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失恋と母とロシア風サラダ

 昨日、一つの恋が終わった。会社の取引先の担当係長で、社内では鬼軍曹と呼ばれるほど厳しいのに、私にはとびっきり甘かった彼。たとえ誰にも言えない仲でも、結婚なんて望んでいなかったし、お互い乾いた心を満たしてくれさえすればよかった。

 束縛しない無理のない関係。そのはずだったのに、彼の奥さんが妊娠し、子どものためにも再出発を二人で決めたのだと。

 私とは”二人”じゃないの?

 もう、奥さんとは終わっていたんでしょ?

 私が先に妊娠していたら別れずに済んだ?

「ごめん」の言葉だけで逃げるの?

 

 思いっきり罵声を浴びさせてやりたい、彼が好きだったこの声で。

 目から血が出るくらい泣き喚いてやりたい、泣き顔が可愛いと言ったこの顔で。

 出来るものなら圧し折ってやりたい、私をすっぽりと包み込む力強い腕を。

 噛み付いてやりたい、私の全てのネジを緩めてしまうムスクの香りのする首筋に……。


 そんなことは一つも適わずに、「そう、いいよ。お幸せに」と傷ついていないフリをした馬鹿な私。泣き腫らした目に二日酔いが輪をかける。誰とも会いたくない。シュレッダーにでも頭から飛び込みたい。

 こういう日に限って、大阪から母がやって来る。タイミングが悪すぎる。
母には責任はないにせよ、よりによって、どうして昨日の今日なのだ。どうして母なのだ……。

 予定どおり13時に品川駅で落ち合う。どうせなら東京駅まで来ればいいのに、新大阪を出ていつも一駅手前の品川駅で降りる。「東京は嫌いやねん」とか訳がわからない。

 今年55歳になる母は、毎週ジムに通い若々しく、料理教室にコーラスと活き活きと暮らしている。男に振られて幽霊のような私とは大違い。

 季節外れのサングラスをかけた私を改札の外に見つけた母が「レイちゃん!」と叫ぶ。25歳にもなって公衆の前面で「レイちゃん」は恥ずかしいが、それを言うと「レイちゃんはレイちゃんやんか」と引かないのでもう慣れてしまった。

 とりあえず駅前の焙煎コーヒーが美味しいと評判のカフェに入る。さっそく、広島のおばちゃんが入院した話、父のパチンコの話、お隣の猫の話とよくまぁ話が続く。アイスコーヒーの氷が溶けて、そろそろ私の結婚の話だろうなと思った頃、サングラスをしたままの私に聞く。


「目、どないしたん?」
「目ばちこ……できてん……」
「…………そうか」


 静かにそう言うと、母は、すっと腰を上げる。さらに、急に用事が出来たから帰ると言う。

 一泊二日の予定に母が用事を入れるはずがない。赤坂にできた新しいスペインレストランに一緒に行くのを楽しみにしていたはずなのに。内心ホッとしている自分が嫌になる。

 さっき通ったばかりの駅の改札を通り抜けながら、100円ショップの保冷バッグを手渡す母。


「父さんが持って行ったりって」


「ふぅーん」と受け取ったバッグはピンク色でクマさん模様がついていた。今はクマさんの気分じゃない。母は来た時と同じように改札の中から手を振りながら「またね」と帰って行った。

 アパートにどうやって戻ったのかは覚えていない。携帯電話がメッセージの着信を知らせていたが、幽霊の私には関係ない。服のままのベットに潜って眠った。時間が巻き戻されて、彼と出会った頃に戻ってたらいいのにと思いながら。



 目が覚めると、すっかり陽は落ちて夜になっていたのに、私は数時間前の自分のままだった。ただ、心がこんなに痛むのに、お腹は減るのだと知った。本当の幽霊なら減らないんだろな。

 ほとんど空っぽの冷蔵庫には、ピンク色のクマさんバックがそのまま入っていた。苦笑いしながら開けてみると、母の手作りのロシア風サラダだった。フランス国籍のベルギー人がロシアで作ったスペインのサラダ。量からすると二人分ある。きっと、母と私の分。

 三色ベジタブルにツナ、卵、赤ピーマン。色とりどりの野菜が入っている。マヨネーズがクリーミーなのにレモンの酸味が爽やかで、隠し味のマスタードがサラダ全体を大人の味に引き締める。

 一口食べてみる。心の中の黒い棘の塊がキュッと小さくなった。一本だけ冷蔵庫に残ったハイネケンビールを取り出して、コップなんか使わないで瓶のまま喉に注ぎ込む。ビールがサラダと一緒に空っぽの胃の中に棘の塊を連れ去っていく。一口、そしてまた一口と。棘がサラダに入ったカラフルな野菜と同化しながら少しずつ私の中へと消えいていく気がした。

パソコンの電源を入れる。

次の連休の帰省チケットを探そう。
無性に母に会いたい。

お持ち帰り用レシピ
ロシア風サラダ - Ensaladilla Rusa

材料
じゃがいも        中2個
にんじん        小 1本
茹で玉子            2個
ツナ缶          1缶
グリンピ-ス      少々
赤ピ-マン       少々
オリ-ブの実   8~12粒(オプション)
マヨネ-ズ     大匙2
塩・こしょう     少々
レモン汁       少々(めやす1/2個分弱)
マスタード         少々  (めやす小匙1)

作り方
①じゃがいもを皮ごと茹で、茹で上がったらすぐに皮をむき大きくつぶす。
②固ゆでたまご、オリ-ブは大き目の微塵切り、にんじんは小さく切って塩ゆでする。(オリーブの実は好みがあるので入れてもいれなくてもいい)
③ツナ缶の油を完全に切ってほぐす。
④グリンピ-スが生の場合は塩茹でにしてしっかり水を切っておく。
⑤赤ぴ-マンは直火にかけて表面の薄皮をむき、細く切る(飾り)
⑥全部をボ-ルに入れて軽く塩・こしょうをし、マヨネ-ズであえる。
⑦レモン汁とマスタードを合わせて味を整える。
⑧30分以上おいて味をなじませる。

コメント
じゃがいも、にんじん、グリンピースはミックスベジタブルで代用可。 塩・こしょう、レモンは控えめに。レモン汁は先に加えるとマヨネ-ズが分離してしまうので注意。冷蔵庫で翌日ぐらいの方が味がまとまって美味しい。合わせる食材を完全に水切りするのが仕上がりをベタッとさせないコツ。

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スペイン在住3児の母。エッセイ執筆・翻訳・コーディネートなど食品輸出等を手掛けるスペイン食のアドバイザー。暮らしの中にある『食べて生きる』を大切に。ハーブ&スパイスコンサルタント。http://www.orkaspain.com