々にして設計図を描かない。頭の中で線を引いて、そのまま機械に向かっていきなり完成品を作り出してしまう。その様子はまるで魔法だ。
 ときどき外部から持ち込まれる設計図は、一瞥をくれただけで丸めてほったらかしにされていたりする。
 老境を迎えた男性と、まだ若い息子、そしてそのお嫁さん。ここで忙しく立ち働いていた人たちがいまはもうこの世にいないかと思うと、胸に迫るものがある。
 でもそれは、私にはどうでもいいことだ。私が感情に流されて判断力を鈍らせることはない。私の仕事に必要なのは冷静さであって、アドレナリンではないのだ。
 あの書類がクライアントの特許取得より早く書かれていたという証拠がなければそれでよし、もしあるのなら私はクライアントの損害を最小限に抑えなければならない。そのために、およそ考えつくありとあらゆる手段を講じる。
 法律というのは強者の味方でもなければ弱者の味方でもない。法律は中立公正なのだ。そして有利に扱われたいと思ったら、そのために行動しなければならない。息子さんはおそらく、それを知らなかったのだろう。
 私は機械の裏まで見てみたけど、見つかるのは私のストッキングに穴を開けてやろうと待ち受けるらせん状になった金属の切り屑だけだった。
「なにもありませんね」
 部屋に戻って、私はおばあさんに告げた。もちろん、こういう時の枕詞、「残念ですが」を忘れずに。
「そうですか、どうしたらいいんでしょうねえ」
「事務所の方で、息子さんのお名前で特許申請されていないか調べてみます。それから悦子さんの名前でも調べてみますね」
 そういって立ち上がろうとしたとき、玄関のドアが開く音がして、「ただいま」という声が聞こえた。
 廊下を駆けてくる音に続いてがらりと障子を開けたのは、あの小さな男の子だった。
「こんにちは、お邪魔してます」
 私は振り返って、笑顔で挨拶した。
「こんにちは」
 男の子は小さな声で応えると、おずおずと部屋に入って来ておばあさんの横に座った。私の横を通るときに、わざわざ遠回りをしてだ。
 見た目はこの年齢の子供なりに可愛い。だけど態度は可愛くない。両親を亡くしていることを差し引いても、あれはない。
 おばあさんは、「ジュース持って来てあげようかね」といって台所の方に行ってしまった。ジュースくらい自分で取りに行かせればいいのに。そうやって甘やかすから、こういうガキに育つんだ。
 それでも私は、声のトーンを少しだけ高くして話しかけてあげた。
「今日は幼稚園だったの?」
「うん」
 あたりまえだ。こんな子供が平日昼間に一人で行く場所など他にない。ましてや頭に黄色い帽子をかぶって、水色のスモックを着ているとなれば。
「なにをして遊んできたのかな」
「お絵描きとシーソー」
 それだけで一日潰せるとしたらたいした才能だと思ったけど、子供というのは自分の記憶の表層にあるものだけを話すのだろう。
「お姉ちゃんは?」
 ここで「おばちゃんは?」といわれても、私は笑顔を崩さなかっただろう。たとえはらわたが煮えくり返っていたとしても。
「お姉ちゃんはね、おばあちゃんに頼まれたお仕事をしに来たの」
 私の返事に、男の子はぶんぶんと首を横に振った。
「どうして泣いてるの?」
「え?」
「お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」
 そういって、上目遣いに私の顔を窺う。
 おいおい、それはいったいなにごっこだよ。最近の子供はどういう教育をされてるんだ?
