自己主張と日本人
個人と集団について考える。
自分は何を重視するかを改めて自分に問いかけてみると
個人の幸福が何より大切。
個人の幸福とは
🌸飢えない事
🌸安全が脅かされない事
🌸その上で個々人にとっての幸福の追求を(国家等に)じゃまされないこと
こういう基本的な事についての会話は日常生活であまり交わされないので、はっきりしたことはわからないが、同じ考えをもつ日本人は多いのではないだろうか。
だって私がなぜこのように感じるようになったかといえば、学校での教育とか、社会通念の影響を受けての事だろうし。
明治維新後に入ってきたヨーロッパの人権思想。
フランス革命の精神。
ただこの人権思想は日本人には身体化されていないとよく言われる。
そうだろう。
もし身体化されていたらもっと騒がれているはずの社会の理不尽に対しての声が少ない。
とかく、筋の通った権利を主張すると周りに煙たがれる。
では集団の中で生きやすいように人権思想に煩わされずに、周りの誰もがやっている行動に自分も合わせる。
そうすると
他の人の事はわからないが、私は
プライドを持って生きることができなくなる。
やはり当たり前のことを当たり前に主張して生きたい。
自分の当たり前を捨てる必要はない。
思考停止している人たちを変えようとする必要もない。
ある程度考えて(ここ、考えすぎない事が大切、ぱっと「おかしいな」と思ったことはやはりおかしいのだ。)
自分が正当だと思ったことは妙な空気になったとしても言っていきたい。
そうしないとどんどん自分を失っていく。
当たり前が当たり前でなくなり、やがて大きな理不尽にも声を上げられなくなっていくだろう。
それにしても
この日本人の価値観の二重構造はどうしたことだろう。
なぜ私はこんなことに苦しまなくてはならないのか。
ただただ周りに合わせて安全に生きる。 → 自尊心を失う。
当たり前を主張して生きる → 「うるさい人」「面倒臭い人」になる
まてよ
相手の人は必ずしも一種類じゃないぞ。 例えば私の要求は吞めなくても、私が言っている理屈はリーゾナブルではある、と思う人にあたるかもしれない。
もしかしたら、たまたまその人もダブルスタンダードな空気感に居心地の悪さを感じているかもしれない。
社会通念も内側から少しずつ少しづつ変化するはず。
やはり私は主張していくべきだ。
あとは賢いやり方だな。
🙄例えば、冷静にどうしてそう思うのかを言葉をつくして説明する。
もしかしたら相手から私が気づきもしなかった事情説明が返ってくるかもしれない。
そうするとこちらの納得感も変わってくる。
これが議論というものだろう。
議論というのはお互いの事をよくわかり合うためにするもの。
議論になるのは何か良くない事、という風潮があるが、
議論は口論ではない。
人間が暮らすところ、すり合わせがないのはそもそもおかしいのであって、議論を恐れてはいけないのだ。
🙄その他のやりかたとして、まず感情の融合をはかって、そのうえでリーゾナブルな主張をする、というアプローチがある。
この意味で飲み会もすごく大事ですよー。
話し合いの苦手な苦手な日本人がこの方法を取らない手はない。
ともかく、議論と感情の関係についてはまだまだ私は勉強不足だ。そもそも議論の体験が乏しいのだから(笑)
今日の結論として自分に確認したいことは
自己主張は悪ではない。これを否定すると私は自分をどんどん失っていく。
だから面倒が起きようと私の方向性は定まった。運用方法を工夫しながら正しいと思ったこと、妥当と思ったことは表現していきたい!
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