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漫画の歴史と『正チャンの冒険』 ビフォアー・正チャン編 (前編)

執筆:新美琢真


小星(織田信恒)と東風人(樺島勝一)による『正チャンの冒険』は、1923(大正12)年より連載が始まり、当時一大ブームを巻き起こした漫画です。その登場は漫画の歴史から見ても、一つの画期とも言える重要な出来事となりました。
実際どんな変化が起き、何が重要だったのか?明治期からの日本近代漫画の歴史を踏まえながら、正チャンの登場以前と、登場以後ではどのように漫画界や表現が変化していったのかをご紹介します。
現在「漫画」と言うと多くの人が、コマ割や吹き出し、漫符(※動きを表現するスピード線などの漫画に用いられる記号)用いて、何百ページにもわたる物語を表現する、いわゆる「物語漫画」を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし、「漫画」という言葉が指し示すものには諷刺画や、一コマのカートゥーン、アニメーションなど、かなり幅広い表現が含まれています。これは漫画を描いた人たちが時代ごとに様々な表現を開拓したことで、言葉の意味が拡張されていった結果なのです。
ビフォアー編では、時代ごとに拡張して行ったジャンルや表現から、正チャン登場以前の漫画というものの変化の流れを見て行きましょう。
 

近代の漫画のはじまり


現在につながる漫画表現は幕末から明治にかけて、日本にもたらされた西洋の漫画表現と、江戸からの日本の絵画表現が融合して出来上がったものです。西洋では幕末の頃(1850-60年代)には、フランスの『Le Charivari』、英国の『Punch』、ドイツの『Fliegende Blätter』など、様々な諷刺漫画雑誌が登場していました。そうした雑誌の一部が幕末から明治初頭に日本に入ってきたり、また、チャールズ・ワーグマンのように来日して、自ら『Japan Punch』(1862年創刊)という漫画雑誌(雑誌や新聞といった逐次刊行物も西洋から取り入れられた文化です)を刊行するといった事が起こり、一部の日本人にその存在が知られるようになります。

【図1】『JAPAN PUNCH』(創刊号、1862年、川崎市市民ミュージアム蔵)


西洋の写実を基本としながらもディフォルメを効かせた諷刺画表現は、当時の日本人に大きな衝撃を与え、明治7(1874)年には日本人が作った最初の漫画雑誌『絵新聞 日本地(えしんぶん にっぽんち)』が登場します。これは3号ほどで途絶えてしまいますが、明治10(1877)年には『団団珍聞(まるまるちんぶん)』が創刊。亜鉛凸版を用いた新奇な紙面と、自由民権運動の流れに乗った洒脱な政治諷刺漫画で人気を獲得し、大きな成功を収めました。

【図2】『於東京絵 団団珍聞』


『団団珍聞』の諷刺漫画は、西洋的な陰影の効いた西洋的なハッチング表現で描かれていましたが、その内容は絵の近くにある文章で説明され、言葉遊びが多用されるなど、江戸期からの諷刺浮世絵を踏襲したものでした。こうした諷刺画を現代の我々が読み解くのはかなり難儀ですが、『団団珍聞』の部数は最高で5000部程度とされ、当時でも教養ある限られた人が読むものだったと考えれます。

【図3】『団団珍聞』の諷刺画、下の文章によって内容が理解できるようになっている(1878)


コマ割り漫画の浸透


明治20年代になると自由民権運動が下火となり、政治諷刺画は勢いを失って行きます。『団団珍聞』では政治諷刺漫画に代わる新しい表現として、コマ割り漫画が数多く登場するようになります。3~4コマのコマ割りで滑稽な失敗などを描いたもので、こうしたコマ割り漫画も、同時代の海外の諷刺雑誌に掲載されていたものに影響を受けて取り入れられたと考えられます。

【図4】小林清親「無題」(『団団珍聞』、1892)


時を同じくして、新聞でも漫画が掲載されるようになっていきます。福沢諭吉が創刊した『時事新報』では、文字ばかりだった紙面へ彩りを与えるため、甥の今泉一瓢に漫画を描かせます。一瓢はアメリカに留学したこともある人物で、海外の漫画事情に詳しく、自分の漫画と共に海外の諷刺画やコマ割り漫画もしばしば転載していました。
しかし、一瓢は病弱だったため、後任として北沢楽天が入社。楽天は漫画家としての画力だけでなく、企画力にも優れ毎日曜日に一面を使った「時事漫画」欄を創設し、それまで新聞にはたまにしか載っていなかった漫画を常設の人気コンテンツへと育て上げていきます。また、楽天は相撲の決まり手のスケッチなどでも人気を獲得し、写真の掲載が難しかった新聞紙面において、漫画を速報性と娯楽性を備えた有力な表現として活用させる道を開きました。『時事新報』に触発され、他の新聞でも漫画を描ける人材を雇い入れるようになり、「漫画家」という専門の職業が誕生します。

【図5】北澤楽天夫妻(『週刊アサヒグラフ』、1926)
【図6】『時事漫画欄』新聞の1面サイズで掲載されていた(『時事新報』、1902)

誰にでも楽しめるコマ割り漫画は、『小国民』(学齢館)や『日本之少年』(博文館)といった子供向け雑誌にも掲載されるようになります。その人気は高く、すでに明治20年代には読者の漫画投稿なども見られるほどです。

【図7】子供向け雑誌のコマ割り漫画、当時は本文の埋め草的に1コマずつ掲載されていた


こうした子供のコマ割り漫画への人気に目をつけたのが、日清戦争(明治27-28年)後に浮世絵が下火となっていた浮世絵の版元でした。彼らは元々子供も向けの浮世絵である、おもちゃ絵や絵本を作っていましたが、そうした商品の一つとして、コマ割り漫画を収録した単行本「明治ポンチ本」を数多く制作するようになります。こうした版元の一部は、やがて正チャンの偽物を大量に作る、赤本絵本や赤本漫画の版元へと繋がっていくのです。

【図8】明治ポンチ本
【図9】明治ポンチ本の中身


なお、「正チャンの冒険」を日本で最初にコマ割りと吹き出しを使った漫画と紹介する資料もありますが、コマ割りも吹き出しも北澤楽天が明治期に普通に使っており、これは正しくありません。

―――つづく(次回4月13日更新予定)

新美琢真
マンガ研究者、川崎市市民ミュージアム学芸員。フリーランスのイラストレーター・デザイナーの傍ら在野のマンガ研究者として展覧会企画・イベントなどを手掛ける。2018年より現職。主な展覧会企画に「国産アニメーション誕生100周年記念展示 にっぽんアニメーションことはじめ~動く漫画のパイオニアたち~」(2017年)、「のらくろであります!田河水泡と子供マンガの遊園地<ワンダーランド>」(2019年)などがある。