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blind

 私が彼と出会ったのは、私がバナナの皮で滑って転んで足を折ったことがきっかけだ。
 そんなことがあるわけがない、バナナの皮で滑って転ぶなんていうのはコントの世界だけのものだと思うなら、ぜひ自分で試してみて欲しい。
 バナナの皮にはたくさんの脂分が含まれていて、雨でふやけていたりした日にはおそろしい凶器になる。
 特に、視覚障害を持つ人間が相手となれば。
 私は生まれつき全盲だ。
 そういうとほとんどの人は、「まあ、かわいそうに」なんていう目で見る。実際に見ているかどうかは私にはわからないけど、そういう雰囲気がありありと伝わって来る。
 目が見えないのは不便だと思う。でも不便なのと不幸なのとは違う。もともと持ってないものを、それがないから不幸だなんて、私は思わない。
 みんなだって翼があれば便利だと思うだろうけど、そんなものない状態が普通なんだから、不幸だなんて感じないはずだ。
 これをいうと、私と同じような全盲の人からは激しい反発を受ける。
「社会は視覚障害者に対して冷たい、不親切だ」という。それは私も同感だけど、社会は誰に対しても不親切なものだ。
 だから不平をいうだけの人を、私は尊敬しない。私が尊敬するのは、不平をいうことでなにかを変えていこうとしている人。不平の向こうに、ちゃんとゴールを見出している人だ。そんなことここでいっても仕方ないけど。
 私も単なる不平や不満はいわないようにしている、つもりだ。
 でも本当は、反抗期の絶頂を迎えていた中学生のとき、親に向かってひどい文句をいってしまったことがある。
「こんな身体に生みやがって」
 決していってはいけない言葉だった。
 父さんは初めて私を殴った。しかもグーで。
 母さんはなにもいわなかったけど、その夜、一晩中声を殺して泣いていた。
 目が見えない分、私はとても耳が良い。
 鼻も、指先の感覚も鋭い。
 そんなことにすら気付かず、自分勝手に投げつけた、不当な言葉だった。
 それ以来、私は不平はいわない。
 バナナの皮にだって、文句をいっても始まらない。だから悪態はついたけど、見知らぬ誰かを恨んだりはしなかった。
 だけど、痛い。痛いのと恨まないのとは別問題だ。
 私は幸運なことに、この日まで骨折とは無縁で来た。
 箪笥の角に足の小指をぶつけるなんてことはしょっちゅうあったけど、骨を折ったことはなかった。
 骨を折ったことのある人はわかると思うけど、文字通り、息が詰まる。「ひっ」と息を吸い込んだまま、吐き出すこともままならない。食いしばった歯の隙間から、ゆっくりと空気が漏れていく。
 骨を折ったことのない人は、弁慶の泣き所、すなわちすねを強打したところを思い出して欲しい。これなら誰にでも経験があると思う。痛かったでしょう?
 私が折ったのはそこだ。想像した?痛いでしょう?
 お見舞いに来てくれた同僚の弥栄子は特に痛いのに弱くて、こうやって話をしたら人のベッドの上で悶えていた。
 あの雨の日、仕事帰りにいつものカフェに寄ったら、誰が捨てたのかそこにバナナの皮があった。
 私は杖——白杖とかケーンというものだ——をスライドとタッチの両テクニックを織り交ぜて使う。
 スライドというのは、白杖を地面に触れさせたまま左右に振って、手の感覚で地面を探る方法だ。もう一方のタッチは、地面をとんとんと叩きながら歩く。こちらは音で、地面を探る。
 なにをどうやったのか、あのバナナの皮は私の杖捌きをかいくぐって、踏まれることに成功した。
 バランスを崩したところに、おそらくバナナと手を組んでいた敷石の脱落があった。傘を持っていた私はとっさに受け身をとることが出来ず、右足におかしな角度で体重を乗せてしまい、あっけなく骨折した。
 頭蓋骨陥没骨折とか、持っていた傘で腹部を貫通とか、車道に倒れ込んで車に轢かれたとかじゃなくてよかったと、おそろしい言葉を並べ立てて友達はなぐさめてくれて、私もそう思ったけど、これはまた弥栄子に甚大なダメージを与えた。
 それでも、私の足が痛いことに変わりはなかったし、入院中というのは暇で仕方がない。私は一刻も早く退院したかったけれど、大先生だいせんせいが許してくれなかった。
 大先生というのはこの病院の医院長で、私は小さい頃からたびたびお世話になっている。本当の名前は原野稲吉はらのとうきちというんだけど、息子の健吾先生も医者をやっているから大先生と呼ばれるようになった。小なりとはいえ、入院も出来る病院の医院長先生だ。
 私が何度、「バナナで滑った」と説明しても、大先生は信じてくれない。
「おまえは前科があり過ぎる」と大先生はいった。
 ブランコから飛び降りて顔面擦過傷、鉄棒から落下して打撲および左手首捻挫、両親に連れて行ってもらった軽井沢で勝手に乗馬して落馬して気絶。
 その他様々な華々しい経歴のおかげで、私はなかなか信じてもらえない。
 したがって入院三週間の刑に処すということだった。
 本当は十日間ほどの入院で済むらしいけど、私は釈放すると安静にしないだろうと。さすがは大先生としかいいようがない。
 量刑に不服なら、私が骨折した場所にあるカフェを告訴するといって私を脅す。
 全盲の私が通るのを知っていながら危険物(バナナのことだ)を放置したという、言い掛かりも甚だしい内容だけど、そんなことされたら二度とあの店に行けなくなるのでおとなしくしたがうことにした。
 それでも、三週間は長い。
 入院四日目にして、私は完全に飽きてしまった。


