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善光寺に爆弾は落ちない(前編)

善光寺はお参りしたり、地下へ潜って戒壇巡り

真っ暗い地下へ行って、中にね、何か鍵みたいなぶら下がってる。

壁伝いに手ぇこうやって、その鍵を掴んだ人が

幸せ来るとかなんとか、なんてさ。うん。私は掴まなかったけど。

・・・

善光寺に爆弾は落ちない

昔、善光寺の辺りがまあ賑やかだったの。

友達と話しして「どっか遊びに行こう、うん善光寺行こう」何かあるとやっぱ善光寺行こうって。善光寺の周りが全部公園になってて、喫茶店はあったりお店あったりして賑やかだから。

ちょうどこの五泉から新潟へ行くような電車ぐらいのところに、私が屋代(やしろ)ってとこに居たから、電車で走って遊びに行くわけ。

屋代っていう町にも、喫茶店やら食堂やら、1・2件あったけど、めったに行かないんで、友達とみんな長野の方へ走っちゃうのよ。賑やかなとこがいいって、やっぱ若いものはね。わざわざ電車に乗ってさ、走るの。昔だからね。

善光寺の喫茶店やら何やら、やっぱハイカラだからさ。

何食べたかわかんないけど、食べ物はお蕎麦ぐらいかな。お蕎麦が有名だったから、長野市のちょうど真ん前にね、お蕎麦屋さんがあって、それはちょっと記憶あるけど、あと何食べたか分かんね。

そうそう友達と、高校の時ね。女子高だから女ばっか。
うんまあ、女子と男子と付き合ってるなんていう話もあったけども、全然私は関係なかった。

ほんでほら、善光寺あるから、長野は爆弾絶対落ちなかったから。

だからもう直ぐに長野市へ遊びいってた。

統制

6年生の時に戦争始まったってのは覚えてる。あと高校入ってからほとんど勉強しないで勤労奉仕の旗持って、縫製工場行って仕事させられたり、農家みんな回って草取りしたり、そういう生活だった。

「あれ今日も勉強なし?」なんてさ、勤労奉仕隊っていう旗持って、あそこ行けここ行けって言われて過ごした。

その当時まだ小さかったから、先生やらいろいろ言われてその通りに動いてたから、あんまりわからなかったね。

勤労奉仕の学徒出陣っていう旗持って、兵隊さんの軍服縫ったりする工場へ。

うん、みんな経営は兵隊さんがやってんの、だから兵隊さんがみんな出入りして、こう一か所縫うとその兵隊さんに見てもらって、悪ければ目打ちで「もう1回やり直し!」なんてさ、ミシン踏んだりアイロンかけたり、そういう仕事させられたね。1年ぐらいね

校長先生が兵隊さんだったのかな。しばらくは兵隊さんがみんな出入りしてた。そんな感じ。とにかく兵隊さんとは切れなかったね。戦争始まってからね、3年ぐらいはね。

まぁ怖かったっていうかねえ、兵隊さんのいうこと聞かないと怖いぞという感じだろうねえ。上からの指示はみんな兵隊さんだったからさ、兵隊さんが町にうようよしてたから。

戦争中はもう厳しかったね。

派手なものは着ない。黒っぽいもの。ちょっとこういうとこに赤い線入ってると「脱げ」。ちょっと派手なものを着ると「ダメ」。脱がされ着替える。地味なのばっか着せられたね。

嫌だとは思わなかったけど、まあ先生が言うんだから、みんな従ってたから。うちいって地味なのみんな着せられてさ、うん、別に嫌とかそういうのは無かったね。

東京が空襲されたってことは、周りが騒いでたような気がする。東京が空襲なんてのは考えつかなかったからね。その頃はね、大変だっていう気持ちだったけど。

一応ほら、勤労奉仕には行っているけど、兵隊さんやら入ってきて色々喋るからね、朝の朝礼とかさ。うん、まあ聞いてたことは聞いてた。ただ私ら、ああしようこうしようなんていう考えは全然ない。ただ聞いて、大変だねっていう気持ちだけだった。

だからほら、船が何隻沈んだとか飛行機が何機おったとかっていうの、いやこれ嘘っぱちじゃないの、なんていうこともチラっと話ししたこともあるけどね。

軍人、軍関係が弱くなったなんていうことは言えないから、一応強気強気に出てたんじゃないかなって今思えば。その頃「いやーすごいねすごいね」ってことは言えたと思うけど。

まあ勝ってるって言う事を聞けば、ほら、ああいいなっと思うね。負けたっていうと、なんか切ないっていう感じするけど。周りがみんな兵隊さんばっかだから、そういう話聞くと兵隊さんがおうおうおう歓声あげるから、それに釣られていたからね。まあそんなに深くは考えなかった。まだやっぱね、年がいかないからさ、いろいろ考えなかったかもしれない。

もう学校の先生から始め、学校からはじめ、もう負けなんて言葉ひとっことも出ないから、とにかく勝つ勝つ。勝ってるんだ勝ってるんだ。

だから私、生徒達も、もうそのつもりでほら、ね。勤労奉仕の旗もって、歩いてた。うん。そんなもんだ。とにかく勝つために勝つために。

アメリカの飛行機が飛んでくる

新潟の長岡へ爆弾おったぞって、いうの聞いた覚えある。
長野にいた時も航空機はいっぱい飛んできたよ、軍事工場がいっぱいあったから。ただ長岡へおったってことはなんか聞いてて。

戦争始まって1年ぐらいはまあ穏やかだったけど、1・2年してから厳しくなって、もし飛行機が来たら山へ逃げろって、近くに山があったんだ。一重(ひとえ)って山があって、みんなでそこに逃げたり、夜になるとアメリカの飛行機が飛んでくるってことで、もう窓っていう窓、もう全部黒い布で覆って外へ光が出ないようにっていう生活してましたね。うん、ほとんど毎晩、終戦になるまで。

空襲警報とかなんていっぱいになったよ、毎日毎日カーテン貼って、空襲警報。

長岡へ落ちたなんてって、長野と長岡近いからさ。「おおおおお、ほら長岡へおったってよ!」なんてね。

ただ漠然と、怖いっていうことだけ。自分で経験したことだからね。
B29が飛んでくるなんて訳分かんないね。B29がどんなもんだかさっぱり分からない、子供にはさ。

うーん、見たような見ないような。見なかったかもね、音だけだかもね。だって、長野の上を飛んだ、長岡を飛んだのだから。ハッキリ覚えてないけどね。長岡へ来た、B29が飛んで来たってってことははっきり聞いたけど。

とにかく夜はもう電気なんつけらんない、真っ暗でさ。2年ぐらい続いたね。

つづく


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