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アカデミー賞ノミネート作品ガイド「かぐや姫の物語」演技分析

Cartoonbrew エド・フックスさんによるアカデミー賞ノミネート作品の分析シリーズ、日本が誇るスタジオ・ジブリ作品「かぐや姫の物語」からご紹介します。

翻訳の正確さは原文(下記リンク)を参照してください。また翻訳では日本語バージョンにおけるキャラクターの名称やDVDのタイミングが正確に対応しない場合があります。ご容赦ください。また、分析という文章の性質上、映画の内容に触れる箇所が存在しますので映画をご覧になってから読まれることをお勧めします。

はじめに

2015年のアカデミー賞の「最優秀長編アニメーション部門」にノミネートされた作品は、アルファベット順で「ベイマックス」「ヒックとドラゴン2」「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」「ボックストロール」そして「かぐや姫の物語」です。興味深いことに、どれも違ったテイストの作品であり、ハイレベルな職人芸が観られるセレクションです。今から2週間ほどの間、それぞれの映画について演技分析をしていきます(訳注: 原文まま)。まず今日は高畑勲監督による手描きのアニメーション映画「かぐや姫の物語」です。(訳注:以下「かぐや姫」と表記します。)

私は演技指導の先生であって映画の批評家ではありません。この連載はアニメーション業界に関わるプロフェッショナルを対象としておりまして、一般のお客さんではありません。目標としては、商業的な成果でなくアートとしての長編アニメーションの評価を助けるものであります。どんなに興行収入が良かったとしても私の分析には影響しません。映画が芸術としてどのように機能しているか、感情的に満足できるものであるか、論理的に表現されているか、躍動的に構築されているか、といった点です。可能な限り演技の原理を示した画像を入れることで、コメントや観察結果を必要に応じて際立たせるようにしています。

演技における「間」の重要性

宮崎駿さんは以前のインタビューで「あなたのアニメーションと西洋のアニメーションのスタイルはどのように違いますか」を訊かれました。彼は少し考えた上でリズミカルに手拍子をとりながら答えていました。

「手を叩く時、音が聞こえますね。でも叩いている間は音が聞こえません。日本語では、この音が聞こえる間にを指す言葉があります。『間』ですね。」宮崎さんは今度はゆっくり叩きながら続けました。「西洋のアニメータは『間』を恐れています。彼らは手を叩く音を続けなければ観客は飽きてしまうと思うのです。そうではないと私は思います。『間』の間に考え、感情と目的を入れることができれば、観客はついてくるでしょう。」

スタジオ・ジブリの「かぐや姫の物語」は日本の10世紀頃から伝わる古典を元にした作品です。いっぱい「間」がありまして、物語それ自体も不完全ながら、魔法のヒントが隠されています。何回観ても、なぜかぐや姫がある朝親指ぐらいの大きさで切ったばかりの竹から生まれたのかという疑問は解決されません。なぜなら監督の高畑さんは、その点をあからさまに説明しないからです。キャラクターは突然そこに出現します。竹取の翁はランダムに竹を切って、彼女がそこにいました、小さな宝石のようなキャラクターです。ただそれだけです。観客である我々はそのようなことが起こるなんて信じられないなどと言うのは簡単ですが、そう考えるのは止めておきましょう。

「信じられない」を禁句にするという行動は、ハリウッドの大作アニメーション映画では軽んじられていますが、重要な原理の一つです。視聴者は、信じるふりをするという規則をあらかじめ守るという前提であれば、物語の語り部が行くところへどこへでも行きます。ディズニーの「ピノキオ」を例に取ってみると、映画の始まりはカッコイイ服装をしたキリギリスが話し、歌い、本を読ます。もちろん私達はコオロギがそんなことを現実世界ではしないということをよく知っています。でも語り部は、そんなことが起こるような場所にこれから行くことを教えてくれているのです。私達はそれに従って、疑うことを止めて、その数分後に木で作られたあやつり人形に命が宿ることになりますが、その現実性について疑問を挟むことはしません。なぜなら、コオロギのジミニーによってそれがあらかじめ信じるに値する現象であることが示されているからです。

「かぐや姫」は明らかにお伽話です。竹の切り株から人間が生まれるなどということはありません。何にせよ語り手の方から、お話のためにこのようなことが可能だということにして欲しいと言っているわけです。私達もその方が楽しいのでそうします。オスカー候補のもうひとつの映画「ヒックとドラゴン2」は、この「疑いを抱かない」という点においてさらに複雑です。海賊たちが暮らしていた時代にはペットのドラゴンなるものが存在したという事実の一方で、ストイックがヒックの小さなヘルメットを広大で地図もない氷の大洋の真ん中で発見する場面では、私達は驚きのあまり目を回します。なんて素敵でよくできた偶然なんだろうか!と。あのヘルメットの発見には魔法や芸術的なものはなく、ただ脚本上の都合です。