 こう見えても私はお仕事の真っ最中で、あなたのお父さんが遺したっていう設計図が残念ながら無意味だと確信したところだ。仕事に燃えるキャリアウーマンここにあり。
 それを、なにを血迷ってこのガキは。
 それでも私はそんな気持ちを表に出したりはしない。他所様よそさまの子供がどんな教育を受けていようが私の知ったことではないし、この子と会う機会だってもうないだろう。そんな子供のことを気にしてなどいられない。
 おばあさんが台所から戻ってくるのと入れ替わりのタイミングで、私は席を立った。
「私はこれで失礼します」
 おばあさんは、「持ってってください」と醤油せんべいを何枚か持たせてくれたけど、どうしろというんだ、こんなもの。


「これって無理ですよねえ」
 事務所に戻った私は、おばあさんの件を先輩の三井さんに報告した。どうにかしてくれという意味ではなく、どうにもならないことを確認するためだ。
「だめだね。クライアントがきっちり特許登録してるんだから、ひっくり返らないよ」
 それは私が出した結論と同じだ。三井さんと同じ結論に達したということは、私の判断は間違っていないということだ。
「外部の人なんでしょ。三十五条だってだめじゃん」
 三十五条というのは、会社の従業員が仕事の上でなにかを発明して特許を取得した場合、その会社は特許の使用にあたって実施料を払わなくていいという特許法の条項だ。
 三井さんがいっているのは、もし例の息子さんが会社の従業員だったとしても三十五条があるから実施料は受け取れないから残念でしたということではなく、そうであったとしてもクライアントは守られるから大丈夫ということだ。
 もちろん、クライアントが正当な対価を支払っていることが前提になるけど、そもそも今回のケースでは従業員が相手ではないのだからどこにも引っかからない。
 私もまったく同意見。
「そうですよね、終了ですね」
「その人の持ち込み企画で、クライアントがなにか他に契約結んであるなら別だけど」
 それはまあ、クライアントに問い合わせてみてもいいけど。でもそんな契約結んでるなら、最初からこちらに回されてきたりはしないだろう。クライアントの法務部の方で、「これこれこういう契約で」って説明してあげれば済む話だ。
 じゃあもう一度だけ、おばあさんとクライアントに確認して終わりだ。
 翌日、私はまずおばあさんに電話を掛けた。
「息子さんは、会社にその書類を持ち込んでいましたか?」
「さあ、どうでしょうかね。私はあんまり仕事のことは知らないものですから」
「なにか覚えてらっしゃることはありませんか?会社となにか契約したとか、そういうお話はありませんでした?」
 なければ、これで終わりだ。
 息子さんと悦子さんの名前以外にも、孫の名前でも、おばあさんの名前でも、おじいさんの名前でも、登録されている特許あるいは実用新案はなかった。
 もちろんこの電話で、残念でしたなんていう話はしない。クライアントに確認して、少しだけ日を置いてから改めて告げる。なんならもう一度、私が自ら出向いてもいい。
「息子は会社にお話をしたわけじゃなくて、友達に話すんだっていってましたから」
「どういうことですか?」
 そんな話、私は聞いてない。
「その会社に勤めてらっしゃるお友達がいてね、その人に話すんだっていってましたけど。その人を通じて会社に話をしてもらったんじゃないかと思うんですけどね」
 そういう情報は最初にいって欲しい。これだから年寄りは。
「その人のお名前、覚えてらっしゃいます?」
「聞いたかも知れないですけど、覚えてないですねえ。なにせもう歳ですから」
 歳なのはわかってる。
 私は受話器を頸に挟んで、特許電子図書館で検索したプリントアウトをめくった。そこに発明者として載っている名前を読み上げれば、おばあさんが思い出すのではないかと思ったのだ。
 しかし、年寄りの記憶というのはあてにならない。いくら名前を読み上げても、おばあさんはわからないという。
「そうですか。じゃあ、会社の方に確認してみますね。息子さんのこと、もう少し詳しく教えてください」
 大企業相手に、「誰々さんのお友達の方はいらっしゃいますか?」などと聞いても埒が明かない。私は息子さんの年齢、出身大学等を聞き出してメモした。
 たいした情報ではなかったけど、その情報と四ッ折りスマホの開発にたずさわった人物とを付き合わせれば、ひょっとしたらその友達が判明するかも知れない。
 そのひょっとしたらは、すぐに現実になった。


「ああ、あいつ知ってるよ」
 クライアントの協力を得て探し出したその人物は、すぐに認めた。
「でも友達っていうか、あいつは大学の同期っていうだけだからね」
 忙しいから社員食堂で昼食をとりながらということになった約束に十五分ほど遅れてきたその人は、鹿島と名乗った。
「小宮山さん、もうお亡くなりになってるんです」
「そうなんだ。それは知らなかったな。もともと、あんまり親しい方でもなかったから」