 あなたも幽霊を見ることが出来る、といったら、あなたはどう思うだろう?
 やり方は簡単だ。窓もなにもない、まっ白な壁だけの部屋を用意する。その中に入って耳栓をし、なにもせずにひたすら待つ。何日かすると、ないはずのものが見え、聞こえないはずの音が聞こえる。
 感覚遮断という有名な実験だ。
 これは人間の脳が常になんらかの入力を必要とするからで、入力がないと、脳は自分で入力を作り出してしまう。
 なにがいいたいのかというと、入院生活が退屈すぎて私は我慢の限界に達していたということだ。
 入院三週間の刑が宣告されるとすぐに、私は母さんに頼んで音楽プレーヤーを持って来てもらった。
 本当はスマホとノートパソコンも持って来てもらいたかったけど、病院内ではネットに繋げないのであきらめた。
 パソコンもそうだけど、音楽プレーヤーにも音声読み上げ機能があって、おかげで私は一人でも音楽が聴けるし、お気に入りのポッドキャストも聴ける。
 こういった視覚障害者に配慮した機能や製品を試すのが、私の主な仕事でもある。ちなみに、ICタグを利用して必要な場所で音声案内が流れるというシステムは、私がアイデアを出したものだ。
 ところが、問題が起きた。
 まず音楽というのは意外と飽きる。いくら好きなアーティストの曲でも、一日中は聴いていられない。そしてポッドキャストは、更新ペースが遅い。
 たいていのポッドキャストは更新されるのが週一回だ。いくつも登録してあれば次々に更新されるのだろうけど、私は五つしか購読登録をしていない。一本十五分として、一週間に一時間十五分。いくらなんでもこれは少なすぎる。
 しかも母さんに頼んで家で更新してもらってるから、新しいポッドキャストがすぐに聴けるというわけでもない。
 最後に頼れるのはラジオだ。暇つぶしには、音楽よりもお話が多いAM放送がメインになるけど、昼間は若者向けの番組があまりない。
「裏山に積もった落ち葉の陰から、ひょっこりキノコが顔を出していました」とか、「主人と二人で行った旅行先で、温泉に浸かっていたらお猿さんが出てきてビックリ」なんていう話題を満喫するには、私はまだまだ修行が足りない。
 そこで私は、院内探検に出ることにした。
 車椅子に座って杖を操るのには、すぐに慣れた。
 だから昼間はそれで行く。だけどどうしてもいろんなところに引っかかって、騒々しい音を立ててしまう。だから夜間は松葉杖を使うことにした。
 大先生は、「そんなものいらんだろう」とにべもなかったけど、夜中にトイレに行くのにガタガタ音を立てて同室の患者さんに迷惑をかけるわけにはいかないとかなんとかいって、ようやく貸してもらえた。
 松葉杖に白杖にと、夜中の私は杖だらけだ。ところが、不器用に院内を何周かすると、白杖は不要なことに気付いた。松葉杖だけでなんとかなる。
 院内にはちゃんと点字ブロックや点字の案内板も設置されてるから、白杖ほど繊細に感覚が伝わらなくても、歩きまわることは出来る。
 そう思ったのが悪かった。
 私は普段、白杖を右手で持つ。右手でなら、とても繊細に杖を操り、情報を得られる。
 ところがこのとき、私は右足をかばうために、右手の松葉杖に体重を預けていた。必然的に、白杖の代わりを左手の松葉杖ですることになる。
 どこにどう当てたのか、私はナースルーム前に置いてあったストレッチャーのロックを解除してしまった。
 ロックを解除されたストレッチャーというのは、素晴らしく軽やかに動く。日本の精密加工技術、恐るべし。
 廊下をまっすぐに滑っていったストレッチャーは壁に激突し、夜中の病院にそれはそれは盛大な金属音が響き渡った。
「おまえはもう、部屋からの外出禁止だ」
 大先生は鼻を鳴らした。
「そんなあ、不幸な事故じゃないですか」
「不幸を手招きしておいてなにをいうか」
 私の主張は、まったく用をなさない。
「トイレはどうするんですか、トイレは」
「看護婦にとってもらえ」
 大先生はいまでも、看護師ではなく看護婦と呼ぶ。もちろん、男の人は看護師と呼ぶけど。
「嫌です!」
 そんなこといってはいけないのはわかっているけど、あれは恥ずかしい。まったく動けなかった最初の一日、私は出すに出せず、こんなことが続くならいっそのことおむつにしてもらおうかと思ったほどだ。
「じゃあ、おとなしくしてろ。夜中に出歩くな。監視つけるからな」
 とんでもない病院だ、などと思ってはいけない。これは、小さいときからお世話になっている私と大先生だから出来る会話だ。大先生も、他の患者さんにはこんなことはいわない。
 私は特別扱いだ、いろんな意味で。
 そして入院六日目、本当に監視がやって来た。
 彼の名前は、松浦さんという。


「コントみたいなことしてるんだって?」
 松浦さんは、くくくっと笑いながらいった。
 初めましてと自己紹介の次に投げる球としては、ずいぶんと内角を抉って来る。
「バナナの皮のことですか」
 私は溜息をついた。
 おおかた大先生に吹き込まれたに違いない。
「うん、大先生はうちの病院の喜劇王っていってた」
 やっぱりだ。
「コントで足を折ったりしません」
 私はふくれっ面をしている、はずだ。
「まあどっちにしろ、雨の日は気をつけないとね。もう、痛みはない?」
 とは訊いてくれてるけど、あまり心配しているようには聞こえない。
 それでもカウンセラーか、と私は思った。もう少し心配してくれてもいいだろうに。
「普段はあまり痛くありません。時々うずくだけです」
「じゃあ、出歩いちゃだめだね。やっぱり安静が必要だ」
 しまった。同情を引くつもりはないけど、あんまり心配している風でないから、つい本当のことをいってしまった。
「でも、こんなところに閉じ込められてたら、おかしくなっちゃいますよ」
「折れたところがおかしくなっちゃうよりましでしょ」
 それはそうなんだけど。
 目が見えないからといって、どこにいたって同じだと思うのは大きな間違いだ。
 外に出れば太陽のぬくもりや肌に当たる風を感じるし、建物の中なら音の響きが違う。森にいれば鳥や虫の声が絶えず聞こえる。そしてどこにも、独特の匂いがある。
 それがずっと変わらないのは、苦痛だ。
「ちゃんと車椅子使って、看護師さんについててもらうなら、庭に出るくらいはいいんじゃない」
「いいんじゃないって、いいんですか、悪いんですか」
「それは僕に許可を出す権限はないからなあ」
「カウンセラーなんでしょう?心理的に問題なしとかなんとか、そういう判断でなんとかならないんですか」
「カウンセラーとして任命されてるわけじゃないからね」
 松浦さんによれば公式なカウンセラーという立場ではないらしい。大先生のご要望は、「暇つぶしの相手になってやれ」ということだそうだ。
「心理的にはまったく問題ないよ。そもそも骨折で心理カウンセラーが必要になるケースは、ないとはいわないけど、一般人には滅多にないね」
 松浦さんの話では、スポーツ選手なんかの場合にはカウンセリングが大切なケースが多いらしい。特にプレッシャーのかかるオリンピック選手や、生活がかかっているプロ選手の場合には、自分の将来をはかなんで自殺しようとしちゃう人もいるそうだ。
「君の場合は、雨でお外で遊べない子供のフラストレーション、といったところかな」
 それでもカウンセラーかと思ったのは撤回する。
 自分でも、動きまわれないのが嫌だなんて、子供っぽいとは思ってた。
 こんな図星なこと、公式にカルテに書かれなくてよかった。
「いい子にしてれば、すぐ自由に出歩いていいって許可が出るよ。この部屋からは見えないけど、裏庭のイチョウが黄葉しててきれいなんだよ」
 この部屋の窓は通りに面していて、大先生ご自慢のイチョウのある庭は見えない。
 もっとも、どこにいようと私にはイチョウもなにも見えないけれど。


