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一握の砂とHIPHOPについて

 石川啄木が現代に生きていたら絶対に良いラッパーになったのに、なぜ彼の生まれた時代は明治だったのだろうとたまに本気で思う。
 私は音源のHIPHOP、とりわけネットラップや最近では少しずつ注目されてきてもいるチル系の楽曲を心の支えにしてきた。しかし、あるとき青空文庫で読んだ『一握の砂』に衝撃を受けた。これはHIPHOPなのではないかと。

 一応注意書きをしておくと、私は文学徒ではないうえにHIPHOPについても音源ラップが好きなだけの一般人だ。そのため、この文で何かを提唱するというわけではなくただの感想として書いていく。近代短歌だからと言って一般人がフランクな感想を書くのも憚られるような状況では一向に高尚でとっつきにくいイメージを覆すことはできないとも思う。読書感想文や音楽レビューのタグをつけるには少々不適当かもしれないが……。また、HIPHOPというとグラフィックやダンスも含まれるが、ここではラップの特にリリックについて取り上げる。以下人名敬称略。

1.諦念と日々

 近代文学、しかも一般的にあまり馴染みのない短歌に堅いイメージを持つ方も多いだろう。さらに、この『一握の砂』のなかには小中学校などの国語の教科書で取り扱われるような歌もある。

不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心

 上の歌は目にしたことがあるという方も多いのではないだろうか。教科書ではこの歌が扱われていることが多い。故郷と若い心を歌った瑞々しい秀歌である。だが、爽やかな歌であるがゆえに読み飛ばしていた方もいるだろうと思う。私もそのひとりだった。そんな方こそ、ぜひ『一握の砂』の全編を読んでいただきたいのだ。実は、この歌集でこんなに爽やかな歌は少数だ。ほかの大部分はもっとアングラで等身大の啄木の姿が見て取れる。参考にいくつか紹介したい。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ

※伊藤=伊藤博文

さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと

 めちゃくちゃ良くないか? 諦念を抱きながらも完全に諦めきれるわけでもなくただ流れていく日々の様子が感じられる。きっとこんな歌は教科書に載せられない。

2.我を愛する・俺は俺

 彼の最高なのは、いくつか章立てされた中のいちばん最初の章の名前が「我を愛する歌」であることだ。先に挙げた歌からもわかるように、啄木は周りの人々に対してそれなりのコンプレックスは持っていたようだ(彼は貧しく、病気持ちだった)。しかし、確かに「我を愛」していた。このことから、私は彼が「俺は俺」の精神を持っていたのだと思った。
「俺は俺」という概念がどのような流れでHIPHOP界に浸透したのか私は詳しく知らないのだが(無知ですみません、わかる方がいらっしゃれば教えてくださると幸いです)、基本的にはK DUB SHINEの楽曲「オレはオレ」が発端だと思われる。

俺は俺以外の誰でもなく いいライム妨害されても書く
自分が自分であることを誇るそういうやつが最後に残る

 周りの評価に関わらず自分の芯を貫き、自己を愛すという姿勢はここから多くのラッパーに継がれている。啄木の歌は彼らよりよっぽど前に作られていたものだが、そのような姿勢を持っていると感じた。ちなみに、「オレはオレ」の中に

自分にとってなんでもないやつにさえしなくてはならない あいさつで
自分に葛藤 どっからどこ基準に活動してれば 避けれるのか
白己嫌悪 そのうえ誰もがレコメンド と認めるのは無理

というリリックがあるが、啄木の歌の中にも

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

というものがある。キレッキレだ。有名な歌だが本当に“良い”ので紹介した。

3.ストリートからの言葉

 HIPHOPはポップスに対して、「埒外の人々による音楽」という側面があるように感じる。今でこそ社会的階層に関わらずHIPHOPの文化が浸透してきたものの、元々はアンダーグラウンドなストリートカルチャーであった。
 啄木が貧しく病気持ちであったことは先に書いたが、現在の高校に相当する学校を欠席過多やカンニングにより中退していたり、私生活でも大量の借金を抱えていたりした。Wikipediaに借金額が書かれている人なんて彼くらいじゃないか?