 話しながら、鹿島さんは目の前のきんぴらゴボウを箸でつついている。
「三年ほど前にお会いになりませんでしたか?」
「会ったよ。会社に訪ねて来た」
「それは公式に、つまり仕事でいらっしゃったということですか?」
「いや、なんていうか、ただ顔を見に来たっていう感じ」
 大きな窓からは、林立するビルの向こうに遠く山並みが霞んで見える。
「そのときに、スマホに関するお話はなさいませんでしたか?」
「どうだったかなあ」
 鹿島さんはしきりに首をひねっている。
「なにか書類を持ってこられたとか」
「うーん」
「覚えてらっしゃいませんか」
「何年も前の話しだしさ」
「そうですよね」
 私は肩の力を抜いて微笑んだ。
 じゃあ、これで終わりだ。記録もない、特許もない、会った当人も覚えていないというのであれば、これ以上はどうしようもない。プライベートでの訪問ということであれば、来訪記録も残ってはいないだろう。おばあさんがなにをいおうと、クライアントも鹿島さんも安全だ。
「スマホの開発って、大変なんでしょうね」
 くだけた調子で私はいった。もうここからはお仕事ではなく雑談だ。私も目の前のトレーに載った四百五十円の定食に箸を付けた。大企業はこういうところがしっかりしているからうらやましい。
「そうだね、競争が激しいからね」
「年がら年中、新機種が出てますものね」
「最近はそうでもないんだけどね。春と秋に一斉に発表してるから。それでもその時期に間に合わせなくちゃいけなくてね。いちばん大変なのは技術面とのすりあわせなんだよ」
「どういうことですか?」
「スマホに限らずさ、うちで作ってるような電子機器は、やりたいことがあっても技術的に出来ないことだったらしょうがないわけ。商品にならないから。だからアイデアと技術のすりあわせが大事なの。
 たとえばスマホでネットショッピングは出来ても、商品そのものを取り出すことは出来ないでしょ。ソフトウェアをダウンロードするのは別として、服とか、靴とかさ。そういうのを実現するには、まずドラえもんが作れるくらいの技術がないとね」
「ドラえもんがいたら、スマホなんかいらなくなっちゃいますよ」
「それもそうだね。でもスマホの代わりに、みんながドラえもんを連れて歩いてるっていうのは嫌だなあ」
 私たちは町中に溢れるドラえもんを想像して笑った。
 上映中はドラえもんの電源はお切りください。
 学校にドラえもんを持って来てはいけません。
 電車内ではドラえもんの電源はお切りになるか、マナーモードをご利用ください。
「ドラえもんのマナーモードって、全身が震えるんですかね」
「それは怖いよ」
 鹿島さんみたいな仕事をしている人というのは、みんなこんな風にいつも面白いことを考えているのだろうか。
「たださ、そういうのが技術的に可能になったときのために、特許を取っておいたり、少なくとも申請だけは出しておくわけ」
 鹿島さんは説明した。専門家である私に向かって。
「でもまったく荒唐無稽なのはだめだからね。うちみたいに技術的な裏付けのある会社なら、特許も取りやすくなるんだよ。四ッ折りスマホだってさ、うちだから何年も前に特許が取れたんだよ」
 私は今日ひと言も四ッ折りスマホという言葉を口にしていないというのに。
 なるほどね。
「今度さあ、よかったら飲みに行かない?」
 普段あまり連絡を取ってもいなかった大学時代の友人がふらりと顔を見に来て、そのあとあなたの名前で特許が申請されて、その開発であなたは出世したというわけね。
「そうですね」
 私は私個人の携帯電話の番号が印刷されていない方の名刺を渡して、事務所に戻った。

「いやあ、それは限りなく黒だねえ」
 事務所に戻って報告すると、三井さんはパソコンから顔を上げていった。
「調子に乗っちゃったなあ、そいつ」
「最後は飲みに行こうって誘われましたからね。うんざりですよ」
 私は大げさに顔をしかめて見せた。
「でもさあ、どこにも小宮山さんが先にその書類を書いてましたって証拠はないんでしょ?それじゃどうにもならないよ」
 私も、鹿島さんは黒だと思う。でも裁判で黒だと証明するには、証拠が必要だ。証拠がなければ、どんなに黒くてもそれは白と変わらない。それどころか、黒光りして白に見えちゃうこともある。そして鹿島さんが、ひいてはクライアントが白だということは、事務所の、ひいては私の勝ちということになる。
「おばあさんがあんまりうるさく食い下がってくるようだったら、開発をする上での参考意見としてうかがわせていただきましたっていって、いくらか包んで持って行けばいいんじゃない?」
 私は気が進まないながら、もう一度鹿島さんに会う約束を取り付けた。本当は法務部と話をしたかったけれど、鹿島さんが私からの連絡を自分に回すようにいい含めておいたらしい。
「じゃあ、一緒に夕食でも食べながら話そうよ」
 私は不承不承、了解した。面白い人ではあったけど、私は口説かれるつもりはまったくない。
 鹿島さんが待ち合わせに指定してきたのは、ビルの最上階にある夜景の見えるレストランだった。