 イチョウの姿が見えないのと同じく、私にはイチョウの色もわからない。そもそも色という概念がないからだ。
 この辺は、三次元に住んでいる人間が四次元の立体がイメージ出来ないのと同じだ、と健吾先生に聞いたことがある。
 健吾先生は——間違っても若先生と呼んではいけない。もう四十過ぎなのだから——本当に大先生の子供なのかと疑いたくなるくらい、物静かな、どちらかというと学究肌の人だ。
 という話を健吾先生にしたら、「実は僕も疑ってるんだよ。親父の息子にしては、僕は男前過ぎる」といっちゃうあたり、やはり血は争えない。
 松浦さんは翌日も私の病室を訪れて、怪我の様子を訊いてきた。
「ぜんっぜん痛くないです。もう、くっついちゃったんじゃないかな」
 私は昨日の夜に、たまりかねて痛み止めを飲んだことを隠していった。
「そんなに早くくっつくんだったら、君の身体は普通の人とだいぶ違うから、研究させてくれって申し出が殺到するよ」
 松浦さんは、また少し笑いを含んだ声でいう。
「そうしたら、かなり入院が延びることになるけど、それでもいい?」
 いま言い渡されている以上に刑期が延びるのは嫌だし、目以外にも他の人と違いがあるというのもごめんだった。
「嘘ですよ。冗談です」
「わかってるよ。大先生の話じゃ、とても見事に折れてるらしい。記念にレントゲン写真のコピーをあげようかっていってた」
「いりません、そんなもの」
 大先生が松浦さんに向かって、レントゲンをぺらぺらさせているのが聞こえて来るようだ。
 大先生は私が怪我をするとすぐ怒るくせに、嬉しそうにそれを人に説明する。
「それより、私はいつまた自由にこの部屋を出ていいことになるんですか」
 この前の一件で、私は車椅子も松葉杖も取り上げられてしまっていた。懇願の末、トイレに行くときだけ松葉杖を貸してもらっている。
「明日には、車椅子を戻してくれるって」
 あまりにあっけない返事に、私は驚いた。
「この患者は移動が制限されると非常に強いストレスを感じるタイプですって、大先生にいっておいた」
 それは大先生もよく知っている。しかしカウンセラーからそういわれると、さすがに効き目があるらしい。
「ストレスは治療の大敵だからね」
 同じ病気や怪我でも、ストレスがかかると治りが遅くなるのは有名な話だ。
「もっとも、これはプロとしての診断ではないんだけどね」
 そうだ、松浦さんはこの病室に仕事で来ているわけではなかった。
 かといって見舞いというわけでもなく、本当に私の話し相手、ストレス発散の相手になってくれている。大先生がいっていた監視役と兼任で。
 松浦さんは同室の患者さんたちと二言三言言葉を交わすと、「じゃあ、お仕事行って来ます」といって出て行った。
 松浦さんの方にはストレスは溜まっていないのかしら。
 車椅子を取り戻してくれたことに「ありがとう」すらいわず、ただ「行ってらっしゃい」としかいわなかった私のせいで。


 次に松浦さんに会ったのは、二日後のことだ。さすがに、毎日私の相手ばかりはしていられないらしい。
 彼が取り戻してくれた車椅子で裏庭に行くと、ドアを出てすぐ横のベンチから、松浦さんが声をかけてきた。
「ひかりさん?」
 目が見えないのにひかりとは、両親もずいぶんと皮肉な名前をつけたものだ。でもいまは、とても気に入っている。
「松浦さん?なにしてるんですか?」
「休憩中」
 松浦さんの声のする方からは、コーヒーの匂いが漂っていた。
 馬は、人のアドレナリンの匂いを嗅ぎつけるという。
 馬を前にして怖がっている人の身体からは強いアドレナリンの匂いがして、それを察知した馬はその人を舐めてかかるのだそうだ。
 私が初めて馬に触れたときもそうだった。
 私が怖がっているのを見抜いた馬は、両親の差し出すニンジンは素直に食べ、私のニンジンははたき落としてから食べた。おまけに鼻先で私の頭を軽く小突いた。
 悔しかった私は、両親に頼んで翌日も牧場へ連れて行ってもらい、雄々しく馬の前に立っておまえなんか少しも怖くないんだと教えてやり、両親の目を盗んで騎乗して、だめだっていわれてるのに走らせて、勝手に落馬して気絶した。例の軽井沢での一件だ。
 馬ほどではないにしても、鼻のきく私はいろんなものを嗅ぎ分けることが出来る。
 コーヒーの匂いしかり、人の匂いしかり。
 だからきっと、松浦さんが声をかけて来なくても、私には彼がそこにいることがわかっただろう。
「そのうち君が来るだろうとも思ったしね」
 また笑うようにいう。
 私は自分の行動が読まれているようで、おもしろくない。
「あの木から落ちたこともあるんだって?」
 松浦さんが指差しているらしいのが、衣擦れの音でわかる。
「ええ、小さい頃ですけど」
 ある夏の日、私は健吾先生の検診を受けたあと、裏庭を探検中に木に登り、足を滑らせて落下した。
 したたかに頭を打った場所のすぐ横には大きな石があって、もうちょっとで私は帰らぬ人になるところだった。
 泣き叫んでいる私に、しかも出来たばかりのたんこぶの上に、大先生は思いきりげんこつを喰らわせた。
 そして、「おまえが登っていいのはこっちの木だ」といって、根本に固いものがなにもない木のところまで私の手を引っ張って行き、枝に風鈴を吊してくれた。
「いまやられたら困るよ」
 松浦さんの声は、完全に笑っている。
「君の戦歴を聞いたけど、お転婆もいいところだな」
「チャレンジャーといってください」
「無謀なチャレンジが多いよ」
 目が見えないと、とかくあれも危ない、これも危ないといわれがちだ。
 確かに目が見える人より危険は多いかも知れないけど、そんなこといってたらなにも出来ない。私の場合は、その度合いが少々強いというだけだ。
 それに、目が見えない人の感覚世界が貧しいわけじゃない。そういおうとしたとき、松浦さんがいった。
「普通の人が思ってるより、たくさんのものを知覚出来ているのは知ってるんだけどさ」
 そうなのだ。私たち視覚障害者は、たとえ私のような全盲の者であっても、非常に豊かな感覚を持っている。
 先ほどの匂いのこともそうだし、いまだって私は何人かが庭を歩いていることを知っている。そのうち一人は子供だ。
 それは声ではなく、落ち葉を踏む音の違いでわかる。音の軽さ、音のリズム、無意識にそれを知覚している。
 きっとそれは、目が見える人が辺りを見渡すのと変わらない。目で見れば、意識しなくてもそこになにがあるのかわかるんでしょう?
 彼がそういうことを知っていてくれるのは嬉しかった。
 ただ単にかわいそうと思われるのが、私は大嫌いだ。
 カウンセラーをやっていて、そんな風に思う人もいないのかも知れないけど。
「今日はよく晴れて、風にイチョウの葉が揺れてることもわかるんですよ」
「うん、それにね、庭の向こうには山並みも広がってるんだよ。冬になると、すっかり雪化粧するんだ」
 するとここは、私が思っていた通り空が広いのだろう。
「屋上に行くと、もっときれいに見えるらしいけどね」
 そういって彼はコーヒーをすすった。
「それにしても、景色よりなにより、君が色を見られないのが残念だな」
「色はちょっと、無理ですね」
 広い狭い、大きい小さい、速い遅い、そういった感覚を理解することは出来るけれど、私には色を理解することは出来ない。
 強いていえば、太陽に照らされる暑さが赤で、風に揺れる草の音が緑だ。だってみんな、真っ赤な太陽とか、緑の草原っていうでしょう。
「イチョウの葉はね、今の時期は黄色になるんだ。それが庭一面に敷き詰められてる」
 無理だっていってるのに。
「そういえば、君が滑って転んだバナナの皮も黄色だよ」
 また笑う。人の不幸を笑うとは、失礼な人だ。
「嫌な色ですね」
 私の中では、黄色はヌルッとして、強く打ち付けるイメージに固まりかけた。
「でもね、元気な色でもあるんだよ。ひまわりって知ってるかな。あの花は大きくて元気で、夏に咲くんだ」
 ひまわりは知ってる。でもひまわりは、ゴソゴソして、チクチクして、まあるくヒラヒラする花だ。でも確かに、元気で強そうでもある。
 ヌルッとして、ゴソゴソして、元気な色。黄色は不思議な色だ。
「それから君がいった通り、今日はよく晴れていて、空が青い」
「青って、私にはブザーで鳴らしたメロディーのイメージなんですけど」
「横断歩道の?」
「そうです」
「実にその、機能優先のイメージだね」
「だって、私が青と結びつけるものといったら、まず青信号の音ですもん」
「海とかはどうなの?」
「日本の海は青くないっていうじゃないですか」
 グアム旅行から帰ってきたときに、弥栄子がそういっていた。私自身は海外に行ったことがない。
「うわ、夢がないなあ。せっかく見えないんだから、きれいなところにいるって思っとこうよ」
「はあ」
 せっかく見えないという言い方もないもんだと思ったけど、まあよしとした。
 目が見えなくても、大目に見ることは出来る。
「海は、ヒンヤリして、ダブダブして、ザリザリします」
「そんなものが頭の上いっぱいに広がってるのは嫌だなあ」
「しょうがないじゃないですか、私の海はそうなんですから」
「海はだめか。じゃあ僕の青はね、そうだなあ、ハッカの味」
「ハッカですか」
「うん、ハッカのアメの味」
「ミントのキャンディーの味ではなくて、ハッカのアメの味なんですね?」
「あっ、ミント、ミント、ミントキャンディー」
 彼は慌てて言い直す。
「松浦さん、いくつなんですか?」
 いまどきハッカっていう人はめずらしい。
「君とあんまり変わらないって。だから話も合うだろうって、大先生が寄越したわけだし」
「本当ですか?声は若い感じですけど」
「本当だよ。僕はお婆ちゃん子だっただけ」
「わかりました。せっかく見えないんだから信じます」
「本当だよ、嘘じゃないって」
「なに焦ってるんですか。いいですよ、私よりちょっとだけ年上ってことにしといてあげます」
「しといてもらわなくても、本当にそうなんだから」
「あんまりこだわると、かえって怪しいですよ」
 私はちょっと彼をいじめて楽しんでいた。
 彼には悪いけど、丁度いいストレス解消だ。どうせ大先生に私のストレスを発散させてやれっていわれてるんだろうから、彼も文句はないはずだ。
 その日から、私の青空はハッカの味とお婆ちゃん子のイメージになった。


