見出し画像

伊藤計劃 『ハーモニー』論

※この記事は以前書いたレポートを編集・改題したものです。文字数的にかなり長くなっているので、ご了承ください。

(1) 序論

 伊藤計劃は著作『ハーモニー』において、生命倫理・社会システムという観点から人間の意識を描いた。

 『ハーモニー』の舞台は、生命至上主義が集団合意として社会を形成し、他者の痛みを自己の痛みとして捉えることが「善」である、という価値観が隅々にまで行き届いたねつ造されたユートピア世界であった。そのユートピアの行きつく果てとして、伊藤計劃は人類の意識が統合され、個の意識が消失するディストピア空間を提示し、物語を終わらせた。

 伊藤計劃は長編デビュー作品である『虐殺器官』以降、人間の意識というテーマで物語を執筆してきた。『虐殺器官』では戦争と言語から、本稿であつかう『ハーモニー』では健康主義と社会システムという観点から、人間の意識に対して多角的な解釈を試みた作家であった。

 だが、後述するが伊藤計劃の物語を用い、人間の意識を物語という媒体を用い描こうとする営みは、『虐殺器官』においても、『ハーモニー』においても、ある意味での敗北宣言で終わっている。特に『ハーモニー』ではその特徴が如実に表れていることとなる。

 伊藤計劃に関する先行研究は、冷戦とのモチーフ的関連性や認識論などの、作品の枠組みの外側について言及されているものが多い。著者自身が残した作品数の少なさもあり、作者論として、ひとまとまりになっている研究はほとんど存在しない。

 計劃はそのペンネームが示すように、未来への「計画」を残した作家であると言える。その計画を読み取ろうとする営みには意味があるのではないだろうか。本稿では、『ハーモニー』を作家論的に考察することで、彼の思想に迫っていきたい。

 伊藤計劃の作品の本質は、「人間がいかにして物語を形成するのか」というところにあると私は考えている。このテーゼを描くために、計劃は自身の作品世界に「戦争」「監視社会」という過剰な設定を付与したのである。人間と大きな社会という構造的対比を巧みに使うことによって、『虐殺器官』『ハーモニー』の二作は現代社会に対する思弁的な考察を果たしていると言えるだろう。

 本稿では、『ハーモニー』に主眼を置き、計劃が人間の意識に対して、どのような問題意識を抱いていたのか、そしてそこから読者は何を読み取るべきなのかという問いをたて、論を進めていく。

 そして、『ハーモニー』の中で示されていた人間の意識に対しての計劃の思想が、彼の序文のみを残した遺作『屍者の帝国』にどのように繋がっていったのかに関しても考察する。そうすることによって、伊藤計劃という作家が抱いていた人間社会に対する問題意識の根幹を見出せるのではないかと考えている。

(1)第一章 意識と伊藤計劃

 人間の持ってる感情とか思考とかっていうものが、生物としての進化の産物でしかないっていう認識までいったところから見えてくるもの。その次の言葉があるのかどうか、ってあたりを探ってる。で前回と今回はとりあえず「なかった」っていうのが結論なんですけども(笑) (伊藤、2014、369)

 上記の記述は、伊藤計劃が『ハーモニー』に対してあてたインタビューの応答である。ここで計劃が述べている「前回」「今回」というのは、『虐殺器官』と『ハーモニー』のことを示している。

 このインタビューから我々が読み取ることができるのは、計劃がこの二つの作品を、自身の主張を完結させた作品としてではなく、ある種の不完全性を体現した作品として捉えているということであろう。

 『虐殺器官』・『ハーモニー』はともに、人間の意識について言及した作品であると言える。では、どのように計劃はこの二作を、人間の意識について描いた物語に仕立てようとしたのか。また、その試みは成功しているのかどうか。本章では、『ハーモニー』をその観点から言及していく。

 21世紀初頭に発生した全世界的な世界戦争〈大災禍〉から半世紀が経った世界。人類社会において、大戦による虐殺の反動から〈生命主義〉が興隆し、高度医療社会へと変貌を遂げていた。個々人がその身体を社会の公共リソースとみなされ、個人用医療薬精製システムと体調管理を行うWatch Meを体内に入れることにより、食事から精神衛生、果てはその言動までもすべて健康的であるように指導される〈優しさ〉に満ちた世界。