「正確な日付はわかりませんけど、すごく微妙なんですよ」
 食事のオーダーが済んだところで、私は話を切り出した。
「鹿島さんが小宮山さんにお会いしたのと前後して、四ッ折りスマホの特許が出願されているものですから」
 鹿島さんはしきりにお酒を勧めてくる。
「同じような時期に同じようなことを考えてる人間がいても、不思議はないんじゃない?大学でも一緒に研究してたんだしさ」
 同期だっただけっていったのよ、あなたは。
「それはそうなんですけど、客観的に見ると、おや?と思う点がなくもないんですよね」
「それはなに、僕があいつの発明を盗んだっていってるの?」
 クライアントの一員であるあなたに、私がそんなことをいうわけがない。
「そうじゃありません。ただ、先方が納得出来ないようなタイミングだと申し上げているだけです」
「それはちっとも客観的じゃないよね。小宮山の方の主観的ないい分だろ」
 もっともらしいことをいう。しかし、時間軸上に事実を配置していって、それを俯瞰したものには客観性がある。私はそういうものの見方に慣れている。
「文句いってるのが奥さんだか誰だか知らないけどさあ、言い掛かりを付けるのやめて欲しいんだよね」
 鹿島さんは二杯目のワインを注文した。
「僕はそんなの認めないよ。証拠がないじゃないか、なんていう馬鹿なセリフを吐くつもりもない。その上で訊くけど、君はどっち側の人間なの?」
 私はクライアントと契約を結んでいる事務所の弁護士だ。クライアントの利益を守ることが私の仕事だ。
「僕は全然意識してないけどさ、小宮山の話を聞いて、それにインスパイアされた点はあるかも知れない。だから小宮山の奥さんに多少お礼をしたりするのは構わないよ。ただ会社を通じてっていうより、個人的にって形だけどね」
 小宮山さんのことは、会社にはあくまでも伏せておくつもりか。
「奥さんも、もう亡くなられています」
「ああ、そう、ご愁傷さま」
 食事の手も止めずに、鹿島さんはいった。
 ここまでが、私の仕事だ。顧問弁護士としてこれ以上追求する義務はない。顧問弁護士の仕事は、クライアントの利益を守ることだ。
「食べなよ」
 食事にまったく手を付けていない私に、鹿島さんはナイフを振ってうながした。
 私は機械的に食事をとり始めた。
 私も、おばあさんに「ご愁傷さま」っていったっけと思いながら。


 午後の早い時間、まだみんながランチから戻ってこない頃に、私は小宮山さんのおばあさんと男の子を応接室にお通しした。そして、さあこれから最後の報告をしましょうという間際になって、予期せぬ人が現れた。吉田金型製作所の吉田社長が、突然やって来たのだ。
 吉田さんは私たち三人がいる応接室に、ずかずかと乗り込んで来てこういった。
「なんてことしてくれるんだ、あんたたちは!」
 突然の怒声に、男の子はびくっとして身をすくめている。
「なんですか、いきなり」
「あんたこの間、うちが訴えなければそっちも訴えないっていっただろう」
 吉田さんの一件は、この前きっちりと話が付いたはずだ。吉田さんも訴状を撤回したし、クライアントも訴えたりしていない。
「ええ、その通りに処理しましたが」
「訴えの方はな、確かに訴えられることはなかったよ。でもそのあとだ。金型の製造コストを三十パーセント下げろっていってきたんだぞ。三十パーセントだぞ、三十パーセント。出来なきゃ取引打ち切りだって脅された!」
 吉田さんの身体は怒りでわなないている。
「初めからそのつもりだったんじゃないのか。うちに訴えを取り下げさせておいて、取引打ち切るつもりだったんだろう。三十パーセントなんて、出来るわけないじゃないか。社員を食わせていかなきゃならないからあんな道理外れなことを飲んだのに、その仕打ちがこれか!」
「落ち着いてください」
 私が担当するのは訴訟を取り下げるかどうかという部分までであって、そのあとコストや取引を云々というのはまったくもってあずかり知らないところだ。
「落ち着けるか!」
 吉田さんは私とおばあさんの間の机を思い切り蹴った。茶碗とコップが中身をまき散らして転がった。
 早めに事務所に戻って来ていた他のスタッフが、騒ぎを聞きつけて応接室に入って来る。しかしみんな私より若く、こういう場面でどう対処していいかわからない。
「こうなったらもう一回訴えてやる」
「そんなことしたってだめです」
 私も立ち上がって、吉田さんを真正面から見据えた。
「いいですか、前回吉田さんが訴状を取り下げることが出来たのはなぜだかわかります?それはうちのクライアントがまだ応訴していなかったからです。今度吉田さんが訴えたら、クライアントは即座に応訴しますよ。そうなったらクライアントが同意しなければ、吉田さんは取り下げ出来ません」
 スタッフが、おずおずとおばあさんと男の子を部屋から連れて出て行った。
「今度は取り下げる気はない」
 私も一歩も退かない。
