音楽:wowaka追悼とボカロ世代のぼく
wowakaが亡くなったことを聞いたのは友人からだった、Twitterを見れば1面ニュースに上がっていた。
齢20のぼくにとっては死は身近なものではなく、受け止めるとか受け入れられないとか以前の問題で対応をすることすら困難だった。ただ言いようのない虚無感と一瞬間程を過ごした。ボカロ全盛期を牽引しその波がすぎた後も、音楽好きの今の世代にとっては人生の中に常に居たアーティストだ。常在化した存在であったwowakaが居なくなった。ぼくなんかはそこまでのファンじゃないかもしれない。ヒトリエのライブは2度しか見たことがないし、アルバムも1枚しか持ってない。それでさえ、喪失感は途方もないものだった。
翌日、ヒトリエを大好きな先輩が追悼の意から大音量でフユノを流していた。ぼくは泣けなかった。発話者を失った筈のかの声が電子となって流れることが不思議で違和で、何よりも純粋な気持ちで聞くことが出来なくてそれが嫌だった。その自分の気持ちがwowakaへの侮辱にさえ感じた。暫く一切のヒトリエを聞かなくなった。
そんな中、先日wowakaの追悼ライブがあった。数日前にソースもしれない追悼ライブの動画がYoutubeに上がっていた。(公式ではないのでリンクは貼らないでおく)。この動画がwowakaの死と向き合う契機になった。いや、向き合うなんて大したものじゃないかもしれないけれど、その事実の方向を否応でも向かされるような、そんな勢いのある動画であった。
ヒトリエは聞かないつもりだったのに、何となく再生ボタンを押してしまっていた。8分もない短い動画だった。
ヒトリエの3人は演奏力は勿論申し分もないしシノダの歌も完璧だ。ただ3人をヒトリエと呼ぶことが正解なのか分からぬままただただ聞いていた。持主に弾かれることのないテレキャスがステージに佇む姿は彼の死を見せつけていた。最後にシノダが歌い上げたのは「ローリンガール」だった。
『息を止めるの、今』
という歌詞が今までで1番胸を締め付けた。中学生のころから何回も聞いていたはずのこの曲が持つべきでない意味を持ってしまったのが悲しくて仕方がなかった。詩を言葉として飲み込みたくもない気持ちと、理解もできない無意味な涙がとまらなかった。
今後の活動について彼らは明言を避けているが、ぼくの個人的な予想では彼らがヒトリエで活動することはないと思う。ただ、彼の歌も音楽を失った彼らもぼくたちも今までと同じようには生きれない。それ程までにwowakaは天才だった。これがぼくが言えるただひとつの事だ。
ぼくはまだヒトリエを聞けない。
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