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日記

フィルム写真は、自分が自分で現像できない人なので「わたしの作品です」って言いづらいなとずっと思っている。

ポパイカメラで現像するときに好きな風合いを聞かれて、ずっと思ってたこのことについて書きたいなと思った。

(古い)フィルムカメラを使うのは、蓋を開けてみないとわからない部分がないまぜになるのが好きだから。

露光計が付いてなくて、電池もいらなくて。
ほんとに単に体で光を測って、よくある合わせ方表を見ながら絞りとシャッタースピードをエイッと調整するのを繰り返して、撮り終われば仕上がりまでをふわふわしながら待つ。
目は都合のいい器官だから、実際の光量と見えてる明るさにはブレがあって、一つ目の測れなさがある。

仕上げるのは他の人だから、(現像のことまだすごく良くは知らんけど)そこにも2つ目の測れなさがある。

マニュアル操作ですごく専門職かと思いきや、どちらかといえばギャンブルを楽しんでいる感覚に近い。

毎度自分のまさに目分量と、世界(の光)と、現像してくれる人、の、ズレを観測している。
そういう気持ちでフィルムカメラを使っていて、フィルムカメラが好きなのだ。

ということは、フィルムカメラは外部と関わるためのツールで、そういう要素がなくなったら興味をなくすのかな。それとも独特の懐かしい風合いが残るから、ずっと使うのかね。

もしかして何百本と撮ったら測れるようになって、関係性も変わるのかもしれない。その頃には自分で現像しているかもしれない。

何百本と撮りたいね


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