都落ちを儚むべからず
都に生まれたる人の呟きけるに
Xのとある投稿に対し、東京ご出身の方が「東京に勝手に夢を抱いて、勝手に失望されるの迷惑」と仰っていた。
さもありなん、という感想しか出ないのだが、この現象は都であればほぼ永久に起こる現象なのだろうというのが私の感想である。
「みやこと人」を日本史で見る
かつて、日出処の天子はより発展した国・隋に使者を送った。隋が滅び、唐になっても変わらなかった。約300年、陸続きで世界中から技術とモノと知恵が入り込む都に、たくさんの海難犠牲者を出しながら使者を送った。
唐の繁栄に翳りが見え始め、国内でもぼちぼち文化ができてきたかな、後ろ盾はもういいかもな、という頃に、漢学者の家系に生まれ育った菅原道真が大使となった頃、遣唐使は廃止となった。
道真公が唐に行きたかったかどうかは知らないが、漢書に触れる機会も多かったはずの学者が、発信地への派遣を止める決定を下すことになったのは皮肉だ。
日本の都が転々としながら京都に落ち着いた頃、「祇園精舎の鐘の声」で有名な『平家物語』と「都落ち」という表現が結びついてゆく。
「都落ち」という表現はいつから存在したのか?
閑話休題。『平家物語』に「忠度都落」という節がある。平家が源氏勢力に追われて西へとくだってゆく様子が描かれている章だ。
しかし、「都落ち」という単語は『平家物語』の原典にあったのか、それとも後世の人が語り継ぐ過程で章を括った言葉として登場したのか、ざっと見ただけの私にはわからなかった。
ここから推測するのは以下である。
「都落ち」という言葉が単独で通じるほどの意味を持ったのは、栄華を誇った者が他の地方へ逃げ延びたという平家物語のストーリーが前提なのではないか。
※ここ10分ほどググっただけの私の浅はかな考察だ。普通にもっと古い文献や、本文中にすら登場しているかもしれない。
きっと平家は憤慨する現代の「都落ち」
現在、「都落ち」の意味は拡大され、都会で夢破れた人が地方へ帰る、または去ることを指すようになった。
ミュージシャンになろうとギターを引っ提げて東京に出た人が、結局有名になれずただ田舎に帰ることに「都落ち」が使える。
必ずしも栄華を誇った実績は必要無いのだ。このことを平家の人が聞いたら怒るかもしれない。「我々は確かに都で随一だったのだぞ」と。
時代が下り、遷都して都は江戸・東京になった。都が変われば上る先も変わる。物理的・精神的・制度的に上京が身近になり、例えば九州の漁村で生まれた平民が東京に出ることも、平安時代と比べると容易になっただろう。
加えて、書籍やらインターネットやらSNSやらで個々人が思ったことを好き勝手言える時代となった。とすれば、「東京に勝手に憧れを抱き、勝手に失望した人」らの姿が生まれながらの都人の目に留まる機会もおのずと増えよう。
都人は何千年も前から、こうした羨望や絶望に、歌や書や手紙を通してうんざりしてきたはずだ。時の都に住むこととこのうんざり感は、切っても切り離せないセット商品で、バラして売れる頃にはきっと、そこはもう都ではなくなっているだろう。
明日には都人もおのぼりさん
随にしろ、唐にしろ、京都にしろ、「我に憧れよ」というメンタルがあったかどうかは別にして、わざわざ下々の門戸を叩いて「我に憧れよ」と一軒ずつ言って回ったことは無いはずだ。ただ当時、栄えているというだけで人々が集まり、色々な理由で去っていった。
都人として「我らの東京に夢見るはみにくし」と扇子越しにのたまう冒頭の人も、先祖を遡れば、都に夢見て希望を抱き上ってきて、なんとなく上手くいったから定住しただけの地方人かもしれない。
もっと言うとすれば「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢の如し」であるから、そのうち都が変われば、子孫たち、もしかするとこの人でさえ、都を目指しておのぼりし、挫折して東京に都落ちしてゆく未来だってあり得るのだ。
その時には「勝手に夢を抱いて、勝手に失望されるの迷惑」と未来の都人がきっとどこかで苦い顔をしているだろう。
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