課題山積みな博士論文の研究に関して、あれやこれやと言って良いですか?(その2『意味のスタンスについて』)
はじめに
意味の意味とは?という哲学的な問題について答えることはほぼ不可能である。意味の意味について答えても、それは意味の「意味」であり、意味について答えを出すことはできない。今回は博士論文で課題になっている「意味のスタンス」問題について考えてみたい。
2種類の多義語研究
これまでに多義語の研究では、多義性をどう捉えるかという研究が幅広く行われてきた。多義語の研究には、ある特定の単語の用例を集めて、それが多義性があると証明したもの、そして、多義性について包括した理論的なものを求めているもの、この2つがある。私自身は、前者はもうやり尽くされた感じがあるため、後者の研究をしている(しかし、それは特定の多義を扱う研究がなくなったからではない)。
意味のスタンスを決めることが大事
さて、話を戻そう。その多義を扱うということは、概ね、多義についての意味を扱うことがポイントになるのはいうまでもない。その際に、意味について、すなわち、自分がどのようなスタンスを『意味』について持っているのかということは大事である。
実は、意味、概念、意味概念という言葉の区別ができるだろうか。意味と概念を切り離すのか、意味と概念を一緒にして考えるのか、それは意味論を研究する者にとって大事なことである。
例えば、言語哲学では、意味と概念が切り離されて考えられていなかった節は否めない。しかし、多義性について考えるときに、意味と『文脈』というのは切っても切り離せない概念である。なぜなら、語の意味は文脈によって決定してくるからだ。その「文脈」によって決定されたものを通常、我々人間は「意味」と呼んでいる。
フレーム意味論という動きが出ている。いや、認知言語学初期の頃に出現した概念だから「動きが出ている」という言い方は変だ。認知言語学の初期の頃に考えられて、要は「言外の意味」をどう捉えるのかが大事であるという理論である。通常、意味というのは辞書通りには人間の頭の中にはインストールされていない。言語というのはもっと複雑で、全ての解明が不可能なダイナミックなシステムだ。
そう、京都大の博士課程の院生が、博士論文で書いたのが、この「フレーム意味論で名詞の分析をする」ということだった。当論文では、既存の動詞中心のフレーム意味論の理論の拡張が行われている。理論の拡張を行うのは大変だと思う。その試みはとても素晴らしくて、読んでいて感動した。
話を最初に戻す。意味のスタンスを決めることは可能であるなら、様々なスタンスが考えられるが、ボクがどのようなスタンスを取ったのかは、別の日に記録することにしたい。意味というのはスタンスを決めるのも難しい。そして、既存の理論の拡張はもっと難しい。そのスタンスありきで進んでいくからだ。
最後に
今日は博士論文について、考えることを書いてみた。あと1年で修了できるのかと思いながらも、このまま進めていくしかないのである。頑張る。
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