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続けるということ、の話

 尊敬している大学の後輩がいる。

 尊敬と言うとちょっと重いかもしれない。すごいと思っている、くらいにしよう。その後輩は毎日、日記のようにnoteを書き続けている。

 その子は3月くらいから今日までの6ヶ月間、noteを投稿し続けている。書いている内容は様々で、大学のことだとか、好きなバンドのことだとか、今現在の自粛のことだとかだ。

 正直イカれていると思う。もちろん悪い意味では無い。しかし、毎日文章を書くというのはそれくらい大変なことだ。 

 執筆のための時間、書くための話題、それをまとめる構想力、文章を書くためには多くの要素が必要となる。日々淡々と更新を続けるその子は本当に凄いし、僕には到底出来ない。

 noteはTwitterや自分だけの日記とは違う。数10文字で書いた気にはならないし、不特定多数の人々の目に触れるものだ。noteでの投稿とは、己の内を皆に晒す作業である、と思う。

 毎日そんなことをしているというのは、いったいどういう気分なのだろうか。辛く苦しいものなのかもしれないし、こんなに重く捉えているのは僕だけで、実はとても楽しいのかもしれない。

 後輩がどのような気分で毎日の文章を書いているかは知らないが、とりあえず僕には無理である。毎日続けていることなんて食事ぐらいだ。

 そんなわけで、僕には尊敬している後輩がいる。

「続けることは大事だし何よりも難しいことだよ」

 と、沢山の人に言われてきた。僕自身も実感している。

 太く長く、そして強く続いていくことが一番良いだろう。しかしそんなものは存在しないと思う。全てのものにはエネルギーがあって、それを絶やすことなく稼働させていくことは不可能に近い。

 細く長く、それが僕の続け方だ。余裕を持って、時たま休む。よく言えば余白を作る、ということである。

 この週一エッセイだって月曜23時更新とは言っているけれど、そこに大した意味はない。たまたま最初に投稿したのが月曜の23時だったから、そこを目安にしただけである。

 目標ではなくて目安というのが重要だ。僕個人としては、1週間のうちの何処かに僕のエッセイが生み出されれば良い、という風に思っている。

 目標を設定し、そこに向けて自分を強く追い込んでいくことも重要だ。そうしないと見えない景色は絶対にある。ただ、自分を追い詰めてしまう事があってはならない。苦しむ事と、苦しめる事は違う。特にこういう趣味のようなことは尚更。

 すごい後輩を横目に見ながら僕はのんびりと続けていこう。月曜23時をとっくに過ぎた時間に、シレッとそんなことを書いている。これでしっかり目安の時間通りに投稿していれば説得力もあるのだけれど、どうにも格好がつかない。

というか、もはや唯の言い訳だ。偉大な後輩を前振りにして、自分が自らで設定した投稿日すら守れない言い訳をしているようにしか見えないだろう。なんとも情けない先輩である。

 せめて後輩がこのエッセイを読まないことを祈りながらひっそりと、今日は執筆を終えようと思う。

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