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【ss】空飛ぶソイソース・ラーメン教

 世界の秘密を抱えたわたしは、阿佐ヶ谷で醤油ラーメンを食べている。ふーふー、はふっはふっ、ずるずるずる。コク深い醤油スープに透き通るちぢれ麺。湯気と共に啜ると熱々でこっくりとした旨味が口の中いっぱいに広がる。期待に痛くなった頬袋が喜ぶいつもの味だ。歯応えが少し素直じゃなくて嬉しい。汗ばむ額を換気扇からの微風が撫でる。れんげで一口スープを飲むと、この小さな中華屋一番の売りの煮卵にも箸を伸ばしてみた。もくっ。歯がぶつかり合ってくぐもった音を立てる。醤油スープとはまた違う甘い煮汁が、トロッとした黄身を溶かし出すゆで卵によく浸みていて、堪らない。もくっもくっ。ずるずるずる。ふーふー、はふっ。
「おじちゃん、やっぱわたし、ここのが一番好き」
昼も過ぎ、人もまばらな店内でひたすらに鍋の煮卵を見詰めていたおじちゃん。
「おう」
昔から口数の少ない人だ。ただ、腕前は本物だし、実際ここのラーメンは三ツ星なのだ。わたしの心の中のミシュランがそう言っている。
「おじちゃん、おいしかった」
「おう」
醤油ラーメンに感動を覚え、ここに通うようになってから五年が経つ。わたしが初めてここへ来たとき、この狭い店のカウンターの奥には中年夫婦が立っていた。旦那さんが麺を湯切り、奥さんは煮卵を乗せる。思い出したようにこの店に寄っては、いつも醤油ラーメンを食べていた。朗らかな奥さんはよくこう言ったものだ。
『あなた、醤油ちゃんが来たからネギ抜きメンマ増し、煮卵は一番黒いのね』
一晩冷蔵庫で煮汁を吸った卵は味が深く浸みこんでいて、じん、と小娘の心にも沁みこんだ。
 奥さんが亡くなって四年が経つ。アルバムに挟まっていた煮卵のレシピ。あの味は今、愛した夫の手によって完全再現されている
「煮卵おいしかった」

「うん」

「おじちゃん」

「なんだい」

「……もしおばちゃんが救えたら、戻りたい?」
世界の秘密を抱えたわたしは、軽率で危なっかしい。
「醤油ちゃん」

宇宙の真理が煮える鍋を見詰めて、おじちゃんは言った。

「あいつの煮卵の方が旨かったかな」

わたしは答える。

「ううん」

両方おんなじくらい大好きだよ。おじちゃんが答える。

「そういうことだ」

換気扇がからからと回る。おじちゃんが少し笑った。

「そういうことだ」
 わたしは、自分がタイムマシン開発に携わっていることがその時本当に些事に感じられて、救われた気持ちになった。

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