何かをしている自分が好きだと気づくこと

運転中にぼーっと考え事をしてて、自分の全部を好きでいられなくても、誰かの曲を聴いて酔ってる自分が好きとか、群れることを嫌ってる自分が好きとか、そういう部分的に好きなところを見つけた瞬間て、諸々ひっくるめて漠然と、自分全体が結構好きなのかも、って思えた。

最推しアーティスト「キュウソネコカミ」の楽曲「記憶にございません」を聴いているときにふと思った。

その中で頻繁に出てくるフレーズ、嘘つきは泥棒の始まり、という言葉がある。小さい頃から聞き慣れすぎたことわざゆえ、あまり深い意味を考えてこなかったが、これだとみんな泥棒になってしまうじゃん、と思う。

この世に嘘をついたことない人なんているのだろうか。1人もいないのではないかと思う。

そもそもなぜ嘘を吐く必要があるのか。説明するのが面倒、誤解を生む可能性があるためだろうか。説明したところで納得してもらえないだろうからこういうストーリーにしよう、と言うのはありそうだし自分も今までにやったことがある。ただ、これは近しい関係の人にはしない方がいいだろう。バレた時に信頼関係が一気になくなる。

嘘をつくこと自体は嘘には含まれないのかもしれない。嘘をついた(嘘をついたとは言っていない)
おそらく、嘘がバレた瞬間に嘘判定が入るのだろう。嘘判定が入った後で取り返しがつかなくなるならば、嘘はつかない方がいい。その嘘で守れるものはせいぜい自分のプライドくらいだろうと思う。

説明するのが面倒、というのは経験上よくある。
話が通じないことが想定されたとしても、やはり1〜10まで説明する必要がある。自分が事情を聞く側だったとしたら、時間がかかってもいいから、こういう経緯でこう思ってこう判断した、と言う思考の流れを知りたいと思う。

そのためにも、自分のことを理解してもらう努力を怠ってはならない。思考のすり合わせが必要だ。ここを省略してしまうと中身がスカスカの信頼ブロックが積み重なっていくが、風が吹いただけで崩れてしまうような発泡スチロールに違いない。

誤解を生む可能性がある、というのは言われたことがある。
1〜10の説明をすることで、今までとは違う印象を与えてしまうのではないか、という不安になるらしい。綺麗な部分だけ見せてきたならば、そういう嫌なところは見られたくないという感情が湧くのだろうか。嫌われるかもしれないと思うのかもしれない。

しかし誤解ではなくて、それは真実だよなあと思う。今までが誤解していただけだ。自分のいいところだけを真実をねじ曲げてまで見せるというのは立派な大嘘つきだ。そんなことが理由で嘘をつかれるとこちらもがっくりだ。そんな器の小さい人間と思われていたのか、と。

プライベートに関してはもう感情むき出しで生きていけばええんやない?と思うのだ。それで離れていく人はほっとけ。

話が逸れに逸れたが、自分のことを100%で好いてくれる人などいないと諦めている。人から私に対しても、私から人に対しても、だ。もちろん冒頭で話した通り、私から私に対しても同様である。部分的な好きにたくさん気づけることが人生のほんの少しの幸せであると思う。

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