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「かつはあやし」の「正体」について
興味のある方は少ないと思われるが、クセノポン著『アナバシス』(松平千秋訳/岩波文庫)を読んだ。これは紀元前401年にペルシアに攻め込んだギリシア軍が、バビロン近くの敵中でその指導者たる人物を失って孤立し、そこからペルシア軍を避けて、ティグリス河東岸を北上し、今のトルコ西部のアルメニアの雪山を越えて黒海に至り、さらに陸路海路を使ってポスポラス海峡・マルマラ海を経て、エーゲ海に帰還するという壮大なる従
もっとみる「教育」が与えるべきことについて
―日本をよくする?
とどのつまり、そのためには何より、未来社会に活動する予定の子どもたちの教育が大切になってくることは必然的に明らか。
それによって、誰も問わないが、「日本人らしい教育とは何か?」が問題になる。
それは繰り返しになろうが、何をおいても、子どもの日本語能力を高めることであるということに帰結する。
自分たちだけ分かって、でもその内容を子どもたちに伝えない。
日本語に優れるようにする方法
「ぐじゃぐじゃ」についての出来事について
私はフリージアが大好きで、昨年秋もたくさんの球根を植えつけた。
母にもらった球根をきっかけに、10年近くフリージアを栽培した結果、毎年植えたものの3倍以上の球根を収穫し、その約半分をHiru-netのバザーに出してもらったりしていたが、それでも昨秋は6つの大きな植木鉢と大プランターいっぱいに植え付けると、大中小の3種の球根から思いの外よく葉が生い茂り、花をつけるとは予想しなかった小球までもが多くの
One Leaf-葉っぱと葉っぱと葉っぱ展
V-netの入り口右手には青いソファーがあり、その上の壁に、昼夜灯りを消さない葉脈を照らし出した「作品」がある。
V-netにある他のアート作品群の中で、最も「主張」が少なく、 にもかかわらず他に類するものがない「造形」。
これは、「造形作家」川村忠晴氏の作品で、使われているのは信州の山奥で発見して来た植物の一部である。
その川村氏が、GW中に立川で共同展覧会をすると言うので、パンフレットが送られ
この国の未来を支えるのは日本語教育
これを書いている最中に満月になる。
世間巷、ネット上、雑誌上、最近しきりに日本人の「アイデンティティー」に関する話題が取り挙げられている感じがする。
日本人とはなんなのか?
日本をよくする
日本はすごい!
日本は大丈夫だ
なんでだろうか?
これは逆に日本の現在の状況、あるいは未来的展望を暗く捉える人が多くなってきているからなのか。
不況、円安、物価高。そして学者、政治家といったリーダーシップを
今子どもたちに与えたいこと
まあ忙しい。日常ではなくアタマの中だ。
毎日授業もあるが、忙しいのは書いたり考えたりすることだ。
デスクに戻ってもほとんどヒマはない。というより、デスクにしなければならないことがたくさんあり過ぎる。
こうなると、すぐ旅に出ることを思ってしまう。
その場から逃げ出したくなってしまう。
でも本当に自分のやりたいことは何か?と強く問いかけると、そこに、
「子どもたちを元気に成長させることだ」
と答えが変
中国人子女参加のリベラルアーツ
13日のリベラルアーツ初級は驚くべき展開になった。
『老子』を読んでいるのだが、そこに中国人ハーフ生徒とその中国人の母親さんが新規に参加した。
非常に知的な方で、『老子』は大学で読んだことがあると言う。娘さんは中高一貫校の1年生。
これで女子も二人になった。女子の意見と反応は非常に大切である。
さらにインド出身の参加者があれば、あるいはイスラム圏の参加者があればもっとと面白い。
みんなで話し合いた
「意識」について−2
「意識」について知るためには「意識」を『意識』しなければならない。
「意識」は、重層的であり多様的である。
「意識」を変化させようとすると、それには外界からの「刺激」が必要であることがわかる。
それは、「志向性」あるいは「好奇心」と呼ばれるものを起こす。
「意識」はそのままでは変化しない。実際に何かをやろうとしなければ変化しない。
好奇心と追体験。
そしてそれに対する「意識」。
生きているとは「意
春のパーティーのお知らせ
吉祥寺は桜が満開である。
曇り空が多くて花の色が少し冴えないが、今日の井の頭公園はごった返しになることだろう。
さて、御殿山に拠点を移して1年が過ぎました。移転後もこれまで同様に活動して来れたのは皆さんのご理解の賜物です。
そこで、その感謝の意を込めて、今年も春のパーティーを開くことになりました。
日時は、4月14日(日)17時より。
途中私もご挨拶の言葉を述べさせていただき、19時からは生徒教師
文章が書けるために必要なことについて
『日本の教育、ここがヘンタイ』でも紹介したが、最近私の生徒たちには文章をバリバリ書く者が多い。
しかも彼らは、作文や日常エッセイの域を超えて、短編小説、長編小説、SF小説と書くようになっている。
彼らは書かねばならぬから書くのではない。書くことが楽しいから、書くことの楽しさを覚えたからこそ書いている。
言語で自在に自分のイメージや考察を記述する。
それほどアタマに良いことはない。
書けば、「進歩」