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善光寺に爆弾は落ちない(後編)

「ええ!?」なんてさ。

兵隊さんはやっぱり色々分かるから、涙出して、最敬礼、

玉音放送に向かって最敬礼して泣いてなしたけど。

・・・

町内の人が出征する、屋代の駅から乗るっていうことだと、まあ旗持って、お祝いにっていうかお見送りに。先生方は全部ホームで行ってらっしゃい。生徒は道路っぱたでダーっと並んで、日の丸の旗降って、その兵隊さんが電車に乗るまで最敬礼して、行ってらっしゃい。

戦死した人を、家族の人が遺骨持って降りてくる、みんなボロボロボロボロ、うん、泣いてた。お葬式みたいのを学校でやるん。それにみんな参加してやったもんだけど。

ただね、終戦間近の時はね、色々ほら情報ニュースやら何やらで飛び交うから、それらはみんなスパイに聞かれちゃうらしくって。アメリカのスパイがみんな入ってたみたいで、中止になっちゃった。だから、駅へ送り迎えも全部中止。ほいで学校でお葬式やるのも中止。それまでは、もう全校全部生徒、旗持って駅まで見送りに行ったもんだよ。

ラジオ

ラジオしかなかったその頃はね。毎日聞いてた。

どんどん流れる、朝もう4時頃から流れるみたいだね。まあ戦争中だから色んなね。遊びのあれは入れないけど、ほとんど戦争中の話だね。ニュースはもう戦争の話。あと農家関係の話とか、色々の番組はあったけど、もうほとんど戦争の話だね。

向こうのあの船何隻沈めたとかさ、飛行機何機落とした、アメリカの船何機落としたとかって、兵隊さんの動き、軍の動き、みんなラジオで聞いてたから。ラジオでっかくしてさ、音聞いてた。テレビとかそんなの全然無いからね。うち帰るとラジオの音が流れてる。

あの頃ラジオみんな持ってた、わかんないけど。うちはもうラジオ。


玉音放送

広い縫製工場なんだけど、ラジオ置いて、そこに兵隊さんも仕事する人もみんな全部並ばせられてさ、お座りして、玉音放送だから頭下げれって、天皇陛下さんの声だからっていうことで

んで兵隊さんが「戦争終わりました」と同時に、負けたんだか勝ったんだか、っていうのは私らにちょっとまだ理解出来なかったね。もう直ぐ片付けてうちへ帰らせられて、それでその仕事、終わり。勤労奉仕も、終わり。

んで後から、負けたんだ、負けて日本は降伏したんだっていうことを、学校から聞いたけど。いろいろ先生の話し聞いて負けたんだっていう気持ちがね、強くなってきたけど。

「ああそうなんだ」なんてさ。そんなもんだった。まだ十五・六歳だから、頭が幼稚だからさ、うん、いやー今度仕事終わり、今度学校行けるぞっていう感じだったけどね。

「はい、戦争終わったよ!戦争終わったよー!」なんてさ、いうて上級生は倉庫から、軍服のほら色々生地がいっぱい残ってるでしょ。その生地をみんなで奪い合い。「持てるだけ持っていけ!何でも持ってけ何でも持ってけ」って、軍人さんが言ってた。まあだから上級生なんかは、よーし!なんてって倉庫行って、軍服の生地をさ、まあ担いで、うちへ帰った感じだね。

私らまだ、ちょっと幼かったから、全然持たないでうちへ行ったの。
「けっ!もう!何か持ってくるもんだ!」なんて。親にさ。「何かもってこい!みんな周りがそうしてたら!」なんてさ。それがまだ幼いから気づかなかったんね。


終戦後

終戦なってからかな、帰ってくる兵隊さん、私ら今度旗持たないでお迎えするわけ、負けたから。兵隊さんもね、泣きながら降りて来る。負けたから。そんな感じだったね。

天皇陛下も屋代の小学校へ来なしたんよ。行列が。慰問ってかね、なんか戦争見舞いっていうのかな、来なしたんだ。うん。全部整列して最敬礼。

終戦なってから来なしたんな、多分。まあそれよく覚えてないけど、なんせ来なしたんだ。

最敬礼してさ、「顔上げるな!」なんて言われてさ。「顔伏せー!」なんてさ、その頃はね、もう天皇陛下なんていうと、それこそ神様だから、はっはっは。

終戦なって長野市のそろばんの学校へ行かせられたの。2年ぐらい珠算学校なんていうのに行かせられて、そこで友達がみんな方々から来て遊んだ。

最後まで一人ぐらいが年賀状来たりするけど、私もやるけどさ。もうだってね、五十年もなるんからさ。亡くなってる人も、総会のあれは来るけども、それも打ち切りになって、年代だから。だからむこうの様子は全然わかりません。やり取りもしてないしさ。私も行かないからさ、全然分からない。

じいちゃんはね、川崎の軍事工場に働いてたの。終戦なって、新潟へ帰ってきて。

うちの母親らはみんな(五泉市)善願の出身だから、遊び来たわけよ。そこでもって「新道のあんにゃ(新潟の方言で若い男性を表わす)帰って来てるってほれ」、うちのじいちゃんのこと。
就職うちへ来るかね、なんてうちの母親が言ったら、なんかそうしてもいいなんていうようなこと言って、一緒に屋代へ来て、そのまま就職しちゃったのよ。それからの知り合い。

とにかく仕事一生懸命、親に気に入られたんだわ。仕事一生懸命。そして私とちょっとツーツーんなって。「なにー!」なんて親は怒らったけどさ、こっちの親と向こうの親は兄弟だから、従妹同士でなるっけさ。「別に関係ねえ!」なんてさ、父親は言ってて。

昔はねえ、そんな結婚式は派手にやる時期じゃなかったの。終戦後だったからさ、できなかったの。だからただ内内で食べたり飲んだりしたぐらいだもんで、終わっちゃった。
やっぱ善光寺ばっか行ってたわ。
遊ぶとこ無いんだがね、あんまりあそこら辺はさ。善光寺行ってコーヒー飲んだりさ、美味しいもの食べたりしてたかもしれないね。終戦後は善光寺の周りだけが賑やかだった。

中心だったね、私らにはね。

うーん行ってもみたいけど、体が思うようについていかないから、諦め。諦め。

・・・

落ちなかった。

落ちない落ちない。善光寺には落ちない。

ふふふ、みんな先生からの教えか何かさ、言われてたことで。

うん、まあね、その頃はね、そんな感じ。



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