 その後も、私に色を伝えようという彼の試みは続いた。
茶色は、乾いた土の匂い。
灰色は、雨が降る前の湿った風。
紫色は、絹の手触りと夜の街。
ピンク色は、くすぐったい。
オレンジ色は、手のひらと弾むボール。
「チョコレート色っていうのは、実に見事な名前だと思うよ」
 彼は自分で買ってきた板チョコを頬ばりながらいった。
「この味と香りはまさにチョコレート色であって、それ以外のなにものでもあり得ない」
 チョコが好きな彼は、いつにもまして嬉しそうにしゃべる。
「そうですか?私のチョコレート色はちょっと違う感じがするんですけど」
 そういって、私もチョコをかじった。
 この頃には、私が彼のカウンセリングルームを訪れて話をするようになっていた。もちろん、彼の仕事がないときにだ。
 別に二人きりで話がしたいとかいうことではなく、同室の患者さんたちの迷惑にならないようにという実際的な理由からだ。
「そうかな。君のチョコはどんな感じ?」
「もうちょっと丸いっていうか、やわらかいっていうか、そういう感じです」
「丸い?」
「うん、なんていうか、ひとつひとつが包装されていて、それを破いてつまんで食べる、みたいな」
 私は彼に、チョコを食べる仕草をして見せた。
「ああ、ゴディバとか、そういうやつ?」
「そう、それそれ。ゴディバのチョコ、いいですねえ」
 私は満面の笑みを浮かべた。
「それはなに、君、僕にゴディバのチョコを買って来いっていってる?」
「そんなことないですよ。ただ私のチョコレート色のイメージを伝えてるだけです」
 見抜かれた。さすがカウンセラー。
「コンビニで買った板チョコでは、イメージが伝わらないと」
「松浦さんのチョコレート色は伝わりました。でも私のチョコレート色とは違うというだけです」
「おそろしい。この部屋に強欲という名のおそろしい生き物がいる」
 私たちは二人でお腹を抱えて笑った。
 そして次の日、私たちは二人でゴディバのチョコレート色を味わった。
 私はすっかり、色を知るのが楽しくなっていた。
 ただその一方で、フラストレーションが溜まるのも事実だった。
 どんなに色をイメージしたところで、私には本物の色は見えない。彼に色を教わるほど世界は広がっていくのに、私にはその世界を見ることが出来ない。
 彼が虹の話をしているとき、私はそんな思いをぶつけてしまった。
「そんなごちゃごちゃしたイメージ、わかりませんよ」
 これまでは、私は見えないことをあたりまえのこととして受け入れて来た。
 反抗期の頃を除けば、それを不満に思ったことも、目が見える人を羨ましいと思ったこともない。
 それが、こうやって彼に色を教わるうちに、見てみたいという欲求があまりにも強くなってしまっていた。
「いくら色を教わっても、私には松浦さんの見ている色は見えません」
 私はむすっとして、それ以上なにもいわなかった。
 彼も同じように、しばらく黙っていた。
 ようやく彼が口を開いたのは、まるまる一分以上経ってからだったと思う。
「ごめん」
 それからまた二人とも沈黙して、そのあとで口を開いたのも彼だった。
「今日はもう、戻ろうか」
 私はうなずいて、病室に向かった。
 違う、本当は色が見えないことなんて、嫌でもなんでもない。
 世界が見えなくたって、私はちっとも構わない。
 本当は、好きな人と同じものが見られないのが、悔しくて仕方がなかったんだ。