 そんな世界に息苦しさを感じていた女子高生霧慧トァンは公共の敵を自称する孤高の少女・クラスメイトの御冷ミァハに出会う。トァンはミァハに導かれ、己の身体が自らの物であることを宣言するため、そして憎悪する優しさに満ちた社会への反抗として飢餓による自殺を画策する。

 だが、トァンたちの自殺は失敗に終わり、ミァハだけが逝く結果に…そして13年後、WHOの下部組織、螺旋観察事務局の上級監察官となったトァンは、6582人もの人間が全世界で同時多発的に自殺を試みるという謎の事件に遭遇する。この事件に13年前のミァハの死が関連しているらしいことを知ったトァンじゃ、この謎を追い、彼女の遺体は収容されたという医療都市バグダットへと飛ぶ。(伊藤・山形、2015、32)

 以上が本作におけるあらすじとなっている。本作の舞台、〈生政府〉が作り出した世界は、あらすじに書かれているように、語り部である霧慧トァンにとってのディストピア世界として表象されている。

 この世界において人々は、生活・思想など自身に関する様々な要素を外注することにより、自らの健康で健全な肉体と精神を維持している。トァンはそんな世界に対して懐疑的な思想を持った人物として描かれているのだが、幼少期の自殺未遂体験は彼女の批判的な視座の形成に大きな役割を果たしている。

 幼少期のトァンの友人であり、物語において「真犯人」の役割を果たしており、さらにトァンの根源体験である自殺未遂事件の首謀者でもある御冷ミァハ。「悪役というものに作者の一番言いたいことがあらわれる」(伊藤、2015年、316)と計劃はインタビューで述べているが、『ハーモニー』の「悪役」として描かれる御冷ミァハは、計劃が著作の中で最も述べようとした問題について提示しているキャラクターであった。

彼女は物語の最終局面において、〈生政府〉が作り出した社会を崩壊させる役割を担う人物である。彼女が計画する全人類の意識の統一は、世界崩壊の直接的な原因となる。ここには人間の意識の消失が、世界の消滅という現象につながるという伊藤計劃の明確なテーゼが存在しているのである。

 計劃が最も論じたかった問題。この問題について考えるうえでの、参考資料として『ハーモニー』の代表的評論である神林長平の『いま集合的無意識を、』を取り上げてみたい。

 日本のSF小説の牽引役として活躍してきた神林にとって、次代の担い手として期待されていた伊藤計劃の早すぎる死は大きな衝撃だった。神林は、『いま集合的無意識を、』において、死者としての伊藤計劃と自らがテクストでやり取りをするという架空の物語を作り上げ、その中で計劃に対して様々な思いを打ち明けている。

 『いま集合的無意識を、』という作品には、神林の計劃に対しての評論的な側面があるのと同時に、計劃が著作内で提示した人間の意識の消滅というモチーフの先に、どのような可能性があるのかという著者による思考実験が行われている側面が明確に存在している。

 彼の作品には、聖なるものであれ邪悪な存在であれ、神的な視点がどこにもない。言ってみれば、反形而上学的な思想、プラグマティックな観念に貫かれている。(中略)『虐殺器官』における〈自明性の喪失〉というのは、神的な存在を失うことと同義だ。『ハーモニー』ではその先が考察され、神なき視点が更に徹底される。〈意識〉とは〈自明性〉を生じさせている力の源だ。それを自らの手で無力化するという結末には、救いは全くない。(中略)人類は進化圧力という〈リアルの世界〉の力によって用意されたプログラムどおりに動く自動機械にすぎなくなる(神林、2012年、211)

 ここに書かれていることは、私たちにとっても他人事ではないだろう。神無き現代社会において、私たちはインターネットという「〈リアルの世界〉の力によって用意されたプログラム」に組み込まれ、寄る辺なき大衆として自らを規定せざるを得なくなっている。

