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【考察】「読むのが嫌い」な人に読んでもらう話【当たり前を疑え】


*2022年2月10日 読み返したら納得がいかなかったので、加筆修正しました


現在のみなさま、そして未来のみなさま、いかがお過ごしでしょうか?みなみです。今回は「「読むのが嫌い」な人に読んでもらう」ことについて、自分語りをしつつ書いていきたいと思います。

noteを利用している方で「文字を読むのは大っ嫌い!」という方は少ないと思います。(中には仕事でどうしても利用せざるを得ず、吐き気を覚えながら利用されている方もいらっしゃるかもしれませんね。心中お察しします。)日本に生まれると多くの人が小中学校に通い、文字の読み方と書き方を習いますから「”識字”の延長」という意味合いであれば、多くの大人は文字と共に生きてきたと言っても過言ではありません。

ですが、「文字を読むのは好きですか?」と問われると、「めっちゃ本読みます!私は特に東野圭吾が好きで〜」と前のめりで話し始める方もいれば、途端に白旗上げて「読むのとかマジで無理ー」という方もいますよね。マジで無理まで行かなくとも、文字を脳みそが受け付けなくてなんとなく読まない人たちも一定数存在し、「文字で説明したい人」が「読まない人たちに読ませること」に腐心したりします。

その差って、どこで生まれるのでしょう?そして文字を読まない人たちに読ませるにはどうすればいいのでしょうか?

得意不得意、と言ってしまえばそれまでなのですが、それでは解決できないのでもう少し、そしてやや話を脱線させつつ、ふくらませてみましょう。

文字を読むのが好きな私は、いかにして読むのが好きになったか

私は、文字を読むのも書くのも「マジで大好き」級ですが、そうなった要因は生まれた時からの「刷り込み」と「楽しい千本ノック的な慣れ」が最も大きいと思っています。

私が人生で一番最初に本を読んだ記憶は恐らく2歳くらいの時「名作アニメ絵本シリーズ」です。かぐやひめが月へ帰る場面に同情して泣き、ピノキオのクジラに食べられるページが怖くてセロテープで止めて見えないようにしてもらい、人魚姫が薬を飲んだあとに自分の足もしびれたような気がした記憶があります。自分で言うのもなんですが、感受性が豊かでかわいいですね。

私の両親も、仕事と趣味を兼ねて大量に本を読む人たちで、両親の居室にはいつも「積ん読」が大量にありました。昭和の新興住宅地の一角にあった団地の大して広くないリビングの唯一の大きな壁面は、テレビとテレビ台部分以外はすべて天井まである扉のついた本棚で、小説、新書、エッセイ、マンガまで様々な本がぎっしり詰まっていました。小学生になると、その棚をこっそり開けて読むという技を身につけ、たくさんの本の中から「昭和の少年マンガの愛蔵版」ばかりを選んで読んだのが懐かしい思い出です。
残念ながらその棚の活字の本は、当時は興味が持てず読む気になりませんでしたが、それでもそこを開けるたびに未知なる世界が広がっているような気がして少しドキドキしたものです。

そうして「本を読む」ことが「ごはんを食べる」のと同じように行われる家庭に育った私は、小学校の図書室の常連でした。代本板(今、初めて「代本板」という文字をタイプしました。感動的。)は常に図書室にあり、たくさんの本、特にたくさんの物語を読みました。また4つ離れた弟がいたこともあり、母が図書館でよく紙芝居を借りてきて読んでくれたことも覚えています。
中学に入るとマンガを読むことと部活と生徒会で忙しく図書室とはご無沙汰でしたが、今でいうラノベと辞書(特にカタカナ語辞典)は読んでいました。
高校生になると文字を読む熱が再燃して、図書館の「国内文学【や】」の書架の前に高いところの本を取るための脚立を置いて、1日中そこに座って山田詠美の小説を読んでいたこともありました。

このように本の海で泳ぐような子ども時代を過ごした私にとって「文字を読む」ことは「当たり前」の行為であって、「好き」「嫌い」「得意」「不得意」ではかるものではありませんでした。また幸いなことに私の友人もマンガや小説をたくさん読む人ばかりだったので文字を読むことが「当たり前」であることを疑うこともなかったのです。これを読んでくださっているみなさんにも、自分にとって「好きで当たり前」なことがあると思うのですが、いかがでしょうか?

