往々にして誰しも身近な良いものには気づかない。浮世絵専門店 原書房vol.3
2024年、ニューヨークのオークションで葛飾北斎の代表作「富岳三十六景」の全46図が競売にかけられ、355万9千ドル(約5億3700万円)で落札された。2016年にはパリで歌麿の版画が、74万5000ユーロ(約8800万円)で落札された。海外における浮世絵ブームはとどまるところを知らない。
折も折、4回シリーズで話をうかがっているナビゲーターは、国内外の目の肥えた愛好家に信頼される浮世絵の老舗画廊・原書房の原敏之氏だ。今回は個人的に注目している絵師、特定の絵師の人気に火がつく市場の背景について聞いた。
ーー「アートを見て何かを感じられたらどんなに楽しいだろう……!」、美術館でそう思った人は多いかもしれない。この連載は、そういう方々のために存在している。日常にデジタルツールがあふれるにつれ、いかに速く正解を得るかというタイムパフォーマンスの技術には長けていくが、美術品を見て心が動くという経験からは遠のいているように感じられるからだ。しかし、この時代にあってアートを見るアナログな感覚をビジネスとしてシビアに活用しているのが『美術商』たちである。
DXやAIの発展の加速に対して「アート思考」という言葉がブームになっている。意味はさまざまに解釈されているが、ここではアートを鑑賞する感性を身につけ、感動に至ることができる道筋と捉えてみたい。この『美術商に学ぶアート思考』では、アートビジネスの各分野からトップクラスの美術商を招き、プロの見方の奥底にあるものを明らかにしていく。
ロジカルに割り切ることが良かれとされる時代だからこそ、感じる心を研ぎ澄ませ、美術品がもたらす味わいに身を任せてみよう。
話し手:原敏之(原書房 代表)
ーー本日は、注目の絵師たちについてうかがっていきたいと思います。
原:よろしくお願いいたします。
ーー冒頭から恐縮ですが、原さんが過去扱った中で一番値段が高かった品はなんですか。
原:単純に扱ったというだけなら北斎の「赤富士」(凱風快晴/がいふうかいせい。葛飾北斎の『富嶽三十六景』のなかの一図)です。ウチは普段あまり在庫として冨嶽は持っていないのですが、美術館に依頼されて用立てました。右から左に持っていったという感覚で、あまり印象には残っていませんが。
ーー北斎と言えば日本人にも外国人にも人気ですから、仕入れておけば商品としては間違いがないのではないですか。
原:買えば、売れることは確かなんですよね。それでも何となくやらないのは、そこまでしなくてもというのがありますし、「富嶽ある?」って聞いてくる日本人のお客さまはあんまりいないんですよ。うちのお客さまは資料的な目的で買う方が多いので、そういった方々に喜ばれるものを自分のなかで仕入れの基準にしているところはありますね。
ただ、「大波」(神奈川沖浪裏/かながわおきなみうら。同じく北斎の『富嶽三十六景』のなかの一つ )のきれいなものなら一つ持っておきたいとは思います。今はもう手が出ないくらいの値段ですから、オークションではもう絶対買えませんが、お客さまが売ってくださるのを待つしかありませんね(笑)
ーー過去扱扱われた作品の中で、あのときこんなにマイナーだったのに、今注目されてこんなに値段が上がってしまったというものはありますか。
原:今で言えば川瀬巴水(かわせ・はすい。大正・昭和期の浮世絵師、版画家)と歌川国芳(江戸時代末期の浮世絵師)でしょうか。川瀬巴水は、20年ぐらい前だったら20万円も出せば、良い状態の品を手に入れることができました。
ーー確かに川瀬巴水は、少し前から美術館で展覧会が組まれることが増えましたね。
原:スティーブ・ジョブズが集めていたとか、日曜美術館などテレビ番組で取り上げられてそこから急に「巴水ある?」と聞いてこられるお客さま増えました。今でもほぼ毎日、特に外国人のお客さま聞かれ、高値安定ですが品薄です。
ーー景色の切り取り方がきれいです。
原:巴水は、もともと水彩画家なのです。それで版画でありながら、ここまでしっとりした風景を描けるのです。叙情的でデリケートだし、わかりやすく、きれいです。外国人に人気がありますよ。
ーーもう一人の歌川国芳について教えてください。
原:やはりうまいですよね。八犬伝(vol.2に登場)もそうですけど、武者絵から役者絵まで幅が広い。彼は猫が大好きだったんですよ。彼の描く化け猫は、かわいらしさがあって最高ですね。あと水滸伝シリーズは、ものすごく力強い。こういうコミカルなものから迫力あるものまで何でも描けるのが特徴です。
