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散歩の感覚

特に変わりのない朝である。
夏らしい湿度と太陽が降りそそいでいる川沿いの歩道を歩く。

木漏れ日。
何もさえぎるものがないところには、日光が直接あたっている。熱い。木の下にいくと、そこは光と影が組み合わさった世界。パッチワークみたいだけども、それは風が吹くたびに、少しずつ表情を変える。万華鏡みたいに特別な世界ではないけれど、そんな小さな自然のみせる表情の変化。昔から身近に自然のある環境で育ったので、どこか私は親近感を持つ。

川の流れ。
大雨の後からひと段落して、川の水量が低くなって、うっすらと底がみえる。もともと、海に近い場所なので、潮の満ち引きによって見えるものは変わる。横を通るときには、川の様子が気になる。魚が数十匹泳いでいるのを発見したときに、わくわくする。大きなサギ、カモが、エサを求めて来ている。ここの住人といえるだろう。廃棄されたタイヤも、人工物であるが、それもときの経過とともに朽ちていき、自然の風景、馴染みの光景になっている。川は動きを止めることはなく、常に上流から下流に流れていく。この変わらないもの。安心するもの、法則のあるもの。反対に、動きのある常に変わっていく水面の表情も、これまたいい。昔は釣りが好きだったし、野鳥のハンドブックも買ったぐらいだった。そんな子ども時代とのつながりを感じる。

ときに、動くものに翻弄されてしまう。
あるときには、風で飛ばされてしまう。
気がつけば、流れていく。過ぎ去ってしまう。

動かないもの、変わらないものへの安心。
いつもそこにあるもの。
通り過ぎてしまうようなもの。

そんなものたちに囲まれている私という存在。
たった皮膚一枚の厚みでしか、外の世界から守られていない。
とても弱い。
その弱さがあるからこそ、敏感な皮膚は自然を感じることができる。
私は何かを感じることができる。

そんなことを散歩しながら考えていたというと、変態である。
しかし、そうでないとき、散歩は暑さによって疲れるという一面が前面にやってくる。いや、全面である。


過去と現在、そして未来をつなぐもの。
それはなんなのか、どこにあるのか。
探すものなのか、見つかるものなのか。
運命なのか、自分でつかみ取るものなのか。
そんなことを考えるのは、難しい。

変わるもの、変わらないもの。
どちらも、私には必要なものに思えてならない。
これくらいは、少しだけはっきりしてきている。

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