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「役者は自然を映す鏡を持っているのだ。」

子供向けである「かぐや姫」のような物語を楽しむには、良きにつけ悪しきにつけ、あなたもある程度成長していなければなりません。私自身はそれを楽しむことができました。この物語は人生において選ぶべきではない道についてではなく、今この瞬間を生きるための知恵についての物語です。題名こと「かぐや姫の物語」ではありますが、実際には竹取の翁な物語なのです。かぐや姫が現れるのは突然の出来事であり、竹取の翁を人生における大きな困難へと立ち向かわせるためのものなのです。

この映画には鑑賞から何日経ってからも頭の中に残る映像や瞬間があります。竹取の翁が養子の娘と別れなければならないことを悟った時、彼は膝をついてくずれ、赤い顔をして涙を流します。(鑑賞したDVDでは1時間50分14秒あたりからです。)後悔しているように見えて、私にとっても泣ける瞬間です。今でも思い出しただけで泣きそうです。

これこそがシェイクスピアーが「ハムレット」の中でアドバイスとして語っていたことなので。「役者は自然を映す鏡を持っているのだ。」高畑さんは偉大のアーティストであります。これは1枚の画像から明らかです。並みのアーティストなら竹取の翁の悲しみを涙で表現するかもしれませんが、高畑さんは動作にまでそれを拡張しているのです。私がアニメータに対する演技のクラスで説明しているように、感情はアクションへとつながることがよくあります。アクションの度合いこそアーティストの表現なのです。涙だけでも、悲しさと切なさを表現することはできますが、彼が膝から崩れてすすり泣くことでずっと強いものになります。高畑さんはこの衝動をさらに推し進めることもできたでしょうが、そうはしませんでした。彼は、彼の世界を持ったアーティストであり、この瞬間をしっかりとコントロールしています。

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「感情がアクションを促す」

11分51秒から13分37秒まで。)このシーケンスでは近所の子どもたちが、非常に速く成長する若い女の子をからかっています。彼女は少し恥ずかしい思いをしますが、本当に侮蔑が大きくなるのは、翁が彼女を守ろうとする時です。「かぐや、かぐや、かぐや」と子どもたちは囃し立てます。でも竹取の翁は彼女を守り、彼女はお姫様なんだということを示すのです。繰り返しますが、「感情がアクションを促す」という演技の原理です。かぐや姫が興奮して翁の抱擁に飛び込んで行く時、聴衆である我々はそのアクションを見てから、共感を持って、そのアクションが起こる原因になった感情を見つけるのです。これが演技の中で共感を得る方法です。私達はキャラクターが何をしているかを見てから、その動機を探すのです。それは一瞬のうちに起こりますが、ちょっと再生速度を落として、あなた自身の心が良い演技にどのように反応したかを研究することで、理解できるようになります。

15分15秒から16分28秒まで。)彼女は子豚の群れと遊ぶために、森の中へ立ち寄ります。お母さん豚が侵入者に大して攻撃しようとすると、捨丸と呼ばれる少年がかぐや姫を救うために飛んできます。そこで一生切れない縁ができるのです。理想的な状況では、結婚、子供、そして一生寄り添うということにつながります。無垢でいながらも特別な瞬間だということが印象として残ります。特に注意したいのは、感情がシーケンス全体をどのようにドライブしているか、ということです。捨丸が慌てて急いでいることに注意しましょう。それは感情的な要素であり、理由付けではないのです。

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すべての女性が共感を持つことのできる切ない瞬間

21分46秒から24分35秒まで。)かぐや姫は自分では気づかないうちに痩せていき、彼女の友達と水浴びをします。注目すべきは、聴衆であるあなたたちが、彼女が裸になってからかぐや姫の感情をどのように待っているかということです。彼女は恥ずかしい思いをしているのでしょうか。いいえ。彼女の年頃少女の多くはこういう場合には慎み深いものです。この彼女の性格は特別だということがわかります。彼女が完全に裸になっているということも重要です。高畑さんはわざと彼女の裸が全て見えないようにすることもできたでしょうが、彼女が完全に裸になってみんなに見えるようにするのは彼の芸術上の選択なのです。その日の後の方で、彼女と捨丸が地元のメロン畑から熟れたメロンを盗みます。彼らは獣道に隠れてメロンを刻んだ上で笑いながらメロンをほおばります。幼い頃の極上の経験を楽しむのです。

31分15秒から32分10秒まで。)警告もなしに、彼女の両親はかぐや姫を友達と気ままな暮らしから離れて一緒に街へ出るように促します。がっかりして混乱する中、彼女は両親に言われるままに従います。演技について注目すべき点があります。感情が推移するところを観察しましょう。彼女が友達をあきらめなければならないと理解した時、彼女は悲しかったのです。彼女は悲しみに包まれ、そのこと自体がアクションです。一瞬にして彼女の生活は変化し、映画の中で最初の大きな場面転換が行われます。注目したいのは、彼が自分の信じている道を選択する竹取の翁の態度は、上流階級の人に見られる振る舞いだということです。彼はこの人生の転換期において、大事な決断をして、彼の妻と娘についてくるように言うのです。

