じぶんよみ源氏物語26 ~恋の終わり~
同じ時間は続かない
私が20代の頃、
「変わる」という言葉に敏感でした。
変わりたくなかったのです。
ちょうど日本経済の成長の停止が顕在化し、
社会にはなんとなく危機感のようなものが
漂い始めていました。
その一方で、
きっとこの国は大丈夫に違いないという、
希望的観測も残っていました。
Windowsが普及し始めた頃で、
パソコンの操作が格段に楽になっていました。
電子メールだの携帯電話だの、
当時にしては最新のデジタル機器が登場し、
そういうものが人々の話題になりましたが、
私は世の中の変化に乗るのが嫌でした。
その反動からか、万年筆を購入し、
原稿用紙で文章を書き、
便箋で手紙を書くようになりました。
今でも、大事なシーンでは
万年筆で手紙を書いています。
もちろん、今や、
メールもスマホもSNSも使っています。
もはや仕事の大半を
スマホで完結するようになっています。
そんな今の生活において、
ふと、あの頃を懐かしく思い起こすことがあります。
当時は、新聞でも、
デジタルを使う弊害が書かれていました。
ネット空間というブラックボックスの中で、
大事な個人情報が誰かによって管理される。
これでいいのか、と。
でも今は、
デジタルによる恩恵の方が上回っています。
だいぶ、麻痺してきました。
そもそも、時代の変化は、
人間が作り出すもの。
頑として意志を貫いた
末摘花みたいな人は
かなりのレアケースです。
大抵の人は、
いくら矜持を貫いても、
時間が来ると、楽な方に流れていくのが
世の常です。
そして、そのことはもちろん、
他者によって責められることもないのです。
その人の生き方ですから。
「中の品」空蝉との再会
源氏物語、第十六帖「関屋」の巻です。
「雨夜の品定め」にて魅力的とされた
「中の品」の代表格である空蝉が、
夫の赴任先である常陸国から戻る場面。
空蝉といえば、
身分差の恋への苦悩から
光源氏の求愛を拒み続けた女性。
彼女は心を鬼にして、
親子ほど歳の違う夫と共に、
任国に降っていました。
それが、
都に帰る途中の逢坂の関にて、
光源氏が琵琶湖畔の石山寺に参詣するために
ここを通過するという情報を入手します。
空蝉の一行は
混雑を予想して急ぎますが、
間に合わなかったために、
関の近くの杉の木陰に車を停めて、
光源氏の行列を通すことにしました。
それに気づいた光源氏は、
空蝉の弟である右衛門佐を呼び止め、こう言います。
(光源氏)
今日の御関迎へは、え思ひ棄てたまはじ
(訳)
今日私が逢坂の関に来たことを、
まさか無視などできないでしょう
この右衛門佐、かつては小君と呼ばれ、
空蝉と光源氏の仲立ちとして動いていました。
寝返りの技
右衛門佐は、
光源氏が須磨に流離したのをきっかけに、
常陸国に下っていたのです。
光源氏につくことによって
自分も世間の風評に巻き込まれることを
恐れたのです。
そんなことがあって、
光源氏は彼と距離を置いていたのですが、
それを顔色にも出さずに、
空蝉に和歌をことづけます。
(光源氏)
わくらばに行きあふみちをたのみしも
なほかひなしやしほならぬ海
(訳)
たまたま行き合った場所が
「あふみち」(近江路、逢ふ道)なので、
ぜひお逢いしたいと頼りにしていましたが、
その甲斐(貝)がないのは、塩のない海、
琵琶湖のほとりだからでしょうか
その文を渡された右衛門佐は、
相変わらず打算的でぶしつけな態度で
空蝉に返事を催促します。
女にては負け聞こえたまへらむに、
罪許されぬべし
(訳)
女として源氏の君の情けに従ったところで、
何の差し支えもないですよ
今がチャンスですよ、と言わんばかり。
空蝉の方も、
思いを堪えることができませんでした。
(空蝉
あふさかの関やいかなる関なれば
繁きなげきの中をわくらん
(訳)
逢坂の関とは「逢ふ」関のはずなのに、
一体どういうことでしょう。
繁る木をかき分け、嘆きをかき分けて
通らなければならないとは。
つらいけど、会いたい。
過去に光源氏を拒み続けた姿は、
もはやどこにも見られません。
彼女は、変わったのです。
いや、変わらざるを得なかった。
空蝉とは、蝉の抜け殻
その後、夫である常陸介が亡くなります。
遺言通り、
彼女は義理の子供たちによって
世話をされていましたが、
まもなくして、義理の子供たちは
空蝉につらく当たるようになります。
ところが、
その中の一人、河内守から懸想されます。
下心丸見えの態度に、空蝉はさらに失望します。
人知れず思ひ知りて、
人にさなむとも知らせで、尼になりけり。
彼女静かに出家して、尼になります。
まだ光源氏が若かった頃、
空蝉の寝床に忍び込み、
ひと足先に逃げられたあの場面が、
懐かしく思い起こされます。
あの時、空蝉が残していった着物を
光源氏は大事に抱いていました。
今や世の中が大きく変わり、
二人の隔たりは歴然となってしまった。
それでも、空蝉を思う光源氏の心は、
根本的には変わっていません。
彼は空蝉が出家してもなお、
お世話をしようと考えるのです。
空蝉はわが身のつらさか
世をはかなんでしまいましたが、
その行動も、
世の中のリアルとして共感できます。
変化しながらも営みを続ける人間の世界を
大きく包み込む時間の流れを、
ここでも感じ取ることができます。
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