Dr Scott Ross: どうやって映画産業で1億円を稼ぐか? 第3部 100億円から始めよう! (翻訳その6)
This is a Japanese translation of Dr. Scott Ross's blog. Please check out the original article to verify the translation. (この記事はスコット・ロス氏の2012年に書かれたブログの翻訳です。翻訳の正確さは保証致しかねますが、日本人にとっても興味深い内容で非常に面白い読み物だと思います。)
(その5から続く) 150億かかる超大作、歴史に残るようなラブストーリー映画を製作する唯一の手段は、数少ない候補となる監督や俳優たちの中から一人をこちら側につけることである。でも実際には、彼らは映画を製作しない決定をした。スタジオは利益をもたらしてくれる人達を怒らせてしまわないように、注意深く映画を製作するべきかどうか考える必要がある。そのことを最初に目撃したのは、トム・クルーズとキャメロン・ディアスが1997年のスペイン映画"ABRE LOS OJOS (OPEN YOUR EYES)"をリメイクしようとした時だ。その映画は「バニラ・スカイ」として知られることとなった。
その当時、映画が製作されようとする過程で以下のような監督の名前が上がった。ジェームス・キャメロン、ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ、クリント・イーストウッド、リドリー・スコット、ローランド・エメリッヒ、デビッド・フィンチャー、ロバート・ゼメキス、ピーター・ジャクソン。しかし今回は自分の映画だから、少なくとも自分のやるべき仕事だった。そのほとんど、さらにはそれ以上の監督とも私は話をした。
何人かの監督はその映画に向いているとは思わなかった。(VFXオタクのオレがどうして彼らの尊大で偉そうな態度を目の当たりにしなければならないのか。) だから追い求めることはしなかった。ジョージ・ルーカスと私との関係は、ルーカスフィルムで起きたすべてのことを考えると、とても良好だったとは言えなかったから、彼に話すことはなかった。デビッド・フィンチャーが素晴らしい監督であることは認めるし、20年来のつきあいがあったので個人的に彼に脚本を渡して読んでもらった。彼が好意的だったかどうかは分らない。(大抵の場合そうではなかったから。)でも彼は脚本を気に入ってくれて、でも「こりゃとんでもなく金がかかるな」と言っていた。そしてジェームス・キャメロン。その当時、ジムと私はまだ仕事上のパートナーだった。お互いに合意できなかったことは数多くあったけど、Chaya Veniceでランチをしている時、彼に一度プロジェクトの話をしたことがあった。彼は、「タイタニック」の成功の後で、もっと小さなアート映画を製作していると話していた。その映画は精神分裂症の話だった。私はもちろん、ジェームスなりの広島の原爆の映画がどのようなものになるか興味があった。力強いヒロイン、後悔するばかりで気乗りのしないヒーロー、世界平和という映画のメッセージ、恐ろしいほどの視覚効果。完璧じゃないか?
キャメロンは反対はしなかった。彼なら素晴らしい「千羽鶴」をつくってくれたかもしれない。残念ながら、ジェームスと私は仲違いしてしまったのだ。私は自分が正しいと思うことを主張し続けたが、ジェームスは私と同じようには感じなかった。もし時間を巻き戻すことができるなら、もっと違うようにできただろう。
ランチから2、3年後、ジェームス・キャメロンが広島の原子爆弾についての映画をつくるために何人かの脚本家を雇ったことを知った。被爆者の生き残りが合衆国に復讐をするため原子力に手をつけようとするというような話だった。さらに、後ほどジェームス・キャメロンが「The Last Train From Hiroshima」という本を映画化する権利を手に入れたというニュースもあった。本を書いたのはジェームスとは何回も共同作業をしている。Charles Pelligrinoであった。最近になって出版社は本の販売を止めてしまった。理由は本で描かれている記述が真実ではない疑いがあったからである。
そこで私にはある考えが浮かんだ。自分の好みで誰に「千羽鶴」を監督して欲しいだろうか?
ミロス・フォーマンは、完全に製作にゴーサインがかかる監督かどうかは分らないが、世界的に有名なタレントと仕事をすることで映画の資金集めができるかもしれない。フォーマンは古いタイプ監督だった。同じマネージャ兼エージェントと永遠とも思えるぐらい長い間仕事をしていた。マネージャは年老いた紳士的なニューヨーカーで、彼と話をする時には、分厚いアクセントで話す必要があった。(彼の名前は忘れてしまった。)私たちが話をするたびに彼は「ミロスは興味はあるけど忙しい」と繰り返すだけだった。この会話は毎月恒例のものとなった。私が電話をかけ、彼がそれを電話をとり、そして彼が電話を切る。この業界の人達が「No」とは滅多に言わないことを知るまでに時間がかかった。どのぐらい好きかについては話をするけれども、それが今回の場合は正しい選択ではないということを説明するのみであった。日本人も似たようなところがある。「Yes」を意味するのは「はい」だが、「No」を意味するのも(歯の間に空気を吸いながら言う)「ハイ」である。
どの監督がいいかという話を延々繰り返しているうちに、私はある俳優がもしかしたら映画をつくるかもしれないと思い立った。「千羽鶴」はその多くが日本を舞台にしているので、国際的なスターが関心を寄せるかどうかは疑問である。実際のところ、ほとんどの登場人物は日本人であった。あなたはまだ気づいてないかもしれないが、日本人の人気のある俳優が登場する映画でボックスオフィスで成功したものは多くない。だからこそ「さゆり(MEMOIRS OF A GEISHA)」の主演女優は中国人だったのだ。私の映画のうち、唯一人気のある映画俳優をキャストできそうなのは、ヒーローであるニックだけだった。ニックはロジアの生まれだが合衆国で生まれ育った。ニックは33歳ぐらいの年齢だった。私がこの映画製作の旅を始めた1998年ごろ、そのような役を演じることのできる俳優は少なかった。その役を演じることができてなおかつ映画にゴーサインが出るような俳優はもっと少なかった。つまるところ、それができそうな俳優はたった一人だけだった。
ブラッド・ピットである。(続く)
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