 翌日、私は彼のカウンセリングルームを訪れなかったし、彼も私の病室に来なかった。
 その代わり、大先生から直々にお呼びがかかった。
 ああ、また怒られる。
 松浦さんにあんな風に当たっちゃったから、もうさじを投げられちゃったのかも知れない。
 大先生の診察室には、健吾先生もいた。二人揃ってとなると、これは相当な一大事だ。
 案の定、大先生は「松浦君から聞いたんだが」と切り出した。
「視力回復に、だいぶ興味を持っているようだな」
 私はもともと視力がないんだから、回復ではなくて獲得だ、と思ったけど、そんなことより私は彼が私のことをどう話したかの方が気になる。彼の目に、私がどんな風に映っているかの方が。
 健吾先生が、大先生の言葉を継いだ。
「僕の友人が大学病院で人工視覚の研究をしていてね、簡単にいっちゃうと、カメラで撮った映像を直接脳に送り込むというものなんだけど、臨床試験に協力してくれる人を探してるんだ。
 うまくいくとは限らないし、うまくいっても初めて見る世界に対処出来るかどうかわからない。
 その点、ひかりちゃんは精神的にも強いし、好奇心も旺盛だ。ただ前からずっと、目が見えなくても不満はないっていってたから、松浦君に頼んでちょっと探りを入れてもらったんだ」
 探り、あれが?
 あれは探りなんてものじゃない。さんざっぱら興味をかき立てられて、私は生まれて初めて目が見えないことに苛立っている。
 人がどこそこの景色がきれいだったと話しているのを聞こうが、自分がものにつまずいて転ぼうがなんとも思わなかった私がだ。
 松浦さんは、優秀なカウンセラーだ。私はまんまと乗せられた。だけどカウンセラーが、こんな風に人の心を操っていいものなのか。
「それで、どうかな。一度検査だけでも受けてみたら」
「そんなこと、急にいわれても」
「うん、すぐに答えてくれとはいわない。向こうも、気長に探してるようだから」
 私は、考えさせてください、といって病室に戻った。
 戻った病室から、検診や投薬のために一人二人と姿を消していき、とうとう私一人になったとき、松浦さんがやって来た。
 今度彼に会ったら、私はすぐに謝るつもりでいた。
「健吾先生に聞きました」
 この間は、ごめんなさい。
「私に色を教えたのって、このためだったんですか」
 広がっていく世界に手が届かないのが、怖かったんです。
「やっぱり先生にいわれて、毎日付き合ってくれていたんですか」
 あなたと同じものが見えないのが、寂しかったんです。
「いや、そうじゃないよ」
 私はわがままで、あなたにそれをぶつけていました。
「だって松浦さんと話をしなかったら、私、こんなに色が見てみたいと思いませんでした」
 だって、あなたはやさしいから。
「君のところに来たのは大先生にいわれてのことだけど、色の話をしたのは僕の意志。健吾先生から君に人工視覚はどうかって相談される前のこと」
 あなたはすごくやさしいから。
「人工視覚のことは僕も知っててね、それで、話を聞いてすぐ臨床試験に君を推した」
 それは、向かいのベッドのお婆ちゃんにやさしいのと同じ?
「私は実験動物じゃありません」
 お婆ちゃんにも、チョコを持って来てあげたりするの?
「うん、わかってる」
 それが仕事上のやさしさなら、私はそんなものいらない。
「わかってません。先に動機付けしてからゴールを見せるなんて、卑怯です」
「君には、目が見えるようになって欲しいんだ」
「どうして?」
「目が見えないことを、僕は不幸だとは思わない。だけど君は、目が見えた方が素敵なものをたくさん見つけられると思うんだ」
「そのために、ゴディバのチョコまで買って?」
「いや、あれはただのプレゼント」
「どうして?」
「女の子を口説くには、プレゼントくらい必要かなと思って」
「私、目が見えないんですよ」
「知ってる」
「私と付き合ったら、すごく苦労しますよ」
「お転婆は覚悟してる」
「自分がどんな顔してるかもわからないし」
 あなたが好き。
「君はね、とても美人だよ」
 私はあなたが好き。
「嘘ついても、目が見えるようになったらばれちゃいますよ」
「大丈夫、恋は盲目だから」
 私は本当の盲目だというのに、それでもいいというの?
 目が見えるようになりたい。
 彼の姿が見たい。
 彼と同じ色が見たい。
「僕と、付き合ってくれるかな」
 可愛くない私はただうなずくだけでなにもいえなかったけど、本当は「私と付き合ってください」ってずっといいたかったのよ。


 母さんに読んでもらった契約書に拇印を押すと、私の入院は大学病院へと引き継がれることになった。
 骨折で三週間の入院が終わったら、人工視覚の埋め込みで七週間の大学病院暮らし。もっとも、最初の一週間の検査にパスすればの話だけど。
 大学病院は大先生の病院からは少し距離があって、私と彼は毎日会うというわけにはいかなくなった。
 無理を承知で携帯電話とパソコンの使用をお願いしてみると、私のベッドがある個室内では使っていいという許可が出た。
 最近はこんな風に無線LANが使える病院があるのか。退院したら大先生の病院でも導入するように進言しよう。
「各階のコモンスペースとか、一階のロビーでも使えるわよ」
 私に視力をくれるという香月こうづき先生はそういった。とてもいい匂いのする、女の先生だった。
「部屋に機材を持ち込んでるときは、影響が出ちゃうかも知れないからオフにしておいてね」
 それだけではなく、病室に仕事を持ち込んでもいいという許可ももらった。これは助かる。
 この先生と健吾先生がただの友達なのだとしたら、健吾先生は本当にもったいないことをしている、と私は思った。
 転院初日の午後から、私の検査は始まった。
 CTやMRI——私がいうたびに、香月先生は「fMRIね」とやんわり訂正した。よほどのこだわりがあるらしい——という聞いたことのある検査から、PET、SPECT、NIRSという耳慣れない装置までが、私の頭の上を次々と通過していった。
「目から入った信号はね、左右で脳の別々のところへ伝わるの」
 香月先生から聞いた説明を、私は電話やメールで彼に伝える。
「右目で見たものは左脳に、左目で見たものは右脳に伝えられると思うでしょう。ところが違うの。右目の視野の右半分が左脳に、左半分が右脳に行くのよ。左目でも同じことが行われるの」
 私はまるで自分が発見したことででもあるかのように、彼に伝えた。
 その知識のうちいくつかは間違っていたかも知れないけど、私は気付かなかった。そして私が犯していた、それよりずっと大きな間違いにも、私は気付かずにいた。
「でね、目からの信号は外側膝状体っていうところで整理されて、頭の後ろにある視覚野に伝えられるの」
 彼は電話の向こうでも、「うん、うん」と楽しそうに聞いてくれる。
「だから、あなたたちは目ではなくて脳で、しかも目からいちばん遠いところでものを見てることになるわけ。そう思うと、なんだか不思議じゃない?」
 こんな話に、彼はいつでも私が欲しい相づちを打ってくれる。
「私の場合は、その外側膝状体から延びる視神経にケーブルを繋いで、目に埋め込んだカメラからの映像を見ちゃおうってことらしいの。いまはその検査の結果待ち」
 本当はそんなに簡単なものじゃないんだろうけど、私に理解出来るのはそのくらいだ。
「うん、きっと大丈夫だよ」
 彼が祈るようにいってくれたのが効いたのか、私は検査に合格した。
 香月先生によると、百点満点中で九十点というところらしい。
「私は医者だから、下手に楽観的なことはいっちゃいけないんだけど」と前置きして、香月先生はいった。
「あなたの外側膝状体はまったく正常で、視神経も眼窩のところまでちゃんと延びてるわ。だからカメラと接続して視覚を得られる可能性は、とても高いと思う」
 問題となるのは、私が新たに得た感覚にうまく対処することが出来るかどうかだ。
「突然空を飛べるようになるようなものですもの、衝撃は大きいわよ」
 でも私には、強い意志がある。
「大丈夫です」
 初めて馬の前に立ったときに比べればこんなのなんでもない、というのにはちょっと無理があったけど、とにかく私はそう思い込もうとした。
「私たちもがんばるわ。だから、一緒にがんばりましょう」
 香月先生は私の手を強く握りしめた。
「そういえば、電話のお相手は恋人さんかしら」
「はい」
 そう答えられる自分がとても嬉しかった。
 私には、両親や香月先生以外にも、一緒にがんばってくれる人がいる。
 手術は、三日後と決まった。


