「笑ってもいい家」 

主演:中村アン 脚本・演出:栗島端丸
六本木俳優座劇場
2023年7月7日 14:00 

なぜ笑ってもいい家なのか。それは舞台が始まってわりとすぐに判明する。
笑えなくなってしまった心や、この家を作った背景がストーリーになっていくのかと思えば、そこはあまり深掘りされない。そこへ焦点をあてればあまり楽しい話にはならなそうだし、あえて焦点を当てなかったのかもしれない。
新しい土地での地元の人との交流や変化が描かれるのかと思えば、そこも割とあっさりとしか描かれない。

ひょっとして有機栽培野菜とネット販売の話になるのかと心配しながら鑑賞を続ける。

舞台の用意された玄関と窓は、外の世界と中の世界を描くとても良い仕掛けだと楽しみにしていたけど、想像したほど効果的には使われなかった。
窓の外や舞台上の照明で昼夜や時間経過を表現する事もできそうだったけど記憶にない。
お話は暗転が多様されていて観客はなかなか舞台に入れない。せっかく一級術師が揃っているのに領域展開を行う機会を奪われている。

笑ってはいけないと思っている人、思っていないけど外圧でそうなった人、無意識にそうなってる人、笑わないふりをしている人。
それぞれの思いを探りぶつかり合う、その掛け合いがお芝居の面白さだと思うのだけど、舞台上にせっかく一級術師が何人も揃っているのだけど、術式が皆同じ。登場人物の考え方に大きな違いは描かれない。

朱音の事件について、どうしてみんなそんなに掘り起こそうとしたのだろう?
みんなそういう目にあってきたはずなのに。

唐突に放り込まれた公金横領の話も特に何かを動かすこともなくあっさり片付く。
それがなぜ物語に必要だったかわからなかった。

親しくしていた仲間が、実は被害者の家族側だと知ったとき、その反応はおそらく大声で「え〜っ」ではない。小声で短く「えっ」もしくは絶句である。
それは情報の共有に時差があってはならない事実である。だからこそ告知の描画は「みんな、聞いて欲しい事があるんだけど」となる様に思った。
舞台の様に個別に打ち明けていくのであれば「どうしたらいいだろう?」「どう思う?」とその都度それぞれの想いを描いてほしかった。

弟の事も割と大きな事案なのだけど、もう散らかりすぎてて話に入ってこない。

取材を受け、記事にされ、評判になって何かが変わったはずだけれど、そこもあまり表現されない。受け入れを快く思わない人もいたはずである。

私事になるけど、コロナウィルスが流行り始めた頃、田舎に電話して様子を聞いたら「最初に感染した家は引っ越したね」って話していた。
長くその土地に住み小さい頃から顔も知れたご近所さん。
「出ていってくれ」の様な圧力はきっと一つもなかったと思う。
長くその土地に住み小さい頃から顔も知れたご近所さんだからこそ、自らそういう決断をしたのな、と勝手に想像する。
現実の村社会はこんな感じだ。染まれない色は弾かれていく。

街の人たちに広く知らせる必要があったのだろうか?
人は秘密を持っていてはいけないのだろうか?

果たして彼らは笑っても良いのか? いけないのか?
「笑ってもいい家」が、そういう人たちを一生匿うシェルターなのか?
笑えるようになるまでの療養所なのか?
結論を出す事も問題提起をする事もなく舞台は平和のまま良い人たちだけでぬるっと終幕する。

ネット販売は好調になった様だった。

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