 神林が述べているように、計劃が繰り返し表現しようとしていたのは、それまでは神的・宗教的な要素によって規定されていた人間の意識というものが、時代の変遷とともに宗教の力が弱体化し、その明確な存在理由を獲得することが出来ず、自らの存在を自壊させていってしまうのではないか、というテーゼなのである。

そして、そのテーゼを体現させることこそが、『ハーモニー』における御冷ミァハの役割だったのである。

(2)『ハーモニー』における思想的敗北~「救い」としての意識の消失~

 ミシェル・フーコーが『生政治』の中で論じたような、人間の死・生が権力により、管理されるようになっていく時代。

 完全な自由を手に入れる代わりに、ありとあらゆる尊厳、あるいは選択から、人類は疎外されていくことになる。そうした流れの中で人間の意識は、次第に明確さを失っていき、統合的なもの、集団意識のようなものへと向かってしまうのではないか。

 『いま集合的無意識を、』において、神林が『ハーモニー』の中に見出した問題意識はここにあった。

 ぼくらはいま、人類の集合的無意識を顕在化するテクノロジーを手に入れて、それを意識しようとしている。生まれたときからこのテクノロジーを空気のように当たり前に利用してきた若者たちにとっては、自分の体臭に気が付かないようにかえって意識しづらいのではないかと思ってしまう。伊藤計劃のあの難問に対するひとつの回答が、まさしく現実のものとして目の前にある、と言うことに彼は気が付いていただろうか(神林、2012年、219)

 「集合的無意識」とは、神林の言を借りればSNS、すなわちインターネットにおけるコミュニケーションである。己の一つの思想ではなく、全体的・統合的な意識の流れの中に己を組み込むことにより、自らの存在の不安定さに疑問を持つことなく意見を発信することが出来るSNS的なコミュニケーション。神林はここに伊藤計劃が描こうとした意識の喪失とも言える現象を見出している。

 神林が提示した『ハーモニー』の意識消失の現象は、計劃が自らが求めた人間の意識の存在理由が「なかった」ことを認める思想的敗北を示したものであった。

 この作品は、著者である計劃自身の執筆時におかれていた状況下に大きく影響されている作品である。計劃は幼少期の時分から、病床にあり、機械の補助がなければ生きていくことのできない「サイボーグ人間」であった。

 本作のイメージの源泉には、彼のこの幼少期の通院体験があったことは間違いない。実際、計劃はインタビューで本作の主要登場人物に女性が多い理由として、病院での自分の世話をしてくれていた看護婦たちの会話から物語のイメージを着想したため、と答えている。

 長年、健全な身体を外在した機械によって担保されていた計劃にとって、「健康」とは非常に重いテーマであったと推察される。とすれば、必然的に「健康至上主義」というイデオロギーを前面に押し出した社会を描いた『ハーモニー』において、健康というモチーフがどのように表象されているのかを考察することには意味があるはずである。

 2011年にWHOは人間が健康であるための三要素を提示している。「身体」「精神」「社会」の三つである。この人間の健康を規定する三要素を基盤とし『ハーモニー』の作中世界は構成されていると私は考える。

 例えば、「身体」の観点から見れば、人類はWatch meを体内に埋め込まれ、生命プログラムを遺伝子のレベルで管理されており、「社会」の観点に関しても、同様のことがいえる。人々の価値観・思考を幼少期以降、機械により最適化・均一化された教育によって完全に統制する社会が『ハーモニー』では描かれる。この社会では、人々の社会性・共同性は不気味なまでに均質化されており、ある意味において安定している。

 だが、「精神」に関して、作中世界の統制機構である〈生政府〉は統御することを失敗している。だからこそ、反逆者としてミァハとトァンは存在することができるのである。

 人間の「身体」と「社会」が〈生政府〉により制御されている『ハーモ二ー』の世界。この世界において、人が唯一、個的に持つことが出来るものは「わたしがわたしである」という自意識のみなのである。

 神林が『いま集合的無意識を、』で論じたように、『ハーモニー』には物語を客観的に眺める神の視座は存在せず、主人公トァンの視点のみに着目がなされている。集団社会に組み込まれながらも、彼女は共同体的社会の中で明確な自我を保っている。彼女の存在は、神林の文脈で言えば、救いであろう。集団的な全体性のなかに組み込まれながらも「個」としての意識を持てるような自我。