 包帯を取ると、そこには世界が広がっていた。
 世界は私の目に飛び込んで来て、私は彼の腕の中に飛び込んで行った。
 などという虫のいい話はない。私の視力獲得への道のりは、もっとずっと地味だ。
 包帯を取っても、なにも見えない。それどころか、包帯を取るとすぐに、私は目の奥の方にある端子に様々なケーブルを接続された。
 この時点では、まだ私の眼窩にカメラは入っていない。眼窩の奥にある端子に直接接続されたケーブルが、コンピュータからの信号を私の脳に送っているのだ。
 たぶんこのときの私は、世界一ゴージャスな睫毛を持つ女だったと思う。誰も羨ましいとは思わないだろうけど。
 だけど、香月先生が「これ見える?」といってなにかのスイッチを入れたとき、私の世界は永遠に変わった。
 なんの特徴もない一面の灰色だったけど、私は初めて色を見た。
 彼が教えてくれた通りの、雨が降る前の湿った風の色だった。
「良好、良好」
 そういって香月先生はスイッチを切ってしまった。そうでなければ、私は何時間でもその灰色を眺めていただろう。
「順調にいけば、二週間ほどで眼球型のカメラを埋め込んで、そのあと解像度を上げていくわ。一週間くらいでものの形が判別出来るようになるでしょう。それから最後に、色をつけましょう」
「いまのは、色じゃないんですか?」
 私は狐につままれた気分だった。
「色といえば色なんだけど、いま見てもらったのは本物の灰色じゃなくて、明度の低い白なの。音でいえば、そうね、くぐもっていて誰のかわからない声って感じかしら」
 香月先生は私にもわかるような説明を心がけてくれる。でもあんなに喜んだ私は、ちょっと損した気分だ。
 そのことも、彼に伝えた。
 電話やメールではなく、日曜日に来てくれた彼に直接。
「いきなりだと、脳がびっくりするからじゃない?」
 彼は相変わらず、楽しそうにいう。
「テレビ放送だって、最初は白黒から始まって、そのあとカラーになっていったんだから」
「それはそうなんだけど、ちょっと拍子抜けしちゃった」
「いきなり見えるようになるわけじゃないって、説明されてたでしょ?」
「うん」
「予定通りなんだから、焦らないの」
「はあい、わかりました」
 私は彼が買ってきてくれたゴディバを頬ばって答えた。
「それに、君の場合は一足飛びに目が見えるようになったら、別の病気が再発しかねない」
「どういうこと?」
「重度のお転婆病」
「目が見えるようになったら、真っ先にあなたの顔に落書きしてやる」
 そうやって舌を出したところへ、健吾先生が入って来た。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
 健吾先生は、車を持っていないという彼を日曜日ごとにここまで送って来てくれる。
 気を利かせてすぐに香月先生のところに行ってしまうけど、それでもちょっと、やっぱり二人きりという気分にはなれない。
 でも健吾先生にも、香月先生に会うという口実が出来てよかったみたいだ。
 アメリカ人ならこういうとき、さりげないキスのひとつもするのだろうけど、日本人である私たちは当然そんなことはしない。
 それどころか、彼は病室に二人でいてもいまだに手すら握ってくれない。乙女心くらい、察してくれればいいのに。
 このまま手を握ってくれなかったら、目が見えるようになったら私から手を握ろう。
 落書きは、それからでいい。


