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「ヤングケアラーの現実➖第2話「公的支援の不在とヤングケアラーとその家族の孤独な戦い」ー小さな手で握るおにぎりの物語」
第1話からの続きです。
全て経験したことを書いています。
離婚に伴い子どもがヤングケアラーにならざるを得なかった話しです。
15年以上も前の話しですが、どこに、助けを求めていたのか、当時のことを書いています。
私たち親子と同じように苦しんでいる方、支援する方々の参考になれば幸いです。
ヤングケアラーという言葉がなかった頃、離婚調停が始まるころ、長女が、5歳年下の妹の世話をするようになりました。
小学4年生の長女は、次女の幼稚園の先生達から「小さなママ」と呼ばれるように。
それでも、私の前では、二人の子どもたちは、にこにこと太陽みたいに笑っている。
子どもたちの笑顔に救われていました。
あの時、子どもたちが泣いていたら、私は乗り越えられませんでした。
けれど、そんな子どもたちの笑顔は、私の目の前だけではないのか。
そんな気がしていました。
食事は、小さなテーブルにホットプレートを置いて、3人で焼きそばやチャーハン、鍋にして食べました。
3人で寄り添って小さなテーブルを囲むその時間は、幸せでした。
3人の新しい生活。
何がなんでも、子どもたちを守り抜いて、子どもたちの望む人生を叶え、幸せになって欲しい。
私の体調は最悪でした。
生活にまず必要な、安心と安全が最優先です。
この生活がこのまま続けば、私も子どもも壊れてしまう。
このままでは、私たちの生活が破綻してしまう。
既に壊れかけていた。
安心と安心な生活を作るために、公的な社会資源を求めました。
実際に支援を求めたフォーマル(公的)な社会資源は以下のとおり。
警察、法務局、法テラス、児童相談所、民生委員、女性センター、弁護士、小学校、家庭裁判所、スクールソーシャルワーカー、医師等
こちらは、以前投稿したものです。よろしければご覧ください。
公的社会資源を求めて生活支援で対応可能となったもの
・生活保護
・就労支援
この二つ。
ただ、経済的に困窮している、仕事をしていないことが条件。
仕事をしていたので、経済的にもまた、就労支援も私にとっては、使えない社会資源でした。
ただ、仕事を辞めて生活が困窮すれば、公的な社会資源で、私たち親子は支援を受けることができる。
◆私は何を希望していたか?
◇安全な場所で安心して当たり前の生活をすること。
◇子どもたちの幸せ
◇あたたかい家庭
これらは元々あったもの。
子どもたちの当たり前を取り戻したい。
政策は、「自助、共助、公助」
自助、共助もなく、子どもたちが私に代わって家事や子どもが妹の世話をしています。
そして、公助はこの二つでセーフティーネットのみでした。
本来なら、そうならないための、地域の一人ひとりの暮らしが続くことが何より重要なのです。
その時の公的な社会資源は、
セーフティーネット、最低限の保障のみでした。
そのまま、諦めるわけにもいかず、安心と安全を最優先にフォーマルな社会資源の門は叩き続けました。
児童相談所、法テラス、実家の社会資源は、こちらに書いています。
その他実際のフォーマルな社会資源がどうだったのか、いくつか紹介します。
⚫️警察
当時話を聞いてくれた警察官の話。
「証拠がない。民事でやってください。刑事罰には該当しない。どうしても心配なら警察署の近くに引っ越してきてください。」
この後何年もしてから、再度必要があり、警察署に相談に行きました。
その警察官からは、
「調べる方法があり、処罰の対象となります。
ただ、子ども達に当時のことを詳しく聞かなくてはならない。その傷は計りしれないもの。
「今、こうやって進学の時期を迎え一生懸命に取り組んでいるのであれば、今はその生活を優先し、その後、子どもが処罰して欲しいと希望があればまた来てください。」
長年の、警察への不信感がこの対応によって安心に変わりました。
担当者によって考え方、対応の仕方が違うということ。
「1回、2回〜3回だめだったとしても、このような形で希望する対応をしてくれる可能性がある。」
もし、警察署に求めるものが優先的な状況である場合は、諦めずに門を叩き訴えて欲しい。
⚫️医師
抗不安薬をもらっていました。
医師からは、抗うつ剤は必要なく、環境が変わればあなたは薬なんかいらないと言われていました。
「あなたの得意なこと、強み、わくわくすることに取り組むこと。」
「あなたの痛みや悲しみ、苦しみが消えるわけではない。でも、どうしようもなく辛い時、少しだけ薬の力を借りるのもありかもしれない。」
そんな話をする先生でした。
薬漬け、入院ではなく「生活者として」生活していくことを応援し、
生活を落とさないためのアドバイスをしてくれました。
辛くても体を動かすように言われました。
でも、当時の私は仕事から帰ると何もできない。
その時はあまりにも体調が悪くて入院して休みたかったのです。
入院という医療ではなく、守られている場所でぐっすりと心配せずに眠れる場所が欲しかった。
そんな仕組みや場所が必要でした。
⚫️民生委員
地域で厚生労働大臣から委嘱されている民間の地方公務員で児童委員も兼ねています。
担当の民生委員を市役所に聞いて直接連絡しました。
家庭訪問を希望しました。
外から信頼のできる大人が来てくれて、風通しを良くしてくれることも理由の一つ。
何よりも地域の見守りが欲しかったためです。
「週に1回程度、それ以上間隔があいても良いので家庭訪問をしてくれませんか?子どもたちの見守りもお願いできませんか?」
答えは、
「生活保護と就学援助しかやっていません。家庭訪問はやっていません。」
希望は叶いませんでした。
私は、当時地方公務員でしかも保健や福祉関係の仕事をしていたので、
役所に求めなかったのは、深刻な私と子ども達のプライベートを知られたくなかったのと信頼できなかったからです。(当時の私の職場関係)
重要なのは、
「誰につながるか」
「どんなアセスメントと対応をしてくれるのか」
「どんな社会資源を使うのか」
諦めずに、助けを求める。
何度も叩いて開かなくても、開く門は必ずあります。
「助けて」と言い、「支援」を得て生活することは恥ずかしいことではない。
「助けて」を言うこと。
それが自立した生活をするために必要なことでした。
私を支える支援、子どもが子どもらしくいられるための支援が必要でした。
得られた社会資源は、次回【実体験3話】に続きます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
私が目指しているのは、孤立のない共生社会の実現です。
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