 だがその「救い」としてのトァンの自我でさえも、ミァハが物語の最後に実現する一切の「個」という意識が存在しない世界を承認してしまう。

 物語の終盤で行われる御冷ミァハと霧江トアンの対話。この場面において、トァンは人間の個人意識というものは、共同体的で健全な集合意識が実装されている社会において、それほどの価値を持たないと宣言している。

 迷いがなければ、選択もない。選択がなければすべてはそう在るだけだ。
 その風景は、いままでの風景と全く代わり映えのしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい。
 昨日と同じように人は買い物に行くだろう。
 昨日と同じように、人は仕事場に行くだろう。
 昨日と同じように笑うだろう。
 昨日と同じように泣くだろう。
 単純に自明な反応として。単にそうすべきだからそうするものとして。
 これが、皆肩を並べて来たるべき永遠を迎えるためにしなければならない通過儀礼なのだろうか。
 たぶんそうなのだろう。
 異議は、ない。(伊藤、2014年、348)

 共同体に身体的・社会的な側面では飲み込まれながらも「精神」の側面で独立した自我を形成することに成功したトァンに、人間の意識が存在することを「異議は、ない」と宣告させてしまうこと。ここに私たちは著者の本作における思想的敗北を見出すことが出来るのである。

(3)第三章 対幻想と『ハーモニー』

 『ハーモニー』は近未来の社会という舞台設定から、現代社会における諸問題を捉え直すという思弁小説(スペキュレイティブフィクション)の形式が評価されている。だが、本作が今日においても高い評価を獲得している理由の一因に、「百合」という要素が含まれていることは忘れるべきではないだろう。

 主人公であるミァハとトァンの関係性は、作中で具体的な恋人関係であるとは描かれてはいないものの、非常に近しいものとして描かれている。計劃がインタビューで述べているように(伊藤、2014年、372)、トァンとミァハは鏡写しのように反転した性質を持っており、物語のクライマックスではこの二人の正反対の意識は近づき、ある種の親愛さすら感じさせる表現へと変化している。

「――そう、あなたはこの世界の仕組みを憎んだ。だから一緒に死のうって言われたとき、わたしとキアンは一緒にやろうって思ったんだよ」
 いつの間にか。私の口調が高校のあのときに戻っている。
 御冷ミァハと、零下堂キアンと一緒にお弁当を食べていた女の子の口調に。
 あの霧慧トァンの口調に。(伊藤、2014年、341)

 『虐殺器官』では、主人公のシェパードが異性に対して恋をするというモチーフは重要な役割を果たしていた。

 だが、『ハーモニー』におけるトァンとミァハの関係性には、ほとんど両者が恋愛関係であったという具体的表現は見られない。その一方で、物語の随所に幼少期の二人の回想が入ることが多いことからも、二人の関係性を描くことに計劃が苦心していることが読み取れる。

 お互いに思いを伝えているわけでもなく、具体的な行動を起こしているわけでもないのにもかかわらず、上記の引用部なども含めて二人の関係性に強い親愛の情を読者は感じとることができる。二人の会話での何気ない所作。そういった部分に作者の技量が割かれているのである。

 ではなぜ、計劃が本作を「百合」作品として世に出そうとしたのか。ここで、私は文学における百合というモチーフについて考察するために、評論家吉本隆明の『共同幻想論』について取り上げてみようと思う。

 吉本は人間が持つ文学などを含める言語による「表現」に対する欲望を、人間が自らが本能的に持つ幻想の性質を言い表そうとする衝動により規定されるとし、その幻想の種類を「共同幻想」「個人幻想」「対幻想」の三つに分類した。

 僕の考えでは、ひとつは共同幻想と言うことの問題がある。つまり、共同幻想の構造という問題がある。それが国家とか法とか言うよう問題になると思います。
 もう一つは、僕はそういう言葉を使っているわけですけれども、対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸がひとつある。それはいままでの概念で言えば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものはだいたい対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。
 もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論・文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく(吉本、1982年、270)