「吉田さんが取り下げる気になってもクライアントは応じません。万が一、吉田さんが一審で勝ったとしても、クライアントは必ず上訴します。その裁判だけで年間数億円かかりますけどいいんですか」
 コストダウンはどの業界でもあたりまえだ。そのために工夫したり技術開発したりして、ついて来られる企業が生き残って発展し、ついて来られない企業は消え去るのみ。それは生物の生存競争と変わらない、自然の摂理だ。自然淘汰なんだ。
「さらに先日も申し上げましたとおり、クライアントは吉田さんの会社を特許侵害で訴える用意があります。いまのところは二件のみですが、今後の推移次第ではその数が増えないとも限りません」
 私だって吉田さんの会社に潰れて欲しいわけじゃないし、社員の皆さんが路頭に迷えばいいなんてこれっぽっちも思っていない。吉田さんに個人的な恨みなんてないのだ。
 だけどうちのクライアントに牙をむき、その利益を阻害するというのであれば、私は容赦しない。それが私の仕事だ。
「侵害訴訟に無効審査請求、それをいくつも抱えてやっていけますか。もちろん吉田さんが訴え出た時点でクライアントとの契約は打ち切りになるでしょうから、吉田金型製作所の売り上げもいくらか減少すると思いますが」
 その減少額は、実際にはいくらかなどという生やさしいものではない。モデルサイクルの短い携帯電話の金型は、金型製作工場にとっては主要な収入源であり、しかもうちのクライアントは業界きっての大手なのだ。
 新しい携帯の金型製作依頼が来なくなれば、それだけで吉田さんの会社は窒息する。
「よくお考えになった方がいいですね」
 三十パーセントだろうが四十パーセントだろうが、カットしてみせるしかないのだ。それがクライアントの要求であり、時代の要請なのだから。
 吉田さんはもう一度机を蹴ると、ドアを叩きつけるように閉めて出て行った。
 なんで私がこんなことをしなくちゃならないんだ。こんなの私の仕事じゃないじゃないか。
 仕事の契約内容そのものについてはクライアントと直接やり合ってくれ。その結果として吉田さんの会社が潰れようが、社員が仕事を失おうが、それは勝手だ。
 私は、「ふんっ」と鼻を鳴らして、勢いよくソファに腰を下ろした。しばらく落ち着かないと、小宮山さんとまともに話が出来そうにない。
 外ではまだ、吉田さんが当たり散らしている物音が聞こえている。
 そこへ、そっとドアが開いて、あの小さな男の子が入って来た。確か、慶ちゃんっていったっけ。
「あのおじちゃんは、どうして泣いてたの?」
 吉田さんは泣いてなんかいないわよ。怒り心頭に発して、わめき散らしていたんじゃない。知ってた?心頭に達するじゃなくて、心頭に発するっていうのよ。あなたも大人になったらちゃんとした日本語が使えるように覚えておきなさい。ちゃんとした日本語が使えるってことは、それだけで競争相手に対して有利な立場に立てるのよ。人生なんて、いつだって競争なんだから。
「おじちゃんはね、お仕事がうまくいかなくて困っちゃったの。それを誰かに聞いてほしかったのよ」
 その競争に負けるのは、自分がそう望んだからだ。人は自分がなりたいと思う自分になるのだと、このあいだ読んだ「自己啓発本」に書いてあった。それがどんな自分であれ、自分が望む自分になるのだと。競争に負ける人間は、自ら負ける道を選んだのだと。
 慶ちゃんは、「ふうん」といって私の横に座ると、私の顔を覗き込んだ。こんな小さな子の体重でも、ソファはぐっと沈み、私の身体は少しだけ彼の方に傾いた。
「お姉ちゃんは、どうして泣いてるの?」
 なにをいってるのよ、この子は。
 吉田さんとのやりとりで多少興奮してはいるけど、私は泣いてなんかいないし、むしろクライアントを訴えるんだと息巻いている相手をやり込めて満足しているところだ。ましてや今回は上級職員もいない中、突然の訪問者をその場でねじ伏せたんだから、褒めてもらってもいい。私は私が望んだとおり、勝利への道を突き進む。
「どうして?」また、男の子はいった。
 だから、なんなのよ。
 顧問弁護士として、いいえ、それ以上のいい仕事をしたのよ!
 私は!
 たったいま!
 あれでまだ吉田さんが訴えて来るなんてことは考えられない。仮に本当にコスト削減出来なくて仕事を失うことになっても、裁判費用まで抱え込むような愚を犯すはずはない。
 私はこうやって自分の職務をまっとうし、クライアントの期待に応え、事務所に認められて、上級職員になって、ゆくゆくは独立して自分の事務所を構えるの。
 そのために高校でも大学でもロースクールでもたくさん勉強したんだし、こうやってひとつひとつ仕事をこなしてきたんだし、いいたくもないことをいって、やりたくもないことをやって、会いたくもない人に会って、下げたくもない頭を下げて、楽しくもないのに笑って、飲みたくもないお酒を飲んで、おいしくもない食事をして、誰かの弱点を見つけ出して、ほじくり返して、痛めつけて、血を流させて、はらわたを引きずり出して、二度と立ち上がれなくなるまで叩き潰しているのよ!
