小説『頬から垂れた絵の具』 (作:京々)

 教室に入ろうとしたら、鍵がかかっていた。がちゃがちゃとドアを動かしていると、隣の教室に人が入るのが見える。あ、間違えた。
 記念すべき初回授業が行われる教室に入ると、既にちらほらと人がいる。皆、私より地味な格好をしている。流石に大学デビューにかこつけて髪を真っ青に染めるのは早かったか。このクラスのメンバーとは週に何度も会うから、人間関係の形成にはちょうどいい。中高時代も初動が「クラスの立ち位置」を決めたから、早めにインスタを交換するのが大事だ。もちろん「#春から○○」も学部のオープンチャットも済。
 来るキラキラとした人生のモラトリアムを夢見ていた。静かに入ってきた男性を見るまでは。
 見た途端に、すぐに分かってしまった。規模が大きい大学だから別に小学校の同級生がいてもおかしくはない。よりによって彼という名の貧乏くじを引いてしまった訳だ。私の人生の汚点。無難なパーカーに安いジーンズの風貌は、まじりっけのないまま小学生から成長したようだった。続々と教室に人が入ってきたが、誰とも話せなかった。
 先生が入ると、かしましい教室は一瞬で静かになる。マスクをしている生徒は彼だけだった。新生活恒例の自己紹介が前の席から始まっていく。「永田聡です。よろしくお願いします」ねえ、石田。あとちょっとで私の順番が来るけど、気づかないで。6年2組の『ホッシー』だった私は、変わらず自分のキャラを貫いた。だから、『ホッシー』において決まりが悪い記憶は消したかった。ずっと反省してるといったら嘘になるけど、あの一件以来刃物の扱いには気を付けるようになった。……そうはいっても、あんたは覚えてるよね。自分の顔を傷つけた奴なんて。前の人が席に座る。
「星宮桃です。よろしくお願いします」
 彼の顔が見れなかった。

「ねえホッシー、何彫ってるの?」
「うちに咲いてる花」
 あの日は梅雨明けくらいで、がやがやと私語が響く図工室にはじめじめとした暑さが広がっていた。彫刻刀でルームプレートを作る授業。私は先週の授業を休んだせいで、まだ木を彫っていた。筆に水を含ませる音、中の水が汚くなったのかバケツをひっくり返す音。周りの進捗具合に焦りながら、彫り進めていた。
「ねえ、小西君なに作るんだろうね。やっぱり恐竜とかかな」
 小西はクール系の足が速いイケメンで、格好の小学生の片思い対象だった。隣に座っていた友人も彼のことが好きで、しょっちゅう恋愛相談に乗ったのを覚えている。
「石田ーちょっとバケツ邪魔」
「……ごめん」
 対して、向かいに座っていた石田は対照的な男子だった。ひょろっと背が高く、運動神経は悪い。友人がちょっと邪険に扱っただけですぐ従うような意気地なし。女子だけでなく、男子からも人気がない奴だった。でも、私はそんな彼が嫌いじゃなかった。まあそう言ったら、空気が読めない人と思われて序列からはみ出てしまうから言えなかったけど。当時の私は、流行りものに精通しているおしゃれキャラをみこちゃんに奪われかけており、かなり発言には気を使っていた。クラスの暗黙知には従い、必要ならば陰口も言った。
「ねえねえ、みこちゃんは猫にするんだって!可愛い~」
無邪気な賛美が私の集中を削いでいく。うちはみこちゃんみたいにお金持ちじゃない。このクラスは派手さが価値を持つ。女子はすぐクラス内のポジションが変わるので、このルームプレートさえ価値を判断するツールだった。
 一旦休憩しようと、彫刻刀を置いて伸びをする。石田は淡々と、幾何学模様に色を付けていた。大人びた柄と丁寧なブラシ運び。思わず目を向けていると、怪訝な顔でこちらを見たので慌てて作業を再開させる。
「え、ホッシーなに。石田のこと見てた?好きなの?」
 私の行動を見逃さず、友人が声高に言う。
「ちがうって」
「いやー好きでしょ!」
 小学生という生き物は、つくづく馬鹿だ。ちょっと見ただけで「好き」とはやし立てるのだ。友人はみこちゃんに聞こえるように「ホッシーは石田を好き!」と繰り返す。当の彼はこちらの様子を気にすることなく作業を続ける。くだらない女子の戯言としか思っていない表情で。「やめてって」「ねえみこちゃーん!」

「やめてってば!」
 私は思わず立ち上がり、ベタベタと触ってくる彼女の腕を強く振りほどいた。必死で、自分が彫刻刀を持っていることも、目の前に筆を洗う石田がいたことも忘れていた。ざく。嫌な音がして、世界はスローモーションになる。友人の悲鳴、クラスに伝播するざわめき、先生が飛んでくる。顔を抑える彼。「誰か!保健室の先生呼んできて!」走るみこちゃん。

 クラスメイトの顔に傷跡を残してしまった私だが、辛うじていじめに遭わなかった。あだ名を持たない彼と、クラスの人気者である私。世論は幸いにもこちらに味方した。事件以降急速に女子の勢力を伸ばしたみこちゃんが「わざとじゃないよ」と私を慰めたのも大きい。勿論、石田には親も含めて謝ったし、彼と関わる時にはめいいっぱい気を使った。顔の傷を隠すためにマスクを着け始めた彼は、依然と変わらぬ態度で私に接した。それが救いで、少し怖かった。
 それから、受験をして、中高一貫校へ入学した。スクールカーストが明確になっても尚、私はクラスで騒げる立場にいた。自由に班のメンバーが決められた中学の修学旅行では、青春の権化みたいな班を作った。高校の体育祭のクラスダンスは、私が曲を決めた。上手にクラスの空気を操作し、ひたすら置かれた境遇を楽しんだ。オドオドする女子を『さん』呼びし、みんなに私のことは『ホッシー』と呼ばせた。高校生になるとすっかりあの一件はネタとして友達に話せるようになった。「死にたい」なんて思ったことは一度もないし、卒業式で号泣するくらい学生生活は楽しかった。

「石田誠です。……よろしく」
彼は、露骨に私を見ながら自己紹介をした。間違いない、彼は分かっている。私がしたことも、私が自分の罪を忘れていたことも。
 自己紹介だけで終わった授業の後、彼は真っ先に私のもとへ来た。相変わらず背は高く、雰囲気は大人びていた。
「久しぶりだな、『ホッシー』」
 声変わりした声には、嘲笑も混じっていた。『ホッシー』である私は、輝いている。何も返せず、目をゆっくりそらす。
「髪、派手に染めてるなあ。絵の具みたい」
 次の授業があるのに、座ったまま動けない。まるで、彼の手に彫刻刀が握られているようだった。
「……見る?お前につけられた傷跡」
 それはとても低い声だった。私が青春を送っている間、彼は絶望を送っていた。私が自分を好いていた間、彼は自分を嫌っていた。私があえて閉めていた記憶の鍵を彼はしっかり持っていた。私が忘れている間、彼は覚え続けていた。今、閉めていた罪が濃縮されて、ぶつけられている。

 「一年間、よろしくな。ホッシー」
隣の鍵がかかった部屋に、今すぐ入りたかった。