 吉本は、この3つの幻想を利用し、柳田国男の『遠野物語』の分析を行っている。吉本によれば神話・文学・学問など、人が言語を使い生み出すほとんど全ての「表象」を上記の3つの幻想によって説明することができるという。本作の中において、特に吉本は共同幻想と個人幻想の中間に位置している対幻想を重視し、著作が書かれた1960年代に人々が陥っていた国家イデオロギーからの「自立」を唱えた。

 私は『ハーモニー』について考える上で、WHOが規定した人間の健康を定義づける「身体」「精神」「社会」の三要素が重要な鍵となっているという仮説を提示した。この三つの概念は、そのまま吉本の三幻想とも照応させることが出来るのではないだろうか。「身体」は個人幻想。「社会」は共同幻想。そして、「精神」は対幻想としてそれぞれ割り当てるのである。

 前章で述べた通り、「精神」として共同体としての社会から独立したトァンの自意識は『ハーモニー』の作中において、重要な意味合いを持っている。この「精神」の側面におけるトァンの独立を、吉本の「対幻想」を援用して、ミァハとの百合関係に支えられたものであると考えると、計劃がこの二人の関係性を非常に緻密に描いている理由が見えてくるのではないだろうか。

 作中で、主人公のトァンはミァハ以外にも無数の他者と、一対一のコミュニケーションを反復し、対幻想的なモチーフを繰り返し行っている。この観点から着目すると、一対一の対話を繰り返し、物語の最後でも己の半身的な性質を持ったミァハと話すことで、トァンは自らの意識の充足を果たしているといった見方が可能となる。

 計劃は本作を「百合」作品であると明確に述べている。「百合」とは女性同士の親愛関係を描く作品ジャンルのことを指し示すのだが、『ハーモニー』では最愛の相手に近付きたいという、恋愛的な激しい情動のモチーフはほとんど表象されていない。

 本作におけるミァハとトァンの関係性は淡く、壊れやすそうなものとして描かれている。本作で提示されている「百合」は女性同士の淡い精神的な関係性を表現したものと言える。

 その関係性の結果として、ミァハとトァンは「対」の存在となり、身体的ではない精神的なつながりを獲得することが出来るのである。トァンは作中で何度もミァハとの思い出を想起し、そのたびにミァハと自らの精神的な距離を近づけている。だが、精神的距離が近付く一方で、現実の二人の距離は、ますます離れていく。結局、二人が出会うのは物語の最終局面にまでもつれ込む。 

 本作を「百合」作品として、女性同士の愛情関係を期待した読者には二人の微妙な距離感はとらえ難いものとして感じられるだろう。それほどに、幼少期を除いた二人の関わり合いの場面は少ない。それでも、計劃はこの作品を「百合」であると定義した。

 トァンとミァハという二人の少女の精神的なつながりを描き、個の意識を越えた対幻想的なモチーフを表出することによって、計劃は人間の意識の必要さを描こうとした。だが、この試みに関しては前章でも述べた通り、彼はトァンに託すことを失敗したと言える。

 結局、計劃は『ハーモニー』において、人間の意識についてそれ以上言及することは出来なかった。つまり、『ハーモニー』の百合表象は、著者にとって現代社会がインターネットにより強化された無意識のレベルで人々が陥っている共同体的イデオロギーからの「自立」の可能性をめぐる思索であり、結論として二重の意味で失敗に終わった試みだったのである。

 
(4)敗北後の計劃~『ハーモニー』から『屍者の帝国』への移行~

 どれほど、システムが堅牢であろうとも、人が持つ「意識」という不完全な要素によって、システムは検知できないエラーに内在させることとなる。

 だからこそ、システムを完璧にして、人間を完全な意味で社会的な存在へと変容させるためには、個々の意識の消失が不可欠だという結論を、計劃の分身たるミァハは提示している。

 システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろんなものを外注しているわたしたちに、どんな意思が必要ようだっていうの。問題はむしろ、意思を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意思の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ (伊藤、2014年、344)

