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施設の子はかわいそうな子なのか?

今クールも様々なドラマで虐待や児童養護施設をテーマや設定に組み込まれていました。ファイトソング、ケイ×ヤクとかが主としては挙げられるでしょうか。それ以外でもちらほらと施設というキーワードがでてきます。

私の働いている施設にも取材で作家(TVや劇、文芸などなど)さんが来られることがあります。それくらい、虐待や児童養護施設のことが知られていくことは良いコトだなぁと思います。
その一方で感じる違和感もあります。
それは施設=「かわいそう」というニュアンスがちりばめられてしまうことです。そして、それが非常にわかりやすく世の中に伝わっていきます。

かわいそうとは

そもそもかわいそうという言葉は「同情の気持ちが起こるさま」「不憫に思えるさま」という意味です。(goo辞書より引用
この言葉が表すように、そこに不憫を感じる側と感じられる側が出来上がっています。そして共感ではなく、同情のニュアンスが前面にでてきます。

「かわいそう」というストーリー

話は変わりますが、色々なところで当事者の方々の声が世の中に聞こえるようになってきています。いわゆる当事者活動というものです。
個人的にはとてもいいことだなと思いますし、自然な流れだろうと思っています。マイノリティと言われる(ていた)コミュニティと同様に、おそらく社会的養護の当事者による活動が大きな社会変革を生み出していくと思います。

一方で、ごく一部の「当事者活動」には以前から違和感を感じています。
よくある”かわいそうな境遇から個人の努力でここまで頑張ってきた”ストーリーや”頑張ろうとしているのに、できないかわいそうな私”ストーリーという大人が喜ぶストーリーに当事者がもてあそばれてしまうというものです。
こういう場合、年齢が上がるなど少しでもストーリーに外れる部分が出てくると「当事者活動」から離脱していってしまいます。
ここには個人的には性風俗のような構造を感じています。


「かわいそう」というエピソードを消費していないか?

これについては、私たち施設職員も反省しなければなりません。
私たちも自分の施設を説明する時、寄付や寄贈などの支援をもらうときに「かわいそう」というニュアンスが出てしまうことがあります。
そのほうが世の中の反応がいいからです。

いい例で言えば、クリスマスのサンタプロジェクトでは、児童養護施設ばかりがフォーカスされました。それは全国的に数が多いこともあると思いますし、そういう活動が盛んなことも要因にはあると思います。
でも子どもたちを支える機関は児童養護施設だけでなく、児童心理治療施設もあれば、自立支援ホーム、母子生活支援施設だってあります。
でもやはり声がかかりやすいのは児童養護施設です。
念の為にいっておきますが、このサンタプロジェクトのような活動は素晴らしいと思いますし、本当にありがたいです。

話がずれました。
私も渉外担当をしていると上記のようなニュアンスは非常に感じます。
そして、外から子どものために人やモノを集めようと頑張れるほど「かわいそう」の消費に一役買ってしまうという矛盾に巻き込まれます。

かわいそうという目線

ひとつに「施設の子ども」「かわいそうな子」という主語が大きくなることに問題があると思います。でも、カテゴリーで見るということは効率がいいし、心のゆらぎが小さいのかもしれません。自分が仕事に関連しないところだったら、自分もこういう見方をしていると思います。
世の中にはたくさんの問題や考えないといけないことがあります。そういう意味ではこういう理解は手っ取り早いんだろうと思います。

ただ主語が大きくなると、それぞれの子どもを見る解像度が低くなります。
それぞれの子どもの好きなこと、苦手なこと、大事にしているもの、寝るまでのルーティン、、、
色々なエピソードで解像度は上がっていくと思います。
施設職員としては世の中での解像度を上げるために、子どもたちの様子や施設について説明をしていくことが責任としてあると思います。
もちろん、子どもを守るために個人情報を保護することも大事です。
その上でこれから生活する社会に変なフィルターを通して子どもたちが理解されないように、利用されないようにしていくことも大事な仕事だと思っています。

「かわいそうな子」からの脱却

事実として、施設に入所する子どもの中には身体的・経済的ハンディキャップや、機会損失による格差を感じる場面は多くあります。
でもすべての子ではありませんし、それだけが彼らではありません。
そして「施設の子」「かわいそうな子」というフィルターは悪影響です。
先にも挙げた「かわいそう」という条件に合わない場合に排除の対象になってしまうこと。
もう一つ「かわいそう」という軸でまとめられてしまうことも影響としてあります。つまり、かわいそうをスタートにしないといけないということです。
施設にいるという時点で大なり小なり「かわいそう」というスタート地点に立たされます。すると他の子と同様に生きていても、苦労している・頑張っているという評価になります。
また別の視点では「かわいそう」という評価の反転がおきることもあります。これは不憫に感じる側と感じられる側という立場に危機が訪れるときに「かわいそうなやつだと思って見てやっていたのに」というような形で姿を現します。


そもそも、子どもは施設にいようが、いまいが人権の主体者です。
そして身体的・社会的・心理的なハンディキャップは「施設の子」だからでも「かわいそうな子」でもなく、身近な子どもたちそれぞれにも存在することだと思います。

そういう意味では子どもたちが消費されない社会であればいいと思いますし、そのための1つとして「かわいそう」という視点で施設職員の感じるところ、自戒文を書いておきたいと思い、今回の記事でした。


ギリギリの更新になりました。
長くなりましたが、今日はここまで。
また木曜日に更新したいと思います。


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