小説 『天津飯の魔法』

「オレはこの天津飯に全てを賭けている。この天津飯が最優秀賞に選ばれたら……オレとの約束、覚えているよな?」
「うん。雄也君と中国に行って、天津飯のお店を開く。そして……雄也君と結婚するの」
 エリカはそう言って、オレを抱き寄せ唇を重ねてきた。長い黒髪から、甘い香りが鼻を掠め、オレはエリカで満たされた。
「おい、そういうのは最優秀賞が決まってからするもんだろ、普通」
「いいの。雄也君が勝つに決まってるんだから」
「……たく。しょうがねえな。お返しだ」
 今度は俺がエリカを抱き寄せた。柔らかい唇の間からオレの舌を侵入させ、舌と舌を絡ませる。エリカの口の中は、オレが命をかけて作った天津飯の味がした。

「……よし。今日のところはこんなもんでいいだろう」
 俺はノートパソコンを乱暴に閉じた。
 時計を見上げると、午後12時ちょうどを指している。
 俺は机に置いてあったポテトチップスの袋に口をつけ、わずかに残っていたカスたちを流し込んだ。
 俺が書いている小説は今佳境に入っている。今週中には書きあげてみせよう。
 そしたら……俺は期待の新星、一流のライトノベル作家になるんだ。
 俺を見下す奴らなど、今にでも見返してやる。
 ……さて。その前にまずは腹ごしらえをしなくては。
 ゴミで埋もれた床を踏みつけ部屋をでると、俺は一階に降りた。
 俺の両親は個人経営の中華料理屋をやっている。味も値段も普通だが、酒は安く提供しているため、夜になるとそれなりに繫盛している。
 だが、そもそも店が繫華街の裏側にあることも手伝ってか、昼は数えられる程度の客しか来ない。現に俺が厨房に降りてきた時も客はゼロだった。
「親父、天津飯ちょうだい」
 客席に座りこんで注文をすると、親父は呆れたような目で俺を一瞥したが、黙って数分後に湯気のあがった天津飯をテーブルに置いた。
 ここ数ヶ月、俺は毎日のように天津飯を食べていた。
 前までは店の料理をローテーションしていたのだが、親父が天津飯の味を改変してからというもの、新しい天津飯が妙に癖になってずっと食べ続けるようになってしまったのだ。
「あんた、ずっと部屋に籠もってないでいい加減仕事を探したら?」
 厨房の掃除をしていたお袋がすでに聞き飽きている台詞を口にした。
「俺は今小説を書いててそれどころじゃないんだよ。俺の本が世にでて有名になりゃ親父たちの店も繁盛するようになるからよ」
 天津飯をかきこみながら答えると、お袋はうんざりしたように溜息をついた。
「はあ、あんたの同級生たちの中にはとっくに出世してる子だって居るだろうに」
 29歳、無職。俺の今のスペックが社会的に見てどういうものなのか、まったく自覚がないわけではない。
 そこそこの大学を出て、そこそこの会社に俺は就職した。
 だが、社会人生活は期待通りにはいかなかった。周りの人間になぜか嫌われ、一方的にクビを言い渡された。
 俺に普通の仕事は向いていなかったんだ。そして、俺に向いた職を探し始めて4年が経った。
 そして今、ようやくライトノベル作家という道を開き始めたところだ。
 俺の小説の主人公の男、雄也は、天津飯のレシピを研究し、世界中華料理大賞受賞を目指している、という設定だ。
 ちなみになぜ雄也が天津飯にこだわっているかというと、雄也が幼い頃から片想いをしていたエリカの好物が天津飯だったからである。
 ……非凡でなんの取り柄もなかった雄也の運命を変えた天津飯。
 この天津飯が、俺の運命も変えてくれると信じている。
 俺が食べ終わった頃に、一人の女性客が入ってきた。
……また来た。
「いらっしゃいませ」
「天津飯一つください」
 その女性客は慣れた口ぶりで注文すると、壁際の端の席に座った。
 黒いロングコートを畳んで椅子に掛け、シュシュで長い黒髪を束ねる。
 この女は、毎日ほぼ同じ時間にこの店を訪れて、天津飯を注文している。
 実を言うと、俺が今書いている小説は、この女からインスピレーションを受けたものだ。
 俺はそっと女を盗み見た。細く白い手でスプーンを握り、せっせと天津飯を口に運んでいる。
 綺麗な女だ。そうつくづく思う。
 雄也は天津飯を作りエリカを振り向かせた。
 俺はラノベでこの女を振り向かせたい、なんて思っている。俺の小説が有名になったら、女に声をかけるんだ。「エリカのモデルはあなたです。僕のエリカになってくれませんか?」なんて。
 ふと、女と目が合った。
 慌てて目をそらそうとした瞬間、女が俺に向かってにこりと微笑みかけた。その頬が、わずかに赤らんでいるのが分かる。
 おい、彼女、俺を見て顔が赤くなったぞ……もしかしたら、いけるのではないか?
 なんとなくだが、ここ最近、女からの視線をなんとなく感じているのだ。
 女もまた、俺のことが……だとすれば、俺が雄也になる日も近いかもしれない。
 女が会計を済まして帰っていく姿を眺めていると、また目が合った。食後に塗り直したのだろう、赤いリップの塗られた唇が「ユ、ウ、ヤ」と動いた。
 俺は思わず立ち上がった。今、この女は雄也と言ったよな?なぜ、その名を知っている?
 まさか……。
 エリカ、なのか?
 俺はこの女をエリカのモデルとして書いていた。だが、実は、あの女自身が俺にエリカという人物を書かせたのではないだろうか。 
 俺はこの時、この女に超常的なものを感じた。
 女が─いや、エリカが店の外へ出ていく。彼女のハイヒールの音がどんどん遠ざかっていった。
「エリカ!」
 気がつけば俺は店を飛び出していた。
 彼女を追いかけ、繫華街をがむしゃらに走る。交差点の前で、信号待ちをしている黒いロングコート姿のエリカを見つける。
 エリカのもとへ駆け寄り、後ろから抱きついた。
「エリカ、お前のことが頭から離れないんだ」
 そう言って顔を覗き込もうとした途端、腹の辺りに衝撃が走った。


