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Telepathy/Kaleidoscope

9月7日、Travis Japan・川島如恵留くんと七五三掛龍也くんの真ん中バースデーによせて。

コンビとしてののえしめを好きになってから数年間、彼らに関するエピソードや関係性をひたすらに見つめ続けてきた。まだまだ短い期間ではあるけれど、今一度現在の二人の関係性を踏まえて過去の媒体を遡ってみると、時間の経過に伴うお互いのお互いに対する理解の形や関係性の移り変わりがよく見えることに気付いた。

これは真ん中バースデーのお祝いというよりも、コンビとしてののえしめが大好きで、何か一本noteを書きたい、という気持ちが高じたもの。のえしめの話がしたい、テーマは決まらないけれど何かが書きたい。それならせっかくだから真ん中バースデーの日に公開しよう。そう思って書き始めたのが、このエントリ。

今まで、時系列順に並べたエピソードとその感想のまとめや、一つのエピソードを掘り下げて語ったエントリを書いてきた。でも、「今」を並べる、切り取るだけじゃなく、今抱いている認識を踏まえた上で、継続した期間について振り返ってみたかった。「理解」の縦軸、「関係性の変化」の横軸。ただ、相関性の分析がしたいわけではないから、2本で1エントリ、という形。前置きが長くなってしまったけれど、そんなところです。

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"Telepathy"

「分かり合う」ってどういうことだろう、とよく思う。人と人とが100%分かり合うことはきっとないけれど、100%でなければ分かり合えていない、ということでもきっとない。実際問題、本当にそうなのか、ということは問題ではなく、本人の心持ちによるものなのかな、と思ったりもする。

Travis Japanになる前から同じグループで活動し、12年以上の付き合い。お互いの芸能人生で一番付き合いの長い二人。二人の関係性について考えるとき、その付き合いの長さに伴う相互理解については切り離せないことだと感じている。

のえしめの相互理解、という観点において物凄く印象に残っているのは、のえぱら12:00公演の挨拶。「10年一緒にいるけれど、しめのことは全然分かりません。どこまでいっても、しめのことは分かりません。メンバーもファンの方も、しめのことは分からないと思います。でも、根拠はないけど、僕がしめのことを一番分かっているんじゃないかと思います」。誰も「分からない」ことを前提とした上での相対評価的な「自分が一番分かる」。

そして、それと対照的なのが、一貫してしめちゃんの口から出る「如恵留のことは何でも分かる」という言葉。おそらく、明確な根拠がある、というよりも、その自負や長年の付き合いの中で得た肌感覚によるもの。それでもその言葉通り「分かっている」ことも多い。そんな印象があった。

2019年8月、のえまる定期更新から生まれた「バディ」の概念。如恵留くんがらじらーでwacci「Buddy」をリクエストし、自分たちの関係性にこの曲の歌詞が重なる、と話したのは2019年12月のこと。そして、しめちゃんが「バディ」の言葉を用いてこれに言及したのは2020年8月。「バディ」の概念や共通認識は年月を経るごとに確実に定着し、今や彼らは自分たちのことを「Eternal  buddy」と呼ぶ。

2022年8月11日に公開されたYouTube、ANIME EXPO2022の舞台裏。インタビュー時、しめちゃんが推しキャラの名前をド忘れして困っていたところに如恵留くんがそのキャラを言い当てる、という流れがあった後のバックヤードでの会話。しめちゃんの「何でもやっぱ俺のこと分かるんだ」という言葉に対して如恵留くんは「当たり前だよ、何年一緒にいると思ってんだ」と口にした。

ああ、今の如恵留くんにとって、しめちゃんのことは「分からない」ではなく「分かる」が前提になっているんだ。この変化は彼らの2年間の歩みそのものだ、と思った。この2年を経て、確かに解像度自体も上がったのかもしれない。でも、それよりも、心持ちの変化が大きいのかな、と勝手に思っている。皆分からない、自分も分からない、でもその中で自分が一番分かっている、という相対評価から、「分かっている」ということに対して「当たり前だよ、何年一緒にいると思ってんだ」と言い切れる絶対評価に。信頼関係に対する自信の現れなのかな、と思う。

一方、しめちゃんは一貫して変わらず「如恵留のことは何でも分かる」と言い切る。そして、自身の推しキャラを言い当てた如恵留くんに対して「何でもやっぱ俺のこと分かるんだ」と言う。「何でも」「やっぱ」。その言葉を聞いて、しめちゃんの中での認識は「自分が如恵留くんのことを何でも分かる」だけでなく「如恵留くんも自分のことを何でも分かっている」「お互いに分かり合っている」というものなんだろうな、と感じた。