「文字を読むのは当たり前」を疑え

ところが社会人になって「本を読まない人たち」に出会って初めて「我が家は全員”本の虫”」だということに気づいたのです。世の中には本を読まない大人が大勢いる、という事実は結構衝撃でした。

ちなみにまた話が脱線しますが、我が家でいう”本の虫”は「道を歩きながら本を読む」いわゆる二宮金次郎スタイルのことを言い、特に母は横断歩道も本を読みながら渡るほどの虫でした。歩きスマホと同様に大変危険なので、皆さんは真似しないでくださいね。(母も今はさすがにやっていません。)

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話を戻しましょう。

また私は仕事柄、説明書やカタログ、マニュアルを作る機会が多いのですが、伝えたいことがありすぎて書けば書くほど文字は小さくスペースは狭くなり「文字を読まない人たち」に読んでもらえないどころか「私だって読まねぇわ」な内容になってしまったことも1度や2度ではありません。特に私のような「文字を書くのも好き」な人間に何も考えずに説明書やカタログを作らせると、普段以上にしつこい・重い・わかりにくい内容になってしまうこと受け合いです。

あるとき社内向けのマニュアルを作って公開したところ「書いてあること」についての問い合わせが何件かありました。それも同じ箇所ではなくそれぞれ違う箇所で、聞かれるたびにマニュアルを更新しましたが、二度手間の嵐に作成者の私も途中で面倒くさくなってしまいました。

そこで私は初めて「文字は読む意思がなければただのインクの染み」になっていまうことに気づいたのでした。

なんとなく、わかればいい

では読むのが嫌いな、あるいは苦手な人たちに読んでもらうにはどうするのか。

それは、なるべく文字にしないこと。文字にするなら短く簡潔にすること、です。

・・・ツッコミたくなりましたか?そうですね。ですが、これが私がたどり着いた手段です。

人間、嫌いなものはなるべく早く少なく通り過ぎてほしいと思うものです。嫌いな食べ物を鼻をつまんで飲み込んだり、肝試しのお墓を目をつぶって走って通り抜けたり、みなさんにも経験があると思います。だとしたら、文字を読むのが嫌いな人、苦手な人にもなるべく早く少ない時間で理解してもらう必要があります。

例えば説明書やマニュアルであれば、イラスト、写真、動画など「感覚的」に表現出来るところはすべて置き換え、どうしても文字を使う必要があるところは基本は箇条書きを意識しつつ、写真に吹き出しで文字をつけたり、文字に色をつけたりします。会議の資料も同じで、表やグラフをメインで作成して、あとは音声で補足説明する方が結果的に説明も質疑応答も短時間で終わったりします。

イメージは「目に入って2秒で、なんとなくわかる」くらいです。なんとなくわかればいいのです。詳しく知りたいと思う人はきっと読んでくれます。

なんだか急にハウツー本みたいになってきましたが、とにかく、私は私の人生の根幹とも言える「読む」という当たり前を疑うことでやっと苦しい「マニュアル公開後の問い合わせターン」から抜け出せました。(あくまでも私の場合なのでご参考まで。)

ちなみにそのいわゆる「気づき」を得てから、文字を読むのが好きな人(例えば私)はしゃべりだすと長くなる人(例えば私)の割合が多いので、普段の会話もなるべく短いセンテンスで会話するように意識しはじめました。会話にしても、説明・説得するような場面でなければ「なんとなくわかればいいんだな」と思い至りはしましたが、如何せんなんとなくの加減が相手によるので、文字をアウトプットするのは難しいと感じる今日この頃です。

以上、約3,300字でお届けしました。

ここまで読んでいただきありがとうございました。引き続きよい1日をお過ごしください。

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