 私にはゆっくりと坂道を登るような変化でも、週に一度しかやって来ない彼にとっては飛躍的な進歩を、私は遂げていた。
 もちろん毎日のようにメールや電話をしていたし、香月先生から健吾先生へ、それからさらに彼へと、私の進捗状況は伝えられてはいたけど、やはり私と会って直接聞くのは違うらしい。
 彼の二回の訪問を挟んで、私は半日がかりの手術を受け、眼球型のカメラを装着していた。
 黒目の横には小さな端子があって、今後はここから調整をしていくらしい。
 ついに私は、コンピュータからの信号ではなく、自分の目を通して世界を見られるようになったのだ。
 私の眼球はカメラだし、イメージセンサーが網膜の代わりを務める。その意味では、コンピュータからの入力と変わりがないのかも知れない。でもそんな技術的なことは、私には関係なかった。
 どんなにぼやけたものであっても、たとえ白黒であっても、これは私自身の世界なのだ。
 私は世界を、白黒のマス目として見た。手術直後はまだマス目のひとつひとつが大きくて、とても物の形がわかるレベルではなかったけれど。
 それでも、私は彼の姿を見た。
 白と黒の間にある様々な階調で表された、五十個ほどのブロック。初めて見る、彼の姿。
 他の人と見分けなんてつかないけれど、間違いなく彼はそこにいる。
 両親はこの段階でようやく安心したらしく、母さんが涙声で何度も「よかったね、よかったね」というのが聞こえた。
 父さんは、「見えるか」といって、何度もベッドの横を行ったり来たりした。私がそれを顔と目で追うと、小さい頃みたいに頭を撫でて褒めてくれた。
 解像度を上げて、チェックをして、解像度を上げて、チェックをして。二、三日ごとにこれを繰り返す。
 解像度を上げたあとはとても疲れるけど、世界が着実に鮮明になっていくのが私の励みだった。
「あと何回かの調整で、ぐんと解像度を上げるわよ。視力でいうと、〇・一くらい」
 眼球型カメラを装着してから三週目の火曜日、香月先生は私に包帯を巻きながらいった。この作業を、香月先生自らがしてくれるのが、私は嬉しかった。
 この時点での私は、物の形がだいたいわかるようになっていた。一応白杖は持っているけど、車椅子で独り出歩くには不自由しない程度に。
「それから、色をつけます」
 これを聞いたときの驚きを、どう表現すればいいだろう。
 偉い科学者が、「神様を発見しました」と発表するのを聞いた感じ、とでもいえばいいだろうか。
 もちろん、私の視界に色がつくのは予定されていたことだったけど、目が見えるようになったのとはまた違う意味で、天地がひっくり返るような宣言に聞こえた。
 私がそれを受け止められるようになったのは、夜になって、彼に電話をする頃になってからだった。
「一週間したら、もっと見えるようになるんだって。具体的には視力〇・一くらいっていってた」
「それって、どれくらい?」
「本当の〇・一とは直接比較出来ないらしいけど、近くにいる人の顔がわかるくらいだって」
「それはすごい。とうとう、僕がどんな顔かばれちゃうね」
「それより、私の顔のこと心配しなさいよ。あなたがあれだけ美人だっていってたのが本当かどうか、わかっちゃうのよ」
「それは大丈夫。少なくとも、僕にとってはすごく美人だよ」
 笑いながらいうから、まったく信用が置けない。
「せいぜい期待しておくわ。それからね、もうひとつお知らせがあるの」
 私はじらすように、言葉を切った。
「なんだい?」
 息を大きく吸って、私は告げた。
「色が見えるようになるの」
 今度は、彼が言葉を途切れさせた。
 しばらく、二人とも沈黙。
「やったな」
 その短い言葉で、私には彼がどんなに喜んでくれているかわかった。
 だってそんなに真剣な声で、まるで囁くようにいうから。
「うん」
 それから私は泣いてしまって、洟をすする音を長々と彼に聞かせることになった。


十一

 私に色を与える作業は手術を必要とせず、いつも通りソフトウェアの調整だけだったから、たいした時間はかからなかった。
 黒目の横にある端子にケーブルを繋ぎ、いったんカメラをオフにする。そしてしばしの暗闇のあと、より鮮明度を増した視界が戻って来た。
 今回の視界は、格段に細かいところまで見えるようになっていた。これまでカクカクしていた輪郭が、明らかに滑らかになっている。
 そしてなによりも、そこには本物の色があった。
 こんな風なのか。
 世界はこんなにも色にあふれているのか。
 私は色のついた世界を見たら、泣いちゃうんじゃないかと思っていた。
 でも実際は、それどころじゃない。
 口の中が乾いて、からからだった。
 息が荒くなって、もう少しで過呼吸になるところだった。
 強く握った手の中で、爪が深く食い込んでいた。
「大丈夫?いまケーブルを外すから、目を閉じていていいわよ」
 香月先生は手際よくケーブルを外し、端子の上にゼリー状の膜をかぶせて塞ぐと、瞼を拘束する器具を取り払った。
 私は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
 頭の中に、いま見たばかりの部屋の様子がありありと浮かぶ。カーテンを閉められた部屋の壁が、迫って来るように感じられた。
 あまりにも見え過ぎて、あまりにも色があり過ぎて、怖いほどだった。
 私は勇気を振り絞って、もう一度目を開けた。
 色も世界も、消え去ることなくまだそこにあった。
「見えます」
 私の声は、かすれていた。
 私は香月先生の方を見た。
 目や鼻や口はぼんやりとしたシミでしかなかったけれど、香月先生は髪の長い、素敵な人だった。唇は、ほんのり紅い気がする。
 その唇が動くのがわかった。
「ここから先は、視神経と脳が慣れれば慣れるほど、ますますよく見えるようになるわ」
 これ以上見えるようになるのかと思うと、気が遠くなるような気がした。
 だけど、香月先生がこちらに向けている顔。
 これが、笑顔。
 ぼやけているけれど、見ているだけでとても幸せな気持ちになれる表情だ。
「もちろんメンテナンスは必要だけど、センサーと神経のマッチングはいいし、データの伝送も順調だから、大きな問題はないでしょう。
 でも無理はだめよ。健吾先生から、注意するように重々いわれてるから」
 私も笑顔になってみた。香月先生みたいに笑えているかしら。
「大先生も健吾先生も、大げさなんです。私、そんなに無謀じゃないですよ。それに、いまはそれこそ目がくらんじゃって、動けそうにありません」
「一週間くらいはまた検査漬けになるから、ぜひとも動かないでいて欲しいわ。
 でもね、大先生も健吾先生も、あなたのことを本当に心配していたわよ。大先生なんて、「わしの目でよければ、くれてやるんだがなあ」とまでおっしゃってたわ」
 そんなやさしいこと、私にはいってくれたことがない。いつもは検査に行っただけで、こっぴどく罵詈雑言を浴びせられる。
 でも、わかってた。私は大先生からしたら、孫のような存在なのだ。
「先生たちには、早く報告したいです」
「それに、彼氏にもでしょ」
 香月先生は腰に手をあててにやついている、と思う。
「はい」
「ああ、親不孝な娘だわ。普通はご両親に真っ先に報告するでしょうに」
 今度は手をおでこにあてて天井を仰いでいる。
 楽しい人だ。
「す、すみません。そうでした、すぐ電話します」
 私は慌てて携帯を探した。
 でも本当は、両親にはもう昨日の夜のうちにメールを送っておいた。
 電話じゃ恥ずかしいから。
『明日、いよいよ本格的に目が見えるようになります。
 もしこれから先、これ以上見えるようにならなくても、あるいはなにかの拍子にまた目が見えなくなってしまうことがあっても、私はお父さんとお母さんに感謝しています。
 中学生のとき、ひどいこといっちゃってごめんね。
 ずっとごめんねっていえなくて、ごめんね。
 じゃあ、おやすみなさい』


