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Dr. Scott Ross: どうやって映画産業で1億円を稼ぐか?(その2)

This is a Japanese translation of Dr. Scott Ross's blog. Please check out the original article to verify the translation. (この記事はスコット・ロス氏の2012年に書かれたブログの翻訳です。翻訳の正確さは保証致しかねますが、日本人にとっても興味深い内容で非常に面白い読み物だと思います。) 

 (その1から続く) まず最初に我々が試みたのがビデオゲームのコンテンツを所有することだった。初の少女向けのゲーム「バービーのファッションデザイナー」を手がけようとした。マテル社はビデオゲームの市場に参入することを決めて、マテル社のデジタルメディア部門のVPであるDoug Glenは、以前ルーカスフィルムのゲーム部門のVPでもあったから、ルーカスフィルム時代の同僚だった。彼は有名なバービーのキャラクターを元にしたゲームを開発しないかとアプローチしてきた。デジタル・ドメイン(DD)のニューメディア部門とSteve Schklairの助けを借りて、バービーのファッションデザイナーはトイザらスで販売されて、大きな反響があった。ヒット作品ではあったものの、DDは会社をVFXの悪循環「雇うために仕事を取ってくる」ビジネスのスタイルを抜け出すに足りるだけの利益を上げることはできなかった。

 だからこそ、映画「タイタニック」やピクサーの「トイストーリー」の途方も無い成功を見て、世界規模でヒットする長編映画をプロデュースすることができると、未熟にも思い込んでいた。これまで人生で成し遂げた様々なことと同じように、自分もそれをやってみようと思った。

 まず最初に必要なのはストーリーだ。タイタニックみたいな、歴史に残る災害や事故。架空のラブストーリーと絡められるような。現実に存在する登場人物も必要だね。ジェームス・キャメロン(訳注: 映画「タイタニック」の監督)に出来たんだ、どうして自分にできないと言えるだろうか。

 20世紀に起きた災害のカタログづくりから始めた。ツェッペリン号、セイントへレナ山の大噴火、サンフランシスコの大地震、そして広島に落とされた原始爆弾。ビジネスマンでもあった私は、デジタル・ドメインとして、取材を行って脚本を書いてそれを開発する資金をどこかから引っ張ってくる必要があることも分っていた。「タイタニック」の後、新しい事業に投資するお金はなかった。実際、私たちは給料を払うのが精一杯だったのだから。

 その当時、私は日本出身の旧友ヒガシハラ・ヨシノブ氏のベンチャービジネスに参加していた。ヒガシハラ氏と私は最初はルーカスで出会った。ヒガシハラ氏は地球上で最も大きな会社の一つだった日本電信電話(NTT)のシニアVPだった。NTTはクリエイティブとは何かを理解するためにルーカス・フィルムに近づいてきたのである。株式会社日本は合衆国を素早く抜き去ろうとしていたし、実際、経済的発展においては80年代に他に例を見ないほど発展を遂げることができたのである。日本人は至るところにいたし、あらゆるものを買収した。日本人は正確で最も効率良く製品を生産することができるようになったにもかかわらず、なぜか彼らは自分たちのことをクリエイティブとは考えてはいなかったようである。そのため、合衆国のクリエイティブなビジネスを行う会社と一緒に事業を行うことにしたらしい。そしてNTTのリストのトップがルーカス・フィルムだったのである。

 私たちはRose Duignanの助けを借り、6人のNTTの重役のためにクリエイティブとは何かを教えるカリキュラムをデザインした。重役たちはボタンを止めたコンサバな日本のサラリーマンたちである。Duignanさんをガイドに彼らは美術館に行き、グレイトフルデッド(訳注: サンフランシスコのロックバッド)のコンサートに行き、大西洋で裸になって泳いだ。NTTはルーカス・フィルムに1億円を支払っていたほどだった。最も年長の重役だったヒガシハラ氏はきっと、彼らにとってかなり大きな取引をしたと思っただろう。彼と私はすっかり仲良くなって、10年以上も続く友情をきづくことができたのだから。

 ルーカスを去ってDDを立ち上げて何年もしてから、すでにNTTを辞めたヒガシハラ氏から電話があった。彼は自分の会社を立ち上げた。大学でクリエイティブとデジタルメディアを教える会社である。おそらく夜遅くにStinson Beachを素っ裸で泳いだことが功を奏したのであろう。