そもそも「分かっている」と言い切る自信に、根拠は必要だろうか。その「分かっている」ということは、何もかもを「知り尽くす」ことと同義だろうか。たとえば、以心伝心が成立することや、本人にまつわるクイズで正解を出すことは「分かっている」という分かりやすい根拠にはなるけれど、それもまた全てではない。でも、この2年間の経験則や肌感覚で「何でも分かる」と言い切っても大丈夫だ、と思えることの積み重ねがあったんじゃないかな、と思う。事実としての「分かる」の積み重ねと同時に、互いに歩み寄る過程で、歩みを共にする中で、「バディ」としての相互認識を深める中で得た信頼関係の積み重ねで。

Ep.2でしめちゃんとテレビ電話を繋いだ後に「テレパシーより凄いね」なんてお茶目なことを口にしていた如恵留くんだけど、今ならバディ同士のテレパシーの精度、めちゃくちゃ上がってるんじゃないかな、なんて。とはいえ、また同じ状況になったらきっとテレビ電話を繋ぐんだとは思うけれど。

相手の大切にしていることや譲れないこと、その考えの根幹をしっかりと捉えていれば、枝葉末節を何もかも知り尽くさずとも、どう考えるのか、ということの推測ができる。それは、相手ときちんと向き合って人間関係を築いていくことで、相手を知っていかないときっと得られないもの。たとえば「メイメイ」の回、しめちゃんが如恵留くんの回答を推測する上で「如恵留は人やペンギンに対して「しょうもない」と言う人じゃない」という観点から導き出そうとしていたことが印象的だけれど、今の二人は、それぞれにその感覚を得ているんではないかな、と思う。これはあくまで私の感じたことではあるけれど、何となく、何となくね。

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"Kaleidoscope"

ここ最近、過去を振り返る、ということをあまりしていなかった。「今」の彼らの言葉に耳を傾けたくて、彼らの「今」を捉えることに精一杯になっていたからだ。でも、「今」を通して「過去」を見ることで、今まで感じていたこととはまた違うことを感じるのかもしれないな、とふと思い、暫く見返していなかった過去のYouTubeを遡る旅に出ていた。

そうすると、時期によってメンバー同士の関係性の在り方や見え方が違うな、ということに改めて気付く。それはのえしめに関しても然りで。2018年頃の初期の動画を観ると、彼らが必要以上に口をきかなかった、という状況からの歩み寄りを感じる瞬間がある。バンデッドの回ののえしめなんかはまさに、で、乗り物酔いでグロッキーになる如恵留くんの隣で「俺はひたすら楽しい♪」と微笑みながらも、ジェットコースターが走り始めたら如恵留くんの手をぐっと握って高く掲げるしめちゃんの姿から当時の歩み寄りを感じると共に、今の「バディ」の姿の原型を見るなどした。

この頃ののえしめは「しっかり者とお天然ちゃん」。2018年6月、代打出演したのえしめらじらーはその最たるものだと思う。マイペースに思うままに連発されるしめちゃんのふわぽわ発言をどんどん回収していく如恵留くん。そうかと思えばあまりの天然っぷりにすっかり惑わされたりもする。そもそも、このらじらーの代打出演が決まったことから歩み寄りが始まったことを思うとその事実がもう尊くてたまらないし、この様子を踏まえて3年後ののえしめらじらーを聴くと、その落ち着きっぷりと自然な仲の良さにじんわりとくるものがある。

それから少し後、2019年ののえしめは「王子と姫」「執事と坊ちゃん」。この頃ののえしめは、とにかく甘い。世の中の糖分という糖分を全部載せしてるんじゃないかと思うほどに甘い。サマパラ2019の僕プリで如恵留くんのお姫様抱っこにすっぽり収まるしめちゃんは王子と姫だし、足立油田高校の筆頭執事ノエルさんと龍也坊ちゃんはあまりにも当て書きが過ぎた。福岡でのYouTube、住吉神社に行く回でじゃんけんに勝って真っ先に如恵留くんを選ぶしめちゃん、ゲームが始まった途端に「やばい……」と呟き始めるしめちゃんの肩を引き寄せながらの如恵留くんの「どうした?大丈夫?」がもう甘い。マリンワールドでマジレスかまして身体ごと如恵留くんに回収されるしめちゃんも。「しっかり者とお天然ちゃん」の延長線上にあるものの、その糖度がぐっと上がっている感じ。

