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日暮し

重み


 家庭教師をしていた時に、生後二週間くらいの赤ん坊を抱かせてもらったことがある。全く見ず知らずの他人ではないとはいえ、多少の抵抗はあった。極端な話、落っことしたら、ね、てなわけで。むっちりバディと、何kgもないはずの身体はずっしりと感じた。
 祖父が亡くなった時に、その身体を移動する工程があった。その場にいる男性をお手伝いとして募られたが、自分は動けなかった。小さく、細くなる過程を見ていた自分にとって、その身体の重さ、あるいは軽さを感じたくなかったのだと思う。
 温かさ、重み、香り、色んな形で命的なものを感じることが出来る。自分がこうやって文字に残すことも、その一つなのかもしれないなぁ。
 

必要十分条件


 高校の数学の授業で、これを教わった。覚え方の例えとして、
「君はピッチャーで、相手を抑えなければいけない」
「試合は9回、チームはピンチ」
「今は2アウト満塁、カウントは2ストライク、3ボール」
「君は最低でもストライクゾーンに投げる【必要】があり、その中でもアウトローなど際どいところに投げれば【十分】だ」
 こんな話だったように思う。
 必要の方が広く、十分は意外と小さい。多くのものを必要として、それがいざなくなると、意外と他のものでも十分だったり、そうでなかったり。手放してみるって大切かもよってたまに思う話。腹八合医者いらずってね。
  

 ルーティン


「人間の最大の武器は信頼と習慣だ」
「つれづれなるままに日暮らし 硯にむかひて心にうつりゆくよしなしごとを そこははかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ」
 前者は、ゴールデンスランバー。後者は徒然草。

 以前働いていた会社で、スタッフの方に、ルーティンを聞いたことがある。一日に何度か体重を図ったり、車の中で熱唱するなどがあって、意外と面白いなと感心した。
 自分のそれは、お風呂上がりのストレッチなのかなと思う。中学生の頃からほとんど毎日続けていて、習慣という言葉を通り越すくらいに習慣になっている。これをしないと、体がどこか気持ち悪く、しないと寝つきがわるくなる。かといってストレッチが好きかと言われるとそうでもなく、しないと不快感があるから、というような理由で続けざるをえないのだとも思う。
 それでも徒然草にあるように、全く好きでもないことには、まず向き合いもしないだろう。このノートも何となくでも続けていると、20タイトルを超えていたりするもんだな。

名前

 学生時代、偽善のためにボランティアをしていた。子どものキャンプのボランティアの活動の際に、キャンプネームいわばニックネームを決める慣習がそこではあった。
 自分は、先輩に自分の本名を文字って?、「ぶっくす」という名前を付けてもらった。付けてもらったときは、しっくりこなかったが、活動していくなかで、周りのスタッフさんや子どもたちに呼ばれると、「あれ、なんか良いな」って次第に思えてくる。
 実家でも少し前から、猫ちゃんを飼い始めた。名付ける、そして名前を呼ぶことで、なんだか愛らしく思えてくるのは不思議。そして、最初に名付けた名前はあまり呼ばれなくなるという。。

 「ぶっくす」という名前はこれからおそらく使われることはないと思うけれど、またもしあの時のメンバーで集まれるようなことがあれば、復活するのかな、なんて。先輩元気かな、キャンプしてぇな。
 ほんで、その時小学生や中学生だった子どもたちは、もう社会人とかになっちゃうの。時早すぎ。

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