 ミァハが望み、トァンが実現させた人間の意識が存在しない世界。計劃は明記こそしていないものの、その世界をありとあらゆるものが自明性によって支配された不気味な世界として描いている。そのことからも、改めて『ハーモニー』は計劃にとっての思想的敗北を示した作品であったと言えよう。

 この敗北の後、計劃が執筆を試みた作品が、彼の死後、序文のみを残した未完の作品『屍者の帝国』であった。

 第一章の冒頭にも述べたが、伊藤計劃のペンネームに関して、読者は「計画」のイメージを抱く。計画とは、未来に実現される事象の設計図であり、「現在」では完結しないものだ。

 だからこそ、計劃の著作を考察するにあたり、作品をテクストとしてのみ捉えるのではなく、彼がいかなる「計画」を残したのか、そのことについて、読者は考える必要があるのではないだろうか。

 その上で、彼の遺作である『屍者の帝国』は序文のみが残しているのだが、本作はこれまで述べてきた著者が『ハーモニー』で提示し解決することの出来なかった意識の問題に対して、全く異なったアプローチが試みられている作品であると言うことが出来る。

「生者と死者を分けるものは何かね、ワトソン君」
と教授が訊いてきたので、わたしは冷静に答えた。
「はい、霊素の有無です」
「そうだ霊素の有無。俗に言う魂というやつだ。実験で確認されているところによると、人間は死亡すると生前に比べ、体重が0.6オンス、21グラムほど減少する、これがいわゆる『霊素の重さ』だと考えられている」(伊藤、2012年、275)

 『屍者の帝国』の序文では、上記のような魂に関しての解説が、学問的な厳密さを提示しつつ延々と繰り広げられている。「魂」に対する計劃のこだわり。ここに計劃が『ハーモニー』での思想的敗北をいかに昇華させたのかを読み取れることが出来る。

 『ハーモニー』のラストでは、各々の自我が失われた「社会化」された人類が描かれた。「肉体」「精神」「社会」すべての位相で人が癒やされたディストピア世界。計劃はその結末を描いてしまった自らに対して批判意識を持っていたことは前述した。そして、その返答として『屍者の帝国』の中で、計劃が提示したのが「魂」というモチーフではないだろうか。

 生から死へ。意識から魂へ。この二つの傾向を、『ハーモニー』から『屍者の帝国』という移行から読み取ることができる。現在に生きている私たちの意識とは離れた死者の視座から、人を人として規定する魂に関しての思考を巡らす。それこそが、計劃が『屍者の帝国』という作品を生み出す動機となっているのではないか。

 身体・精神・社会といった「現在」というテーゼに縛られた概念から、一度離れた「魂」というある意味でスピリチュアルな概念を対置させ、人間の意識のあるべき姿を模索する。それが計劃が私たちに残したメッセージであるとすら言えるかもしれない。

 2018年に伊藤計劃の主要三部作の、すべてのアニメーション化を試みるproject Itoが完遂された。映画化された三部作は、どれも計劃の作品をいかに後世に伝えるのかという目的意識のもと製作されていた。

 彼の作品は現代社会に対し未だに、強い批判性を秘めている。そして、同時に様々な価値観が混迷していくことが予想される未来に対しての豊潤な視座にも満ちている。彼の死後に提示された「計画」を、「現在」に生きる私たちはもっと重く受け止めなければならない。本稿の執筆過程で、そのことについて再認識させられた。私たちはこれから彼の計画した世界を生きていかなければならないのだから。

参考文献
1、伊藤計劃、2014年、『ハーモニー』、ハヤカワ文庫
2、神林長平、2012年、『いま集合的無意識を、』、ハヤカワ文庫
3、伊藤計劃・山形浩生ほか、2015年、『蘇る伊藤計劃 伊藤計劃——全仕事と生涯』、宝島社
4、伊藤計劃、2012年、『The indifference Engine』、ハヤカワ文庫
5、吉本隆明、1982年、『共同幻想論』、角川ソフィア文庫
6、伊藤計劃、2015年、『伊藤計劃記録Ⅰ・Ⅱ』、ハヤカワ文庫


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?