 私はこんなことをするために勉強してきたんでも、弁護士になったんでも、弁理士になったんでもない。もっと誰かの役に立つためだった。もっと誰かを笑顔にしたり誰かを幸せにしたり弱い人を助けてあげてへとへとになってもありがとうっていってもらってうれしい気持ちになってまたがんばろうって思ってその力で誰かを支えてあげるためだったのにごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 おばあさんを部屋に入れるのは、もう少しあとにしてください。


十一

「明日、お宅の方を調べさせてください」
 私は小宮山さんにそれだけいって、お引き取り願った。そして翌日、ふたたび『有限会社 小宮山撥条』の前に立った。
 工場内にはなにもない。それは前回来たときに確認済みだ。あのときだって私は手を抜いたりはしなかった。徹底的に探したけれどなにも見つからなかったのだ。
 だとしたら、残る可能性は家の中。
 私は失礼なくらいにずかずかと上がり込んで、真っ先に慶ちゃんの部屋を目指した。あの書類が見つかったのが慶ちゃんの机の中なら、同じ場所か、あるいはその近くになにかあるに違いないと思ったからだ。
 きっとここは、かつては慶ちゃんのお父さんの部屋だったんだろう。幼稚園児が使うにはあまりにも大きな事務机が、部屋の一角を占めていた。机の上に置かれた粘土細工やクレヨンで描かれたおばあさんの似顔絵が、無愛想な机と対照的で余計寂しい。開け放った窓では、ウィンドチャイムが軽やかな音を立てている。
 おばあさんに断って、引き出しを片っ端から空にする。
 人がなんとなくしまったものというのは、本当に見つけづらい。これがきちんとした目的を持って隠されているものなら、ある程度はどこにあるか予想がつく。ところが、「この辺に入れとこう」くらいの軽い気持ちでしまわれると、まったく見当がつかない。
 引き出しの奥、引き出しの裏、掛け時計の裏、額縁の裏、そんなところまで探してみて見つかったのは、この部屋にはなにもないという事実だけだった。
「まったく、どこにあるのよ」
 どこにあるのよもなにも、私は自分がなにを探しているのかすらわかっていない。おそらくは書類のようなもので、四ッ折り携帯のアイデアはこの日に考えつきましたと示すようなものがあるはずだと思っているだけで、それだって憶測に過ぎない。
 スカートで来たのは失敗だった。
「おばあさん、パンツ貸してください」
「パンツですか?」
 びっくりするおばあさんの顔を見て、私は慌てていい直した。
「ズボンです、ズボン」
 おばあさんと私とでは体格があまりに違い過ぎて、もんぺみたいなズボンからはすねが半分ほど覗いている。換えがないから、ストッキングも脱いでしまった。
 居間、床の間、玄関、なにもなし。
 お昼におにぎりをごちそうになった。コンビニのではなく、誰かが握ってくれたおにぎりを食べるのは何年ぶりのことだろう。
 正直にいって、おばあさんの握ってくれたおにぎりは塩がききすぎてしょっぱかった。噛むと時折「じゃり」っと音がするほどだった。こんなの食べてたら高血圧になっちゃうわよ。ましてや幼稚園児に食べさせるのは身体によくない気がする。
 コンビニのおにぎりはこんなことはなかった。
 不味いも、おいしいもなく、ただただ空腹を満たすため、エネルギーを補給するための物質に過ぎなかった。どんな味なのかも、覚えていなかった。
 おばあさんの握ってくれたおにぎりは、しょっぱかった。
 しょっぱ過ぎた。
 覚えていられる味がした。
 私は一緒に出されたたくあんをポリポリと食べ、お茶で喉を潤すと、「よしっ」と立ち上がった。
 ふたたび、捜索開始だ。
 トイレ、台所、仏間、なにもなし。
 屋根裏、床下、なにもなし。
 スパイ映画じゃないんだからとは思ったけど、やってみないことには始まらない。
 最終的に仏壇そのものまでひっくり返してみたけれど、結局なにも見つからなかった。
 私はおばあさんが、息子さんや悦子さんの死に際して書類を処分してしまったのではないかとさえ思った。
「みんなそのまんまにしてありますよ」
 そういわれると、信じるしかない。
 信じるしかないけど、なにも見つからない。
 私は精も根も尽き果てて、居間の座布団の上にへたり込んだ。家の中は、まるで竜巻が通り過ぎたあとのようだ。
 幼稚園から帰ってきた慶ちゃんがぱたぱたと部屋に入って来たけど、私は振り返る気力もない。
「慶ちゃん、がんばって探したけど、証拠能力を有するようなものはなんにも見つからなかったよ」
 五歳児にこんないい方をしてもわからないだろうけど。
「ふうん」
 五歳児はのんきな返事をする。
「慶ちゃんは幼稚園でテントウムシ見つけたよ」
「そうかあ、お姉ちゃんの探しものも見つかるといいんだけどねえ」
 あれ?