展覧会でやった画家はだいたい人気が出るんです。キャッチーなコピーをつけて本を出すと売れますね。同じパターンでは、小原古邨(おはら・こそん。明治時代から昭和時代にかけての日本画家・木版画の下絵師)がいます。
ーー確か国立近代美術館や太田美術館で見たことがあります。
原:古邨は昔はうちで3万円くらいで売っていましたが、今では外国人も買えないほど高くなりました。本当に極端で、昔は日本人は古邨を全然好きじゃなくて、それこそ交換会に出した方が外国人が高く買ってくれるという、そういった状態だったんですよ。今はもう逆転してますからね。日本人の方が高く買っています。
ーーそういう視点で注目している作家はいますか。
原:あまりいないですね。傾向としては、ブームになる画家が江戸から明治という新しい時代に移動してきているのです。国芳も幕末に近いほうですし。
楊洲周延(ようしゅう・ちかのぶ。明治の浮世絵師)の美人画は、わかりやすくきれいなので海外で人気が高く本も出されたほどです。日本ではそれほど人気がなかったのですが、昨年初めて町田市立国際版画美術館が、周延の展覧会をされました。だからといって「周延ある?」とお求めになるお客さまが増えたかというとそんなことはないんですけどね。この絵師は多作なので、これから注目するにはいいかもしれないですね。ただ、海外で人気があるのでもう遅いかも知れないです。
初心者が浮世絵の目を肥やすには
ーー浮世絵初心者が自分の目を肥やすために勉強する方法について教えてください。
原:いつ行っても見られる常設展があって良いものをたくさんお持ちなのは、原宿の太田美術館ですね。美術館で展示された同じ作品が、うちにあることもありますから、いらっしゃってみてください。あとは、浮世絵の画廊を回ることでしょうか。この神田周辺だけでも専門の画廊が8軒あります。実際に手に取ってご覧になれますよ。何でもそうなんですけど、肉眼で近くで見る方が全然違いますよね。
例えば、空摺(からずり)というエンボス加工のようなテクニックがあります。そういったものは美術館で見ても、作品との距離があってわかりにくいものです。
ーー浮世絵には、細かい技術があるんですね。
原:ええ。ほかにも雲母刷りとか、墨に漆を混ぜて光沢を出したりですとか、いろいろなテクニックがあるのでやはり間近で見てほしいですね。1万円、2万円の版画でもそういう技術が使われていることがあります。「これってすごいでしょう」と近くで見せると皆さん感動してくださいます。
ーー海外の美術館で日本の浮世絵を持っておられるところがありますよね。
原:ボストン美術館のコレクションが有名ですね。現地で展示する機会はあまりないんですよ。わざわざ行くより、その美術館のコレクションが日本に来たときに見に行く方がおすすめです。
ーーそのように海外の美術館が日本美術の名品を持ってるケースが多いのはなぜでしょうか。海外の方には、美術品を見る特別な目があるのでしょうか。
原:往々にして自分のいいところには、気が付かないものですよ。日本の技術ってわりと昔から日常的で身の回りにあるものだったじゃないですか。「これはきれいだね」と自分達の感性と違うものには、やはり目がいく。そういうことだったのではないでしょうか。
ーー確かにおっしゃる通りです。仏像も日本よりも海外で人気が高いと言いますよね。
原:土偶とかそういうものまで売れるわけですから。シーボルト(東インド会社の医務官として長崎・出島に滞在し、当時の日本の日常品を収集し、ヨーロッパに伝えた)のコレクションだって、おもちゃや蒔絵細工、瓦など日常の雑貨が多いじゃないですか。それが技術的な価値があるかどうかはまた別ですが、そういうものなのではないでしょうか。浮世絵に関しては、木版画なのにこんなに色がきれいなんだという感動はあるでしょうね。でも日本人にとっては新聞紙みたいなものだったわけですから。
ーー日本独自の感性と言えば、数年前に大英博物館で過去最大規模の春画展が開かれ、9万人が訪れたとニュースになりました。
原:春画は、特に海外の方で聞かれる方は多いですね。役者絵や美人画が一ジャンルとして確立されているとすれば、春画も一ジャンルとして確立されている感じです。海外のお客さまは、ベッドルームに飾るんだと話していましたよ。面白いなと思いましたね。
過去最高の感動の品
ーー今も忘れられない作品はありますか。
