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『おかげさまで毎日おかげ福をいただいてます』第13言

「禍福は糾える縄の如し」
 かふくは あざなえる なわの ごとし

実はこれ、「ドラえもん」にも、そして「鬼滅の刃」にも出てくるんです。よほど代々伝わる、生きていく上での大切ごとのように思えてきませんか?

今日は少し踏み込んで、2通りの意味合いをわたしなりにご紹介したいと思います。

今とこれからを強くしなやかに生きやすくする『おかげ福』をいただくコツを添えて

ところで、みなさんは初めて「コロナか」というワードを聞いた時、すぐに「禍」という字が浮かびましたか?

わたしは浮かびませんでした。

てっきり、コロナの影響「下」かと。

随分むずかしい字を使うんだなという印象でしたが、このコロナ禍にも当てはめることができます。

1つ目 「線でみる」禍福はあざなえる縄の如し

こちらは「線」 過去→現在→未来という時間軸の中で「順番に起きる」

ドラえもん、鬼滅の刃の中の意味も、コロナ禍の禍も、イメージは、さながら水戸黄門様の「人生楽ありゃ苦もあるさ」のように、良いことがあれば、悪いことも起きる。悪いことが起きてもそれがずっと続くわけじゃない。「開けない夜はない」

ーーーだからコロナ禍もずっと続くわけじゃない。次は福が来るのを信じて今はじっと耐え忍ぶ。

そんな感じ。実際にそうですよね。悲しくても「時間が解決してくれるよ」なんていう慰め・励ましの言葉があります。

だけど、待ちきれない。。。

禍−福−禍−福−ん?待てよ、これじゃあまるで「数珠の如し」

この言葉は「縄の如し」だよな〜ということで

2つ目 「点でみる」禍福はあざなえる縄の如し

こちらは「点」 現在まさしく起こっている現実の中で「同時に存在する」

先ほどは「禍−福−禍−福」と「数珠のように順番で起こる」でしたよね。

今度は「縄のように同時に存在する」しめ縄を思い浮かべてください。2本の太い縄をより合わせています。※糾える(あざなえる)はこの、縄を「より合わせる」ことを言います。

「1セットのしめ縄」=「2本の縄」でできている

「1つの出来事」=「禍と福の2つ」でできている

物事は表裏一体という考え方です。しかも「同じ出来事の中に」です。

簡単な例でいえば、「せっかくカルディまで行ったのにマリオッティは完売してた。でもそのおかげで行ったことのないコッペパン屋を見つけ、もっと美味しそうなリッチくりーむコッペを見つけた。うまっ!結果ラッキーだったんじゃん♪」というものです。

ここでのコツは、ま、いっか。です。

カルディで完売してた時に、ツイてない!ションボリも、せっかく来たのにぃー!プンコラもしないことです。(コッペパン屋も見過ごしかねません)

ないってことは今日はその方がいいんだな。ま、いっか。これが大切です。

失ったようで得ている「せいで」→「おかげで」

「コロナ福」と大きな声で謳うことはさすがにはばかれますが、

コロナのせいで出来なくなったことは多々ある一方、コロナのおかげで出来たことも実は結構ありませんか?

これまでの生活ではやってみようとも思わなかったことにチャレンジしたり、こんなところがあったのかと近所を散歩したらいいスポットを見つけたり。

「現実がどう見えるか」は「自分の心」次第

こんな感じでどんな出来事にも禍福の両方があって、自分の心がどちらに重心を傾けるかで「プラスの現実」にも「マイナスの現実」にも、自分の目には映るんだと思うんです。

だったら「のせいで」という「マイナスの現実」より、「のおかげで」という「プラスの現実」をたくさん見ていたほうが、人生はハッピーになると思っています。

もちろんそんなにすぐには出来ないし、そう思うには日頃から練習が必要です。

日常生活の中で、何かイライラっとしそうな現実に出くわしたら、条件反射的に「おかげ」探しをすぐにするんです。無理ぐりでもいいんです。
練習の成果は割とすぐに出てきます。

起こることは常に最善

これは今やわたしが最強だと思っている「生きていく上での信念」です。

起こること、それが一見、不運、不幸な出来事にみえようとも、我が身に起こった、ということは、イコール、これが最善なんだと信じるんです。
長い目で見てなのか、少し後でわかるのか、今は定かではないけれど、

それでも何か意味がある。

なんでそう思えるかというと、実際にそうだったからです。「結果オーライ、ラッキー♪」というのがお決まりの結びのフレーズです。

自分を不幸にしない

これも経験上ですが、出来事の不運・不幸にばかり気を取られていると、単純にイライラもするし疲れるし、その出来事はいつまでも「不運・不幸な出来事」でふん詰まりしてしまいます。

好転した試しがありません。

そう思うと、不幸も自分でつくってるんだなと思ったことがあります。

だったらラッキーに過ごしたい。

ひとつの「現実」というパッケージの中に「禍」も「福」も両方が毎回入っていて、どっちを見るも自分の心次第なんだったら。。

たまに冷めた目でどっちもだよなーと真ん中を見ることもありますが、それだっていいんです。それがいい時もある。

自分を幸せにしてあげる

わたしは「福」を選びたくて、毎日「おかげでできた」という「福」を増やす練習をしました。

何かあっても「いや、でもこのおかげで〇〇ができるようになった。ラッキー。そう思えたわたし、えらい!」くらい褒めちぎりとの合わせ技です。

こうやって自分アゲしていくと不思議と最初のネガティブな感情も薄れて消えていくんです。

スーパーのレジで自分が並んだとこがまんまと滞った時

イラとしそうな自分を察知して、まぁ急ぎの用があるわけじゃないし〜、どうぞゆっくりやってくださ〜い、あーわたし、寛容なわたし、えらい!でもいいんです。

他人ウケするような何かが出来なくても、イラっ!をリラ〜♪にした自分ウケでいいんです

『おかげ福』で生き抜く

今はみんな「大変なコロナ禍」を生活していますが、こうしてみると、禍福を「線」で捉えて、次に来る「福」がやって来るまで「禍」しかない、じーっと耐えるしかない、という

重たい気持ちから、すこし抜け出せませんか?

長い目で見ることも大事です。それでも

わたしたちは今という「点」も生きています。

毎日の”今日この時を”、できるだけ「おかげさまの福」を多めに過ごしてみたくなりませんか?

禍のような世界の終わりを待たなくても、また、次に来る世界の始まりからも

自分の心次第で「禍福」どちらにも見えるというのなら

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だい福 おかげ福  福ネコはどっちも好き

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