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「ライアーダンサー」のとある歌詞について
ボカロ曲(という言い方が正しいのかは微妙であるが、「合成音声曲」などと言うのも却って分かりにくいように思われるので、ここではこのように言うことにする)の一つに「ライアーダンサー」という曲がある。マサラダさんによって昨年の6月に発表された曲で、ボーカルは重音テトSVである。同氏の処女作でありながら100万回再生という快挙を成し遂げており、現在YouTubeでは600万回以上再生されている。
そんなこの曲の中に、次のような歌詞がある。
譲るのが面倒で道変えた 最初から行き先違うフリをして
初めてこの歌詞を聞いたとき、私はなんだか仲間を見つけたような気分になった。自分以外にもこういうことをする人がいるのかと。というのも、私もこのようなことをすることがよくあるからである。
私もこの歌詞のように、道を歩いていて車などに出くわしそうになった時、譲り合いになるのが何となく煩わしくて道を変え、まるで初めからその方向に行くつもりであったかのように振る舞うことがしばしばある。しかし、これまで自分以外にもこれと同じようなことをしている人がいるとは少しも思っていなかった。そのため、この曲を聴いて初めて、私はこうした行為が自分だけのものではないということを知ったのである。
X(Twitter)でこの歌詞を検索すると、この歌詞に共感を覚えたという投稿が少なからず見受けられる。また、この曲のYouTubeのコメント欄にも同旨のコメントが見られる。自分と同じような感想を抱いている人が一定数いることに、私は「結構多くの人が自分と同じようなことをやってたんだな」と、一種安堵のような気持ちを覚えた。
この「最初から行き先違うフリ」について、私がこの曲を知るまで他に同じことをしている人を見つけることができなかったのは、この行為が自分の中で言語化されていなかったからではないかと思う。言語化されていなかった故に、そもそもこうした行為自体が自分の中で明確に意識されておらず、かつその行為を他者に言語的に伝えることもできなかったのである。それを、この曲は歌詞という形で言葉に表してくれ、それにより私はこの行為を明確に意識することができるようになり、他人に言葉で伝えることが可能になったというわけである。
こうした日常の中にある些細なことで、特にそれを言い表すための言葉は存在しないものの、多くの人が何となく感じていることを言葉にしてくれるところに、歌詞も含めた言語芸術の魅力の一つがあるのではないか。この歌詞について考える中で、ふとそんなことを思った。
【参考動画】
(上述の歌詞の部分は0:36あたりから)
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