40分39秒から43分08秒まで。)かぐや姫は彼女の初めての生理を迎えます。彼女にとって悲しい瞬間です。でも竹取の翁にとっては、大きな喜びと祝福を迎える場面です。なぜなら彼はこれで娘のために裕福で願わくば高貴な夫を探すことができるからです。このアニメーションにおける演技はよくできています。彼女は生理を迎えることで複雑な気持ちになります。彼女は女性になったことを理解します。過去は過ぎていき、幼少期は彼女の中からなくなっていきます。そのことから、彼女は昔の友達をパーティに呼ぼうとします。彼女は自分の幼少期にすがりつこうとするのです。すべての女性が共感を持つことのできる切ない瞬間です。彼女のお父さんが「馬鹿なことを考えるんじゃない。田舎に住む人たちとは違うんだ!」と、彼女の希望を拒否した時、彼女は自分の人生の中の扉が無情にも閉じられたことを理解します。

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良い「演技」には必ずしも多くの「動き」は必要ではない

48分44秒から)このシーケンスには、形式的に物語の中で「姫」となったかぐや姫(「輝かしい光」)は生きてはいるけれども文字通りの「人形」となったようです。彼らは彼女の眉毛を取り除き、葉を磨いて(「洗練された女性は口を開けて笑ったりはしません」)彼女に和風の羽織ものを着せます。彼女の人生が彼女のものではなくなっていく様を私達は見ていきます。演技上の注目点:生きている人形のように見せるところは演技上の選択の一つです。彼女は眉毛を抜かれたことを気に入ってはいませんが、人形として生きることについてこれ以上争う気はありません。観客であるあなたが、彼女が順応し、物理的に静止しているのを見るのは演技上の選択なのです。良い演技は必ずしも多くの動きを必要としないのです。あなたの人生に起こった出来事をいくつか思い出してみると、ほとんどの場合、それは物理的に静止した状態で起きているのではないでしょうか。

5人の高貴な生まれの男たちがかぐや姫と結婚してもらおうとしますが、彼女はそれをすべて拒否します。天皇である「ミカド」自身が、この素晴らしく美しい女性のことを聞いて、結婚を願うも失敗に終わります。映画は時々長過ぎるように感じられますが、その理由はここにあります。10世紀に生まれた挑戦者の一人が失敗に終わると、観客は彼らすべてを見たことになります。高畑勲さんは元の物語を損なわない最大限の敬意を払っています。でもこの場合、身分の高い婚約者二人とミカドだけで十分に思います。

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感情はアクションによって呼び起こされる

1時間47分10秒)かぐや姫は彼女の両親に、月に帰るためにまもなく彼らの元を去ることを告げます。竹取の翁は、出て行くのは罪なことだと彼女を諭し彼女を思いとどまらせようとしますが、彼女はそれに構うことはしません。彼は涙を流しながら「私達のしたことはすべて娘を幸せにするためだったんだ」と言います。「あなたが望むような幸せを私は得ることはできないのです」と彼女は答え、彼女を救うために月に祈り続けていたことを説明します。ここで再び演技の注意点ですが、感情はアクションによって呼び起こされるものです。そこで、最後にもう一度、かぐや姫は捨丸に逢おうとします。彼は結婚して一児の父となっています。彼を探しだして彼の側に居ようとするのは力強い演技上の選択です。彼女の思った通りに行動して、彼女が見つけ出した方法で地球を去る展開にするのは容易いことです。しかし私達すべては何かをやり遂げたいという衝動を持っています。一つのことを終わらせる時に、最後の時間を有意義なものにしたいと思うのは私たちに本質的に備わっているものなのです。

2時間0分21秒)最後の幻想的なシーケンスでは、かぐやと捨丸は飛んでいきます。彼女が月の軌道まで到達する前に最後に一緒になった時の絵は、洋服を着ていても明らかに親しい恋人同士の抱擁を表現していて、存在しなかった結婚式後の初夜のようです。DVDで鑑賞している場合そこで一時停止することをお勧めします。彼らが抱擁しているところを止めてみましょう。率直に言ってどのように感じましたか?

おわりに

ここで上げたのは、私が感心した「かぐや姫の物語」のシーケンスのごく一部です。この映画は思わず見とれてしまう実に美しい芸術作品であり、説明するのが困難な作品です。ぜひ皆さんに見ていただきたいと思います。高畑勲さんはアニメーションの師匠であります。(「かぐや姫」の翻訳終わり)

※同時期にアカデミー賞にノミネートされた映画「ベイマックス」の分析もご覧ください。

追記: 本記事でも述べられている通り、西洋の文化を持つアニメーション作家にも多大なる影響を及ぼしている「かぐや姫の物語」ですが、監督された高畑勲さんは2018年に惜しくも亡くなられました。ここで謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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