 ヒガシハラ氏は、日本にはまだ当時お金があったから息子たちや娘たちに富をどう生かすか教授する必要があると理解したアントレプレナーだったのである。そして彼らが興味を持つものは何か?コンピュータ、視覚効果(VFX)、漫画、SF、そして映画だった。ヒガシハラ氏はこのベンチャーに投資してくれるファンドを探していて、さらに旧友である、私スコット・ロスはパートナーとしておもしろいんじゃないかと考えたのだ。

 その取引の水面下で、ヒガシハラは他の投資家を探し始めた。2、3ヶ月後、電話が鳴った。福岡にあるツヅキ学園の学校法人に彼はスコット・ロスのデジタル・メディア・スクール構想をピッチしたのである。日本中に数校を建設する野心的なプランであった。

 現役の大臣の父によって設立されたツヅキ大学およびカレッジには歴史があった。彼らのメインキャンパスは福岡にあるダイチ大学であった。ツヅキさんは想像を遥かに越えて寛大な人であった。飛行機のチケットはファーストクラスだったし、世界でも一流の通訳がついて、5つ星ホテルの部屋は花でいっぱい、日本に降り立つ時にはいつでも何百という生徒たちがアメリカの国旗を振ってくれていたものだ。私と通訳は黒いリムジンで素早く一流レストランへと連れていかれた。

 しかし私のツヅキさんとの初対面はいささか奇妙であった。彼の何十人という取り巻き、ヒガシハラ氏、私の通訳、彼本人と私は大学の秘密の地下室に居た。この地下室は2重になっていて、先導に従って並んで入る潜水艦のハッチのようなドアと、それ自体が発電して空気を調節できるシステムを持っていた。制服を来た二人の奇麗な若い女性がお茶を出してくれた。自己紹介が始まった。どうやら彼の「スタッフ」達は元軍人の出身だったようだ。

 ツヅキさんは、日本人たちの方を向いて話すよりはむしろ、大きな声で了解するだけだった。まるでフェリー二の映画のようだった。私たちは詩について、富士山について、侘び寂びについて議論をした。残りの人たちは静かに背筋を伸ばして座っているだけだった。ツヅキさんは「タイタニック」のファンであり、デジタル・ドメインは映画製作に興味はないのか私に尋ねた。

 素早く考えをまとめた私は、これまで調査してきた様々な災害映画のシナリオについて話した。私は「広島に落とされた原子爆弾についての話を映画にしたい」と言った。ツヅキさんの顔は、それまでの険しい表情から一転、静かで深く考え込む表情になった。1分ぐらいたってから、彼は映画の製作にいくらかかるのか尋ねた。

「150億ぐらいでしょうか。」

「そんな大金は持っていない。」とツヅキ氏は荒々しく返答した。「始めるのにかかる資金はいくらだ?」と尋ねた。
「1.7億といったところでしょうか」と私は返した。

 次の日、ヒガシハラ氏と私と通訳は広島へ飛んだ。ツヅキ氏はそこにもスコットロス・デジタル・メディア・カレッジを開校する予定だったのだ。空港で会った大勢の学生たちは旗を振ってくれていた。ツヅキ氏のスタッフが私たちをリムジンへとエスコートしてくれた。その晩もディナー、そして次の日も広島市の市長であるアキバさんとの夕食会があった。彼は私たちを広島平和記念館へと案内してくれた。いつものようにそこでも記者会見があった。リポーターの一人サトダ・アケミさんが近づいて来た。彼女は「タイタニック」を46回も見たと言った。46回だって!?私は何とも魅了された気分だったから、コーヒーを飲みながら話をした。私は原子爆弾についての映画をつくることに興味があることを話した。彼女は私に、生存している被爆者に会ったことがあるかと尋ねた。私がノーと言うと、彼女は次の日にそのうちの一人と会う約束を取り付けてくれた。私が会った中でも最も魅力的な女性の一人となるウネさんだ。(続く)

 ※トップ画像は(その1で触れた)後にデジタルドメインが製作を開始する"The Legend of Tembo"の監督であるAaron Blaise氏となるChuck Williams 氏です。

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