小説『石膏像の涙』(作:平八郎)

 美術準備室の奥にある石膏像の顔には傷跡がある。そんな噂のような都市伝説のようなものを初めて聞いたのは、私が高3になって少し経った時のことだった。
「1年の時の美術の授業で、友達を描くって課題があったの覚えてる?クラスの中で2人組になって、お互いの顔を描き合うってやつ。あれでたまたまクラスの人数が奇数だった年があって、一人だけ余っちゃった子がいたらしいんだよね。その時にその子だけ、人の顔じゃなくて石膏像を描くことにしたんだって」
 有彩の芯の強い声は壁の絵の具に吸収されることもなく、マスク越しでも直にこの教室に響く。何も知らない私はスケッチブックの上を行き来する腕も止めないまま能天気に答えた。
「え、そういう時って大体自画像を描くんじゃないの?」
「普通ならそうなんだけど、先生が特別に選択肢を出したの。石膏像の顔をデッサンするのはどうかって。自画像を描いても別にいいけど、これなら鏡で自分の顔を見ないで済むだろって結構先生も乗り気だったみたい」
「なんでわざわざそんなこと?」
「顔に傷跡があったからだよ。彼女がクラスの中で誰ともペアを組めなかったのも、それが理由だと思う。周りと見た目が違うことを理由にクラスで虐められてたのかもしれないし、そうじゃなかったとしても皆どう接したらいいか分からなかったんじゃないかな。仮に彼女とペアになったとして、どんな絵を描けばいい?彼女の顔はマスクをしなければ周りを歩く人が一斉に振り向くくらい傷跡が目立ってた。その顔をそのまま描けば相手のコンプレックスを刺激して傷つけてしまうかもしれないし、かといって傷なんかなかったかのように他の部分だけを描いたとしても変に気を遣ってるって思わせちゃうよね。絵が得意な子であればあるほどなおさら悩んだと思うな。だから彼女が虐められてたとしてもそうでなくても、最初からその子が誰かとペアを作るのは難しかったんだと思う」
 突然の重い内容に思わず鉛筆が滑り、端整なスケッチに食器のひびのような不規則な線が混じった。場違いだと分かっていながらも、本当に都市伝説にありそうな内容だな、という一言がとっさに頭を過る。
「それで、それがどうしてあの噂に繋がるの?傷跡があるのは石膏像の顔じゃなくて、その女の子の顔なんだよね?」
「美術準備室の石膏像って、いつも顔にマスク着けてるでしょ?あれって最初は生徒にマスクの着用を促すためだと思ってたんだけど、違うらしいの。最近になってB組の浜野がマスクの下見たんだって。え?ほら、今年に入って転校してきたヤツ。うちの学校に来たばっかりの頃に美術準備室が立ち入り禁止なの知らなくて、掃除のついでに興味本位で中入ったらしくてさ、そう、その時はまだ鍵かかってなかったから。デッサン用の石膏像がマスク着けてるのを不思議に思って外してみたら、黒々とした傷跡が出てきてビビったって言ってたよ。だからあのマスクは、石膏像の顔にある傷跡を隠してるんだよ。彼女が石膏像のデッサンをすることに決めたのを知ったクラスの子たちが、嫌がらせで石膏像の顔にも傷跡を描き足したんじゃないかって言われてる。せっかく自分の顔を見なくていいことになったのに、石膏像の顔にまで自分の顔と同じ傷跡が付いて回ってきたらぞっとするだろうなあ。だからあの石膏像、呪いの石膏像って呼ばれてるの。それ以来美術準備室は常時施錠になって、石膏像は簡単には見られない状態になってる。そりゃそうだよね、今回みたいに誰かが顔見たりしたら大騒ぎになるもん、あれ」
 正直あの石膏像はここ最近ずっと準備室に閉じ込められた状態になっていて、しばらくその姿を見ていなかったから、マスクを着けているという話はあまりぴんとこなかった。この学校にかつて通っていた生徒のことを芸能人のゴシップみたいに軽い調子で話す有彩を見て、初めて自分の友達のことを少しだけ怖いと思った。
「でもそれってあくまで噂だよね?その浜野って人が適当なこと言ってる可能性はないの?」
 私がそう言うと、有彩はどこから手に入れたのか分からない美術準備室の鍵を取り出し、ニヤリと不敵そうに目を細めた。
「そう。だから、これから見に行こうと思ってるんだ。今流行ってる噂が本当かどうか確かめるために」

