自己肯定感の謎
【心と体の二元論】
人間は、心に操られすぎな人が多すぎる。
「自己肯定感を高くしよう」
これを謳った自己啓発本があったり、友人の間で肯定感を高めあったりなどが、最近の潮流の一種だと捉えている。
この潮流は、豊かでありながらも成長していない日本の30年間が生み出したものだと、勝手に解釈している。理由は、人々の成長意欲が低くなっていることや自己肯定未満の欲求が満たされている人が多いことなどが考えられるが、ここでは検証しないでおく。
僕が言いたいのは、「なぜ、自己肯定をしながら生きていくことを推奨されるのか」である。きっと、自己肯定をしないと生きていけないこともないはずなのに、社会のストレスに負けてしまう人、耐えている人が多いことに加えて、自己肯定ができるナルシスト的な人が成功を納めているからだろう。
でも、私は自己肯定しないといけなくなるまで、自己否定する方法や考え方がおかしいと考える。
一般的な自己否定は自分が起こした行動と心と体を一元的に捉えている。だからこそ追い詰められた人が、生をやめる。
僕は、心と体は別のものと考える。イメージは、体という器の中に心がある状態である。行動は、心に依存する。もちろん心と脳も別の物である。しばしば心と同意とされる意識や自己によって脳が発揮する力が変わるからである。乖離性同一症を持つ方がそれを証明している。人格が入れ替わるたび、語彙力や知識、稀に言語すらも変わる人もいる。脳を操っているのは心なのである。
これを踏まえると、自分がした行動を悔いて、自分という存在を否定して自傷する行為は、好ましくない。この自傷というのは、単に自殺を試みるとかではなく、食事を摂らない・摂りすぎるであるとか睡眠を摂らない・摂りすぎるであるとかの行為も含まれる。
1番伝えたいことは「心が体に影響を及ぼしていいと思うな」「体を自分のものだからなんでもしていいと思うな」「自惚れるな」ということである。そもそも、この体は親から受け継いだもので決して、体の中に隠れた心のモノではない。体あっての心であり、心あっての体ではないのだ。
生物というものは、もともと理性など持っておらず繁殖することが生存本能に基づいているのだ。植物はそれにあたる。動物でも繁殖を終えると死に、子供の餌になる生物もいる。心など本来はいらないのだ。だが、人間は脳が発達した種が生き残り現在も酷使して生き残ってきた。だから、勘違いしてしまったのである。心の方がえらい、心が体を操っていると。確かに、その節もあるのだが、体に悪影響を及ぼす理由ではない。
どうして、心が犯したミスを体も代償を受けないといけないのか。心だけが傷を負うべきなのだ。実際に、そちらの方が心の健康にも良い。
心の病の危ないところは、体にも影響を及ぼすからである。結局は体なのである。心が影響を及ぼさなければ、心の問題など克服できる程度なのである。
人間は、心に操られすぎな人が多すぎる。
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