2019年8月、のえまる定期更新から生まれた「バディ」の概念。如恵留くんがらじらーでwacci「Buddy」をリクエストし、自分たちの関係性にこの曲の歌詞が重なる、と話したのは2019年12月のこと。そして、しめちゃんが「バディ」の言葉を用いてこれに言及したのは2020年8月。「バディ」の認識が双方向になり、関係性の段階が一つ上がったことで、そこに別の甘さが加わった。それが、「のんのんと龍也サン」。可愛くはしゃぐ如恵留くんの隣で悠然と微笑むしめちゃんの姿をよく見るようになった。2020年以降のツーショットは、案外そんな感じの二人の姿も多く見かける。お互いに大人になり、肩の力が抜けて、素を出しやすくなったこともあるのかもしれない。如恵留くんがしめちゃんの隣で「最年長」の看板を降ろして、安心した様子で微笑む様子が見られることが、私は嬉しかった。

そして、今ののえしめから見えるのは「グループの年長者同士」。横並び対等な、大人同士の空気感。ピクニック回のYouTube、二人離れて木陰で休みながら年下組のお遊びを見守るのえしめを見ると、ああ、二人は確かにトラジャの兄組、最年長と上から二番目なんだな、と思う。でも、如恵留くんから口にポテチを詰め込まれるしめちゃんを見ると、ああ、しめちゃんは如恵留くんより年下なんだよな、とも思う。そこに流れる穏やかで落ち着いた空気から、二人の関係性が円熟していることを感じる。自立した関係性だからこそ、半プライベートの今、目に見えて分かりやすいコンビ案件、というものは減っているのかもしれない。でも、インスタライブなんかでの何気ない動きを見ていると、特筆されない上に本人たちも意識していないレベルのやり取りはあるんだろうな、と思った。12年以上、当然近くにいるからこそ本人たちが取沙汰すこともないようなことが確かに存在していて、日本にいるときは大人の方がそれを拾い上げて見せてくれていたんだな、とも。

「バディ」の概念や共通認識は年月を経るごとに確実に定着し、今や彼らは自分たちのことを「Eternal  buddy」と呼ぶ。こうして目に映る彼らの姿の変遷を振り返りながら思うのは、今、それぞれが大人になり、芸能人として経験を積む中で本人たちが変化した面もあり、お互いの見え方や印象も変わったんじゃないかな、ということ。Travis Japanになる前からずっと同じグループ、長いこと近くにいすぎたがゆえに見えていなかったことが、別のフィールドで仕事をする、少し離れたからこそ見えるものもあったのかな、と、想像してみる。

これは「変化」だろうか。それとも、今、どの姿がよく見えているか、ということだろうか。彼らの関係性は確実に円熟していく一方で、今は見えていない姿も、鳴りを潜めているだけでなくなったわけじゃないような気もする。しっかり者とお天然ちゃんも、王子と姫も、筆頭執事ノエルさんと龍也坊ちゃんも、のんのんと龍也サンも、トラジャの兄組・年長者二人も、Eternal buddyも、くるくると移り変わるそのどれもが、愛しくて尊い二人の姿。これから先、年月や環境の変化によって、また違った姿が見えるのかもしれない。それこそ、シェアハウスで同室になれば、初めて生活を共にすることでまた一つ関係性の変化があるのかもしれない。分からないけれど、共に歩む二人の姿を、そしてその移り変わる様子を、大切に見守っていきたい気持ちでいる。

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さて。改めてここ数年間の彼らの関係性に思いを馳せると、お互いにお互いの見え方が変わった、お互いの強いところ、弱いところに改めて目を向けたからこそ理解が深まり、関係性が大きく前進したーーそれが「バディ」の概念が生まれてからの数年間のことなのかな、と感じている。そして、「理解」の縦軸、「関係性の変化」の横軸、それらの交わる地点が「バディ」の概念ができたところなのかもしれない。

真ん中バースデー。一学年違いの二人の「同い年」のお祝いはこの日だからできるんだなあ、と思うと、えもいわれぬ尊さと味わい深さがじわじわと心に満ちてくる。何度考えても「永遠」の言葉の重さに怖気付いてしまうものの、彼らが彼ら自身で「Eternal  buddy」の名を背負うなら、私もそれを恐れずに願いたい。二人の「同い年」のお祝いが、これから先もずっとできますように、と。

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