  
「エリカ、お前のことが頭から離れないんだ」
 突然後ろから抱きついてきた男が、荒い息遣いで私の耳元に囁いてきた。
 私はすかさずコートのポケットからスタンガンを取り出し、男の腹に押し付けた。
 男の身体が大きな音を立てて地面に崩れ落ちる。
 向こうの信号に立っていたサラリーマンが、ぎょっとしたようにこちらを見ていた。

「本当に申し訳ございません。息子が失礼なことを」
 成川中華食堂の店主である成川氏が頭を下げてきた。その隣で、奥さんも同じように謝っている。
「いいんですよ。これも仕事の一環みたいなもんなんで」
 私が言うと、頭をあげた店主が私の顔色を伺うようにして聞いてきた。
「それで、息子のほうは今どうしていますか」
「今、隔離室で様子を見ていますが、相変わらずですね。妄言と奇行が続いています。……結論から申し上げますと、治験は失敗です」
「じゃあ、これから息子はどうなるんですか」
 今度は奥さんのほうが言った。その顔に浮かんでいる表情は、得体の知れない薬に侵された息子の心配ではなく、半ば痴呆と化した息子が自分たちのところに戻ってくるかもしれないということに対する不安であった。
「貴重な被検体ですので、息子さんは引き続きこちらで預からさせてもらって、経過観察をしていきたいと思います。その間も成川様には今までと同様に謝礼金を毎月お支払いします」
 そう答えると、二人はほっとしたようで、強張っていた表情を幾分か緩めた。
 「今後ともよろしくお願いいたします」と成川夫妻に礼を言い、私はここ数ヶ月毎日通い続けていた中華料理屋を後にした。
 研究室に戻り、レポートのまとめに取り掛かる。
 私の所属する研究会社は、麻薬などを使った非合法的な薬の開発を秘密裏に行っている。 今回、被験体の成川雄太に投与した治験薬は、職にもつかず部屋に籠っている、いわばニートとして暮らす家族に手を焼いている人たちのために開発を進めているものである。この薬を定期的に投与することでやる気を促進し、また本来もっている能力の倍以上を引き出す効果が期待されている。
 成川中華食堂の息子、成川雄太の治験が開始されたのは約半年前。成川氏の息子、雄太は会社で同僚の女性につきまとい嫌がらせをしたことをきっかけに解雇され、以後5年間自室に籠りっぱなしの生活を続けていた。何度注意しても更生する気のない雄太に愛想をつかした成川夫妻は、知り合いのツテで私たちの実験を知り、雄太の健康の安全を保障しない代わりに毎月多額の謝礼金が支払われるという話に飛びついて息子を被検体として提供してくれたのだ。
 まず、薬の依存性を調べるために、雄太が毎日昼食を店で取っているという習慣を利用して、メニューのうち一品だけに薬を混ぜて出すように頼んだ。その料理に選んだのが天津飯だった。
 結果、薬に依存性があることは明白だった。雄太は薬を混ぜた天津飯を頼んだ日から、毎日天津飯を注文するようになっている。実際、私も観察のためにほぼ毎日店に通っていたが、雄太が天津飯を頼まなかった日を見たことがない。
 薬入り天津飯を食べ初めて数週間後、雄太に変化が表れた。今まで本を全く読むことのなかった彼が、突然小説を書き始めるようになったのだ。
 ここで薬の欠点がいくつか判明した。やる気促進の効果はあったが、そのやる気が必ずしも就職に向けられるとは限らないということである。顧客のニーズは無職の家族が職についてくれることだ。また潜在能力の倍以上を引き出すという効果については、今のところ何とも言えない。雄太の小説を読んだが、文章もストーリー構成も稚拙であった。だが、全く本を読まないことを考慮すれば、一概に下手とも言えない。判断の難しいところだ。
 もう一つの欠点は、妄想やそれに伴う奇行といった副作用がでたことである。雄太は自身の書いた小説の世界と現実の世界が混乱し、私をヒロインと思い込んだようだ。
 とりあえず、この実験で出た課題点をもう一度検討しなくてはならない。
 ふと、背後に気配を感じて振り返った。
 私のいる研究室の隣には雄太を収容している部屋があるのだが、部屋と部屋を区切る壁にガラス窓が嵌められているので、こちらから向こうの様子がよく見えるのだ。
 ガラス窓に張り付くようにして、空きっぱなしの口から涎を垂らした雄太がこちらを見ていた。薬の副作用の進行は止まることなく、とうとう雄太の脳を傷つけ廃人のようにしてしまった。
「エリカ……エリカ……」
 ガラスの向こうで雄太がつぶやいている声が聞こえる。どうやらまだ私のことをエリカと勘違いしてるらしい。そういえば、彼が会社で付きまとっていた女性の名前は恵梨香だったか。
 それにしても、何だか気持ち悪い。正直、彼はもう観察しても意味ない気がする。
 成川夫妻に毎月謝礼金を振り込み続けるのもめんどくさいし、さっさと処分してしまおうか。
 上司に成川雄太の処分許可をもらったら今日はもう帰ろう。
 私は研究室を後にした。
 薄暗い廊下に、となりの部屋から漏れる男のうめき声が響いていた。