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家本政明氏に甚深の感化を受け、行動心理学からサッカーを考えてみた

家本政明氏の「サッカーってどんなスポーツなの?」は興趣が尽きない。

サッカーが自由なスポーツなのは、競技規則のグレーさがあるから。ここを束縛すると魅力は減る。たとえばビデオアシスタントレフェリー(VAR)に批判的な声があがり始めているのは、試合が止まり、サッカーの自由さが減ったように感じるからではないか。

一方で、そのグレーさを、サッカーにあるブライトサイドとダークサイドのうち、ダークサイドが突こうとする現実もある。などなど雅趣に富むコラムばかりなのだが、

そんな家本氏に甚深の感化を受け、『週刊審判批評』が

「なぜ、同じシーンでも、対戦チームのサポーター同士で見え方が違うの?」

を考察しているので、転載したい。


心理学と行動経済学の権威であるダン・アリエリー氏の『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』に興味深い記述があった。

アリエリー氏は、ある日、友人とアメリカンフットボールを観戦していた。一人はAチームを、もう一人はBチームを応援し、試合は劇的な結末となったのだが、試合後、ノーサイドとはならなかった。

Aチームを応援していた友人は「あきらかにボールは出ていた」と主張し、Bチームを応援していた友人は「いや、ボールは出ていない」と論争を始めたのだ。

サッカーでもよく見かける光景である。

アリエリー氏はなぜこのような現象が起きるのかレポートしているので、抜粋したい。


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ふたりは同じ試合を観戦してはいたが、まったく異なるレンズを通して見ていた。

ひとりはパスがイン・バウンズだったととらえ、もうひとりはアウト・オブ・バウンズだったととらえた。

スポーツでは、このような議論はべつに有害ではなく、むしろ楽しいことさえある。

問題は、このふたりのように、両者がかたよったレンズを通して見てきたという経緯があると、スポーツだけでなく世のなかのできごとをどう経験するかもちがってくる可能性があることだ。

実際、イスラエルとパレスチナ、アメリカとイラク、セルビアとクロアチア、インドとパキスタンなど、ほとんどの争いは、かたよった見方をしてきた経緯が激化の大きな要因になっている。

どの争いも、双方の側の人が同じような歴史の本を読み、さらには同じ事実を教えられたとしても、だれが争いをはじめたのか、だれかが責任を負うべきか、だれがつぎの譲歩をすべきかなどについて意見が一致することはまずない。こうしたことがらの場合、信念への思いは、スポーツチームとのどんな結びつきよりはるかに強く、わたしたちはその信念にあくまでしがみつく。

そのため、問題への思いが強くなればなるほど、「真実」について意見が一致する可能性はますます低くなる。なんともそら恐ろしいことだ。わたしたちは、膝を突き合わせることで相違を取りのぞくことができ、そうすればすぐにでも歩みよれると考えたがる。しかし、歴史はそれがありそうにない結末であることを示してきた。そしてわたしたちはもう、この悲惨な失敗の原因も知っている。

だが、まだ望みを捨てることはない。わたしたちの実験では、酢のことをまったく知らずにビールを試飲したり、試飲したあとに酢のことを聞いたりした場合、本来の風味が味わえた(FBRJ注:酢という隠し味を教えず普通のビールをプレミアムビールと謳って飲ませると皆が信じて偽プレミアムビールのとりこになった)。

けんかを仲裁するのにも、これと同じ方法が使えるはずだ。

それぞれの側の観点を関連性なしに提示する。つまり、事実はあかすが、どちらの側がどの行為をとったかはあかさない。このタイプの「目隠し」条件が真実をもっとよく見きわめる助けになるかもしれない。

先入観や予備知識を取りさることが不可能な場合でも、少なくとも、だれでもみんなかたよっているのだと認めることはできるだろう。わたしたちが自分の観点にとらわれていて、そのために真実が部分的にしか見えていないのだと自覚すれば、ほとんどの争いは中立的な第三者―――わたしたちの期待に影響されていないだれかーーーに約束ごとや規則を決めてもらう必要があるということを受けいれられるかもしれない。もちろん、第三者のことばを受けいれるのは簡単ではないし、いつも可能とはかぎらない。しかし可能なときは、大きな効果をもたらすこともある。この理由ひとつだけをとっても、わたしたちはあきらめずに努力しつづけなくてはならない。

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要は、人間は思い入れが強くなればなるほど、かたよったレンズで物事を見てしまうということである。そして、それを理解すれば、受け入れられる可能性が高まるとオルタナティブあるレポートになっている。

その中でも、

「スポーツでは、このような議論はべつに有害ではなく、むしろ楽しいことさえある。」

という点こそ、コメント欄のある『週刊審判批評』の醍醐味だと思っている。

家本氏も「スタジアムでの「ブーイング」もお気になさらずどんどんしてやってください。それで皆さんがストレスから解放されて、スッキリしておうちに帰れるのなら本望です」と記しているが、かたよったレンズから起きてしまうブーイングもスポーツの醍醐味と言えるかもしれない。

ただし、メディアがかたよったレンズで報道するのは違う。判定について報道するならば、ルールをベースに批評するのが公正だと思う。

ノンフィクション作家の石井妙子氏は

「言葉を発すればそのまま記者が記事にしてくれる。「カイロ大学卒、首席」にしても、誰も疑わず記事にした。メディアが「本人が言っていることだから」とそのまま活字にしてしまう、活字になればそれが事実として定着して広がっていく」(参照リンク)

と日本のメディアに警鐘を鳴らしていたが、Jリーグの「審判問題」と報じられる多くに見られる傾向となってしまっている。だからこそ、そういったメディアをタブロイド紙と見極める目を良識あるファンサポーターには持ってほしいし、『週刊審判批評』は報じたメディアの質も論じていきたい。

最後に、ファンサポーターであっても、罵詈雑言や誹謗中傷、発してはいけない言葉は許されない。それはスポーツの一部ではなく、ブーイングとはまったく違うものである。

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