「ねえ、慶ちゃん。慶ちゃんはどうしてあの携帯電話がパパのだってわかったの?」
「ママが教えてくれた」
「いつ?」
「お誕生日の日」
「誰の?」
「慶ちゃんの」
 子供との会話というのは、メールより効率が悪い。
「いつの誕生日?」
「この前の」
「だって慶ちゃんのママは……」
 こういうとき、どういう言葉を使えばいいか迷う。
「二年前に、いなくなっちゃったでしょう?」
「うん、死んじゃったよ」
 子供は苦手だ。
「でも教えてくれたもん」
 慶ちゃんは私の手を引っ張って、悦子さんに会わせてくれた。
 そうか、悦子さんが。
 おばあさん、みんなそのままにしてあるなら悦子さんのズボン貸してくれればよかったのに。


十二

 それは十七枚のディスクに収められ、その一枚一枚に手書きで「お誕生日おめでとう」と記されていた。四才から二十才まで、慶ちゃんが毎年の誕生日に一枚ずつ見られるようにと、悦子さんが病室で録画した映像だ。
 ベッドに身を起こした悦子さんは、薄手のカーディガンを羽織って優しくこちらに話しかけてくる。でも微笑んではいても、ゆっくり上下する肩からはなにかに耐えている様子が伝わって来る。
『慶ちゃん、五才の誕生日おめでとう。
 幼稚園のお友達とは仲良くしていますか。来年はもう小学校ね。背は高くなったかな。好き嫌いしてると大きくなれないから、おばあちゃんが作ってくれるご飯、しっかり食べるんですよ。
 小学校に入るとね、お勉強が始まります。国語、算数、理科、社会。ママはね、国語が得意だったのよ。得意っていうか、好きだった、かな。慶ちゃんが小さい頃、ママ、たくさんお話を読んであげたでしょう。覚えてる?ママはね、ご本が好きだったの。
 テストの点はあんまりよくなかったから、慶ちゃんにもあんまり勉強しなさいっていえないわ。でも、もしそのお勉強が楽しくて好きになれたら、一生懸命がんばってね。たくさんお勉強すると、いろんなことがわかってとっても楽しいのよ。
 パパはね、算数と理科がとっても得意だったの。だから慶ちゃんのおじいちゃんと一緒に、工場でいろんなものを作っていたのよ。慶ちゃんのお部屋の窓に、きれいな音が出る飾りがあるでしょう。あれはね、ウィンドチャイムっていって、慶ちゃんが生まれたときにパパが作ってくれたのよ。
 ときどき変なものを作っちゃう人だったけど、とても楽しい人だったわ。あるとき、ママにバネで出来たブローチを作ってくれたんだけど、髪が絡まって取れなくなっちゃって大変だったの。「隙間は樹脂で固めてあるから大丈夫」っていってたのに。
 でもね、パパは生きてるときにすごい発明をしたのよ。携帯電話があるでしょう、わかるかな?もしもしするやつね。その携帯電話をね、ちょっと待ってね。
 ほら、この紙みたいにね、ぱたぱたって折ったり開いたり出来る仕組みを考えたの。「四ッ折りは二ッ折りの二倍偉い」って自慢してたわ。こっちが表で…、あってるわよね?
 発売されたら、お友達に自慢しちゃっていいからね。でも、ちょっとだけだよ。
 パパはね、お友達にお願いしてこの携帯電話を作ってもらうことにしたの。パパの工場じゃ、携帯電話はちょっと無理だからね。
 慶ちゃんもお友達は大事にするのよ。慶ちゃんが困ったとき、きっと助けてくれるから。それに慶ちゃんも、お友達が困っていたら助けてあげて。
 ママも、パパの作った携帯電話で慶ちゃんともしもししたかったな。でも、ちょっと無理みたい。
 じゃあ、今年も良い子でね。お誕生日おめでとう』
 優しい人だ、悦子さんは。それに、強い人だ。死の床にあって、自分が決して見ることのない息子の未来に向かって笑顔で話しかけている。
 それを見て、この人はなにを思うのだろう。友人の妻の死を、ステーキを頬張りながら「ああ、そう、ご愁傷さま」で済ませたこの人は。
「悦子さんが亡くなられたのは、いまから二年八ヶ月前です」
「だから?」
 会議室のテーブルの向こうから、鹿島さんはうんざりしたように声を上げた。
「少なくともその時点で、四ッ折り携帯のアイデアが存在していたということですよね」
「そうだろうけど、僕がそのアイデアを小宮山から聞いたって証拠もないし、特許とってないんだからどうしようもないって話、この間したよね」
「アイデアだけなら、だめですね」
 プロである私は営業用のスマイルを浮かべて相槌を打った。
「こんな、思い付きましたっていうだけで特許持って行かれるんだったら、ウェルズとかアシモフの小説に出て来る未来の技術でみんな特許取られちゃうよ」