合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる。この金額の内、返済された金額がどれくらいあるかは定かではない(2000年頃の物価換算では1400万円ほど)。

 話が逸れてしまったが、当時の文学者の多くは実家が太く、高学歴であった。その中で彼らと異なる目線から等身大の歌を詠んだ啄木の姿はストリートのラッパーたちに重なる。

4.日記的文学

 また、この歌集を読んでいくと気づくことがある。それは、比喩などを用いて感じたことを昇華させた歌に交じって事実をそのまま書いた日記のような歌が出てくるということだ。さらに、地元の話をしている章ではつい「それ誰だよ」と思ってしまうような知らん人の名前が色々出てくる。

我と共に
栗毛の仔馬走らせし
母の無き子の盗癖かな
うすのろの兄と
不具の父もてる三太はかなし
夜も書読む

 という具合だ。2首目は「三太」が人名である。私はこれらの部分もHIPHOP的だと感じた。何気ない日常や過去に自分のルーツとなった仲間たちとの経験を語ることはラップにおいてもよくあるだろう。HIPHOPヘッズ以外にも広く認知されており、日本語ラップで一番有名と言っても過言ではない「Grateful Days / Dragon Ash featuring Aco, Zeebra」のZeebraのバースにもその要素は見受けられる。

俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴は大体友達
悪そうな奴と大体同じ 裏の道歩き見てきたこの街

 このバースにおいて「東京生まれHIP HOP育ち」という部分は多少比喩的ではあるものの、基本的には過去の日常をそのまま描写することで今(当時ではあるが)のZeebraの姿と重ねて味わいを増すようになっていると感じる。啄木の歌がHIPHOPのリリックのように感じる所以はここにもあるだろう。

5.構造的な共通点

 元も子もない話をしてしまうと、ラップと詩歌には通じるところが多くあると思う。ぼくのりりっくのぼうよみによる対談サイト「Noah's Ark」から歌人の穂村弘との対談を引用する。ちなみに穂村弘は石川啄木の作という体で歌集を出したこともある。

ぼくりり:型を決めてからやるんですね。そう思うと、穂村さんがやられている短歌という表現の世界も音数がきまっていますし、ぼくがやっているラップも、聴くうえでの快感をもたらすために韻を踏みます。それはある種の制約ですよね。

穂村:ええ。定型も韻も、一種の「外部」ですね。本当はここで8音使いたいけれど、5・7・5で8音は使えないから、嫌でも7を使わないとけない。それは「外部」、イコール「神の声」なんです。定型の約束なんて破ってもいいんだけど、敢えて破らないことで神様からインスピレーションをもらえる。自分の内側には存在しなかったはずの次元が開かれることがある。韻もそうですよね?

 このように、制約に従って心地良い文章をつくるという点でラップと詩歌は同様だ。そもそも西洋の詩は韻を踏むものである。そのため、最初にも書いたが詩歌にある高尚でとっつきにくいイメージを取っ払って一度フランクに読んでみてほしいと思う。小説ではないので全部を読む必要は無いし、パラパラ捲った先に好きな歌を見つけてもらえればいいと思う。最初に貼ったリンクから無料で読めます。
 日本語ラップの第一人者であるいとうせいこうはSKY-HIとの対談で「(HIPHOPで)575のように休符を取ってしまうと民謡のようになってしまうが最近はTrapの流行によってそれが許されるようになってきている」というような話をしていた。私もHIPHOP文化と詩歌が融合していくのを楽しみにしていきたいと思う。

6.おまけ

 最後に、私が啄木の歌と同じような空気感を感じたラップの曲を貼っておきたいと思う。異論は受け付けます。

・これだけで十分なのに/TOCCHI

まぁ要は空腹を満たすだけなのに
有り余るほどの豪華な食事や遊びはいらない いらない
でも愛する人が欲しいものがあるなら
それを与えれる人にはなりたいかな
朝が来る事にも 感謝したいんだ

・Re:カールマイヤー/電波少女

何年気付かないふりしてもがく 特に才能あるわけもなく
報われない現実をシーンの せいにして布団に入る
singing my crews singing my girl
何でもすぐ結びつけ歌うのは 自分の意思だ

・YOKAZE/変態紳士クラブ

そうないよなうまくいくばっかりの人生なんて
なんの面白味もないよな気がしてる
残りのLifeは短いって言い聞かしてる
やけに綺麗な夜景に嫌気キラキラしてる

 やりきれない諦めと日常のひっそりとした輝きを感じられる曲を選んでみた。この記事がHIPHOPと文学の橋渡しになれたら嬉しい。
 まとまらない記事でしたがお読みいただきありがとうございました。

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