小説 『境』(作:こね)

 腹が減った。
 我に返ったのが舞台上だったから最悪だ。慌ててプラスチック製の焼きたてパンを貪り食って取り繕う。舞台でのみ華やかに輝く銀色の食器を握り締め、何もない皿からスープを飲む。ぐうっと喉を動かして、俺はセリフを吐き出した。
「うまい……!」
 巨大な黒い観客は音を吸う。密度の高い視線が次の演者へと移動した。硬い食品サンプルに顔を埋めるふりをして、息を吐く。どこもかしこも白飛びするほどの光を浴びて、視線からは逃げられない。薄くクラシックが流れている。何度も繰り返した風景でも観客がいると湿度が上がる。じっとりとした汗を自覚するほどに、俺は『俺』に戻ってしまっていた。
 ジャン=バルジャン、すなわち俺のセリフはしばらく無い。司祭から与えられた暖かな施しに涙して、ひたすら埋もれていればいい。パーライトがこめかみを煮る。湯気を上げる空の皿にまたスプーンを差し込んで、唇に運ぶ。切れるはずのないステーキ肉にフォークを突き立てて胃に落とす。何も入っていないワイングラスから赤ワインを飲み下す。自分とジャン=バルジャンとの間隙を埋めるように、ひたすら空洞を詰め込んでいく。どこか遠くから、俺が俺を観劇している。機械的にセリフを演じながら、片付けられた食卓のように空っぽな心を見つめている。就寝の挨拶が飛び交って、司祭とその家族はベッドへ向かう。

 暗転。

 全員のギアが切り替わった。静かに忙しなくなった舞台から大道具を運び出す。既定の場所にそっと椅子を置いて、舞台袖から客席を見た。巨大な黒い獣は波打って、光から生まれる境界線を待っている。観劇する観客は感激を求めている。小道具のフォークを握りしめた。
 腹が減った。空虚な胃に手を置いた。頭を埋めるのは次のセリフだ。ジャン=バルジャンの左手が、食道を引っ掻いて肺を奪う。虚構の食事を喰らった俺は、ジャン=バルジャンに溶かされる。飢えも渇きも収まって、満たされないのは懐だけだ。戸棚から盗んだ銀食器をしっかりと掴んで、速い鼓動を誤魔化すために息を吸う。
 内臓の中心が蠢いた。カッと目を焼くスポットライトに暖められて、孵化したジャン=バルジャンが歩き出す。巨大な黒い観客がぐぱりと視線で咀嚼した。