原:クリスティーズで働いていたとき、ずっとあるコレクターのコレクションを何年もかけて売っていたんですよ。それは吉田博(明治から昭和にかけて日本の風景画家・版画家の第一人者として活躍した)の版画でした。
なぜか同じ図柄もいっぱいありまして、相当な量だったものですから少しずつオークションに出していたんです。私も携わっていて、私が入社した頃には残り少ない状態になっていましたが、その中で特に好きな作品があったのです。同じ図柄で何枚かあったので、その中で一番きれいで状態のいいものを取っておいて、それで後任の人に「これは僕が辞めて、来年オークションに一般客として来たときに買うから出してね」と言っておいたんです。吉田博は、世界中のいろいろな山へ行って作品をつくりました。ダイアナ妃の書斎に飾ってあったことで有名です。
ーーイギリス人画家のターナーを思わせる、繊細なグラデーションですね。
原:油絵のように見えますが、木版画なんです。空気感とかすごいですね。これ彫るのも刷るのも大変だったと思います。「自摺」とありますが、吉田さんは彫っているけど、おそらく刷っていたわけではないと思います。
それまでの浮世絵と比べて色の数がものすごく多いのです。グラデーションになってるくらいですから、色板の数が30とか60枚になるのです。私がその当時一番好きだったのは、アメリカの『レニヤ山』という作品です。絶対に買うと決めていたので、同作品のオークションでの当時の最高額かもしれません。クリスティーズのオークションに初めて客として参加した時に落札した作品となり、感慨深かったです。
ーーそうまでして手に入れたくなるような逸品だったということですね。
原:やはり一番好きだったですね。景色がとてもピースフルで。私も登山をするのでいつかこの山に登ってみたいと思っていましたが、その前に売れてしまいました。
ーーえ、売ってしまったのですか。
原:版画ですし、いずれまた巡り会うこともあるでしょう。それが浮世絵・版画のよいところなのです。
ーーこれから原書房をどのような店にしていきたいですか。
原:少しずつ浮世絵を新しいものにシフトしていこうとは考えていますね。父が始めた頃の浮世絵界は、「歌川広重よりあとの時代の作品は浮世絵じゃない」という考え方もあったそうです。でも、最近は徐々にそのあとの近代の作品も人気になっています。時代に応じて、浮世絵以外の近代版画も扱っていかなくてはいけないなと思っていますね。また、作品のクオリティを大事にしながら、「こんな作品ある?」とお客さまに言われた時にすぐ出せるように品数が充実している店になりたいですし、同時に『こんな作品は絶対うち以外にはない!』という一級品の作品も持ちたいと思っています。画廊にとって、状態の良い綺麗な高値の作品を持っていられるというのは、金銭的に結構大変なことなんですが、一つの憧れでもあるんです。さらに、今のアートにも共通点を見出して、現代ものをやっている画商さんと協力して機会があれば何かやってみたいと考えています。
ーーありがとうございました。(vol.4へ続く)
《終わり》
原敏之
1970年生まれ。原書房の3代目として幼少期より浮世絵に囲まれ育つ。1995年より老舗オークション会社クリスティーズの日本美術部門担当としてロンドンとニューヨークに赴任。現在はその慧眼を生かして国内外のコレクター、美術館などに浮世絵を売買している。
原書房
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-3
営業時間:火~土曜日 10:00~18:00 / 定休日:日・月・祝
TEL:03-5212-7801
企画・取材執筆:杉村五帆(すぎむら・いつほ)
執筆者プロフィール
杉村五帆(すぎむら・いつほ)。株式会社VOICE OF ART 代表取締役。20年あまり一般企業に勤務した後、イギリス貴族出身のアートディーラーにをビジネスパートナーに持つゲージギャラリー加藤昌孝氏に師事し、40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなど美術品の価値をシビアな眼で見抜くプロたちによる講演の主催、執筆、アートディーリングを行う。美術による知的好奇心の喚起、さらに人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。
https://www.voiceofart.jp/