十二

 私が彼の顔を見る日は、思いがけずやって来た。
 色が見えるようになったと電話で話しているとき、彼が明日お見舞いに行くよといってくれたのだ。
「仕事は大丈夫なの?」
 すごくうれしいけど、私は「仕事と私、どっちが大事?」なんて迫るほどお子ちゃまではない。
「うん、大先生の方から行って来いっていってくれたんだ」
 まだ大先生たちには電話していなかったけど、きっと香月先生から先に連絡が行ったのだろう。これでまた、大先生にいびられる。
「まだ一時間くらいしか目を開けていられないの。大半は検査に時間を取られちゃうから、見計らって来てもらってもいい?」
 私は早く彼の姿が見たい。彼に、あなたと同じ色が見えると伝えたい。
「うん、そうするよ」
 彼は電話を切った。
 翌日、私の検査は思いのほか早く終わった。
「四時になったら包帯を巻きに来るから」と、香月先生は念のためアラームをセットして出て行った。
 私は一人きりの時間を、鏡を見て過ごした。
 私自身との、初めてのご対面。
 近視や遠視とは違って、鏡を近づけたり遠ざけたりしてもピントは合わない。それでも近くにあるものの方が大きく見えるから、鏡を顔に近づけるとより見やすくはなる。
 ふうむ、これが私の顔か。
 彼が美人だといってくれていた顔とは、これなのか。
 私にはまだ美人の顔というのがどういうものかわからない。でも魅力という点では、香月先生の顔の方がずっと上のような気がする。
 これは、彼が来たら問い詰めなければなるまい。
 そんな風に自分の顔をためつすがめつしているところへ、おずおずと彼が入って来た。
 いまの、見られちゃったかしら。
「やあ、僕のこと、見えるかい?」
 椅子に座るときまで、おずおずしなくてもいいのに。私が至近距離で鏡を見ている姿は、相当滑稽だったらしい。
「うん、見える。おみやげ持って来てくれてるのも。それは、ゴディバのチョコかな?」
「そうだよ。初めて見るのに、いい勘してる」
「袋の音がいつもと同じだもの。それに、そっちの手に持ってるのは、白杖?」
「うん」
「新しいのを買ってくれたの?でも私、もう白杖がなくても歩けるのよ」
「これは、僕の」
「あなたの?」
「うん、僕、目が見えないから」
 一瞬、彼がなにをいっているのかわからなかった。
 目が見えないのは私の方で、しかもそれは過去の話だ。いまの私はなにもかも見ることが出来る。
「なにをいってるの?」
 私に色を教え、目が見えたらどんなにいいかを説いたのはあなたじゃないの。
「僕は、目が見えないんだ。君と同じで、生まれつきの全盲」
 あ、君はもう違うか、といって彼は笑う。
「そんな、だって、じゃあどうして空の色とかイチョウの葉の色を私に教えられたの?」
「聞きかじり。僕は以前から色に興味があってね。目が見える人たちとたくさん話をして教えてもらったり、僕のイメージを聞いてもらったりしてたんだ」
「私に、嘘をついたの?」
 どうせ嘘をつくのなら、彼の目が見えないということが嘘であって欲しい。
「嘘はついてない。僕は一度も、目が見えるなんていわなかったよ」
「そうだけど、どうして見えないっていってくれなかったの?」
「それをいってたら、君は手術を受けたかい?」
 私は黙り込んでしまった。
 それは、正直なところ怪しい。
 意固地な私は、目が見えない人に「見えた方がいい」といわれても、はいそうですかとは聞かなかったはずだ。かといって見える人にいわれて、素直にしたがったとも思えない。
 私は目が見えないことを不満に思ってはいなかったし、それを憐れに思われるのも嫌だったのだから。
「僕は、目が見えない君にいちばん近いところにいるような気がしたから」
 僕にはわかるとでもいいたいのだろうか。
「どうして、こんなこと」
「君には、見えるようになって欲しかったんだ」
 僕には君のことがわかるとでも?
「だから、どうして?」
「君はよっぽど僕を信用していないか、忘れっぽいかのどちらかだね」
 彼は笑っていた。
「前にもいったと思うんだけど、君は目が見えた方が素敵なものをたくさん見つけられると思うんだ。君と話していて、そう思ったんだよ」
 あなたは本当に私のことがわかっているつもりなの?
「もちろん、それは君だけじゃない。目が見えない人が見えるようになれば、たくさんの素敵なことを見つけられる。実際の生活の面でも、ずいぶん助かることが多くなると思う。だから本人が望むなら、出来るだけたくさんの人に見えるようになって欲しい」
 松浦さん、あなたが私のことをわかっているだなんて思っているのなら、
「でも僕は、誰より君に見えるようになって欲しかったんだ」
 大当たりだ。
 あなたは、悔しいくらい私のことがわかってる。
 他の誰かに説得されていたとしたら、きっと私は拒否していたと思う。
「あなたは、手術を受けないの?」
「僕は、外側膝状体が萎縮しちゃってて、だめなんだ」
「そんな…」
 じゃああなたは、自分が永遠に手に入れられないものを、私にくれたというの?
 あんなに楽しそうに色を語って、世界を広げて、私に恋をさせて。
「だから僕は、目が見えるようにはならない」
 私はなんといっていいかわからず、黙って彼の顔を見つめていた。
「自分の顔は、もう見たかい?」
「ええ」
「どうだった?」
 私はもう一度、そっと鏡を見た。
 荒れた肌、ちぐはぐな眉、ゆがんだ唇。
 こんなもの、ひとつも美しくない。
 どこをとったって、美しさのかけらもない。
「どうだった?」
 もう一度、彼はいった。
「美人だったわ。あなたのいった通り、私はとても美人なのよ」
 私はうつむいた。
「あなたも、とってもハンサムだわ」
「知ってる」
 そういって、彼は笑った。
 私は、彼に信じて欲しかった。私が彼の言葉を信じたように。
 私の目に、彼がどんなに素敵に映っているか、知って欲しかった。
「空は、どんな色をしているかな」
 私はベッドを降りて、閉ざされたままの分厚いカーテンを開けた。
 香月先生には、「まだショックが大きいから」と禁じられていたことだ。
 窓の外には、街が広がっていた。
 そこにある個々のものが、ビルや、木や、道路や、家だということは、もっとずっとあとになるまでわからなかった。
 だけど空は、すぐにわかった。
 冬の街の上に広がる、青い空。
 あまりにも広くて、私の足は震えた。
 目を閉じて、暗闇に戻ってしまいたかった。でも私は、いまこの空を見なくてはならない。
「空は、青いわ」
 私は彼を振り返った。
 彼は静かに微笑んでいた。
「それに、ハッカの味がするわ」
「そうか、よかった」
 彼はとても満足そうだった。
 あなたはその青を、私に教えてくれたハッカ味の空を、永遠に見ることは出来ない。
 そのあなたに、私はなにが出来るの?
 わたしがあなたの目になるなんていうのは、おこがまし過ぎる。
 私の目は、彼がくれたものだ。
 私の色は、初めから彼のものだ。

「屋上に行くと、もっときれいに見えるらしいけどね」
どこへ行こうと、あなたには見えない。
「景色よりなにより、君が色を見られないのが残念だな」
見られないのは、私じゃない。
「大丈夫、恋は盲目だから」
それは、恋のせいなんかじゃない。
「せっかく見えないんだから、きれいなところにいるって思っとこうよ」
きれいなのは、景色なんかじゃない。

 私の手を握りもしなかったのは、あなたの目が見えないとわかってしまうからだったのね。

 私は彼のところに戻って、彼の手を強く握りしめていった。
「私と付き合ってください」

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