 
 中間試験最終日の放課後、私たちは美術準備室の前に立っていた。久しぶりに目にした木目の扉に一気に懐かしさを感じると共に得体の知れない不気味さに襲われ、まだ暑い季節でもないのに手に汗が滲んだ。なんだろう、この居心地の悪さは。都市伝説の元になっているというこの場所は、記憶にあるよりも幾分か霊的なオーラを放っているように思えた。
「…開けていい?」 
 指先が微かに震える。鍵を持っているのが私だったら、扉を開ける前に緊張で手から鍵を落としてしまっていただろう。
「うん」
 有彩が鍵を持った手をゆっくりとひねる。鍵に付けられた札がジャラジャラとやかましく音を立てた。
――ガチャ。
 扉が静かに奥へと開いた。
 教室の中央にはあの石膏像があった。

 
 その像を見た瞬間、高1のときのあるクラスメイトの記憶が脳裏に蘇った。水曜1限のチャイムの音で皆がキャンバスを取り出し始める頃に、いつもアクリル絵の具を抱えて逃げるように教室を出て行っていた子。全体の輪郭やパーツ配置などは多少ダビデ像の彫りの深さを感じるけれど、あの何かを諦めたような眼差しとまばらに生えた眉毛にはよく見覚えがあった。パッと見ただけでは目の前にあるのが何なのか分からず、どういうこと?と近くに寄ってみてやっと気付く。これ、石膏で作られたダビデ像の表面に、アクリル絵の具で顔のパーツに沿って着色しているのだ。目元には白く柔らかな起伏をなぞるように瞼の線が引かれ、唇は軽く赤みがさしていた。そして右目の下から口元にかけては、ぞっとするほど大きな傷跡が描かれている。
「...絵真?」
有彩がつぶやく。その声を聞いて、私は忘れかけていた彼女の名前を思い出す。そうだ、絵真っていう名前だった。名字は確か、藤崎。彼女と私はそれくらいの関係だった。会えば気付くけれど、名前はすぐには出てこない。使っている筆箱は分かっても、財布の色やスマホの機種は分からない。好きな食べ物も得意な教科も、使っている駅も知らない。もちろん、マスクの下の顔も。
「ねえ、ちょっとこっち来て」
 何気ない言葉に身を乗り出して像の反対側を覗き込む。
像の左目の下には血のような涙が流れていた。

 試験1週間前、藤崎絵真はいつものように美術準備室で作業をしていた。美術準備室は鍵がかかっていて普通の人は簡単には入れないけれど、絵真は自分が美術部員なのをいいことに暇な時間のほとんどをこの場所で過ごしている。でも今日はいつもとは少し訳が違った。例の都市伝説が学校じゅうに広まっているのが嫌でも分かって、ここに来るまでずっと息を止められたような気分だった。ねえ、あたし、石膏像のスケッチなんてしてないよ。ちゃんと自分の顔を描いてたよ。石膏像をスケッチするふりをして自画像を描くのが、可哀想なあたしに石膏像のデッサンを勧めようとする先生への唯一の抵抗だったから。自分の顔を鏡で見たくないなんて、あたしは少しも思ったことなかったのに。顔に傷跡があって可哀想だなんて思わないで。みんなが信じてるあの噂は過去の都市伝説なんかじゃないのに。高校に入学したとき、席の近かった一部の女子が彼女の顔の傷跡に気付いて騒ぎ出したことなんて、絵真にとっては何の不幸でもなかった。マスクだって元は作品の途中経過を隠すためのもので、作品が完成したら必要ないはずだった。それがいつの間にか絵真自身の顔も出来上がった自画像も腫れ物扱いされ、見た人がショックを受けるからと作品には再びマスクが着けられるようになったのを思うと、悔しさで身震いがした。
 彼女はダビデ像の上の自画像に、赤い絵の具でそっと涙を描き足した。