 鹿島さんはにやりと笑った。ウェルズやアシモフの名を口にしたくらいで、自分は知的だとでもいうつもりなのだろうか。
「それに、そういうのをひっくり返されないようにするのが君の仕事だろ」
 見下すようにいう。
「じゃあもう一度、よく見てくださいね」
 私は映像を巻き戻した。
『携帯電話があるでしょう、わかるかな?もしもしするやつね。その携帯電話をね、ちょっと待ってね』
 画面の中の悦子さんが、ベッドの手すりに渡されたテーブルから一枚の紙をつまみ上げる。
『ほら、この紙みたいにね、ぱたぱたって折ったり開いたり出来る仕組みを考えたの。「四ッ折りは二ッ折りの二倍偉い」って自慢してたわ。こっちが表で…、あってるわよね?』
 紙を折りながら、ちらちらとテーブルの上に目を遣る。その視線の先には、何枚かの紙が置かれていた。あいにく角度が悪くて、その紙になにが書いてあるのかまでは判然としない。
 私は映像を一旦停止にして、書類を指差した。
「この書類、小宮山さんが書いた例のものに見えません?」
「これだけじゃわからないね」
 鹿島さんは腕を組んで上体を反らした。馬鹿馬鹿しいとでもいうように。
「そうですよね」
 私は笑顔を崩さない。
「ですから、拡大して、補正して、プリントアウトしてみました」
 私は三枚のプリントアウトを机の向こうに滑らせた。
 一枚目は、画面の中の書類を拡大しただけのもの。
 二枚目は、拡大した書類の遠近を補正して真正面から見た状態にしたもの。
 三枚目は、輪郭を強調して、文字や図がはっきりと見えるようにしたもの。
 そこに浮かび上がったのは、小宮山さんの書類そのものだった。
「鹿島さんの会社で出してるデジカムって、すごくよく撮れるんですね。八Kデジカムっていうんでしたっけ?三年前のモデルでこれですから、たいしたものです」
「こんなもの証拠になるか!」
 鹿島さんはプリントアウトを乱暴に突き返してきた。
「いいえ、この映像には十分な証拠能力があるんです。あなたが自分の発明だとして四ッ折り携帯の特許申請をしたのは、悦子さんが亡くなった四ヶ月後ですよ。この映像で、あの書類はあなたが特許申請するよりも先に存在していたことが確認出来ます。
 そしてもうひとつ重要な点は、あなたが特許庁に提出した書類と小宮山さんが書いた書類とが瓜二つだということです。
 あなたは小宮山さんからこの携帯電話に関する相談を受けて、まだ特許登録されていないことを知った。そのあと、特許登録しないまま小宮山さんが亡くなったことをどこかで耳にしたんじゃありませんか?そしてこれ幸いと自分の名前で特許登録した。
 もちろん私の憶測ですよ。でもね、鹿島さん。人のアイデアを盗用するなら、もう少し自分なりのアレンジを加えるべきでしたね。あなたが書いたものと小宮山さんが書いたものとはほとんど同じじゃないですか。知財高等裁判所は、これが小宮山さんの発明だったことを認めるでしょう。あなたは民事だけでなく、刑事の方でも訴追されることになるでしょうね」
 早口でまくし立てた。
 そして付け加える。
「ご愁傷さま」
 自分でもわかるくらい、嫌味な口調だ。それに営業スマイルは、話のどこかでなくしてしまった。
 鹿島さんはすごい形相で私を睨みつけている。が、私はそんなの慣れっこだ。とっとと書類をまとめて席を立つ。ディスクも忘れず持って行く。もちろん、今日持って来たのはコピーだけどね。
「おまえ、こんなことして、汚いぞ」
 どこがどう汚いのか、鹿島さんほど知的でない私にはさっぱり理解出来ない。
 部屋を出て行こうとする私の背中に、鹿島さんが悪態を浴びせかける。
「こういうときに俺たちを守るのがおまえの仕事だろう!それを、こんなことしやがって、おまえはどっちの味方なんだ!」
 私はドアのノブに手を掛けたまま振り返った。
「正義の味方よ」
 いってみたかったんだ、このセリフ。弁護士を目指したときから、ずっと。
 いつか誰かの力になれたとき、誰かのために精一杯やれたとき、そのときが来たらいおうと思ってたんだ、ずっと。
 私、いまの事務所はクビになっちゃうかな?クビになっちゃうだろうな。まいったな、まだ車のローンも残ってるのに。出たばっかりの新車のEV、高かったんだよな、あれ。
 でも、いいや。少なくとも私は、あんたなんかの味方じゃない。
 私は私が泣いているのを教えてくれた、小さな男の子の味方でいようと決めたんだ。

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