見出し画像

熟成チーズに蕩ける夜 【#夜更けのおつまみ】

 平日の何でもない普通の日だっていうのに、夕方にいつもの友人夫婦から召集があり、近くのバルで「来月の誕生日会の相談」という名のプチ飲み会。結局、誕生日の話なんかしないまま、1時間半ほどしてやっとお開きになった。店の外はすっかり日も暮れ、肌を刺す冷たい空気が上着を持って出なかったことを後悔させた。



 家に戻るも、中途半場に胃に物を入れてしまったものだから、じきに夕食の時間だというのにお腹が空かない。これは困った。ビールで誤魔化されたお腹は、数時間もすると容赦なく警笛を鳴らすはずだ。そして就寝時間が迫った頃、とうとうお腹がグゥと鳴る。

「お腹すいてきたね。何か食べる?」
「何でもいい」

 万国共通で頭にくるフレーズだが、25年も学ばないのだから怒っても無駄。無視をして冷蔵庫に頭を突っ込む。火は使いたくないし、手間も洗い物も最小限で食べられる楽ウマなおつまみを探して……。

 あった、あったよ。切って出すだけの『濃厚熟成チーズ』が。

 先月、メノルカ島へ小旅行をした際に、偶然「手作りチーズ直営工場」の看板が目を惹いた。牧場の脇道を30分近く車を走らせたところにある小さなチーズ農家で、丁寧に一年半もの時間をかけて熟成された牛乳100%チーズ。見かけも手触りも石鹸のようで、スライスしようとすると、ボロボロと不揃いな切れ端が幾つもできた。ツンと濃厚な発酵香が鼻をくすぐる。この上に、秋に搾油されたばかりの干草の香りのするフレッシュなオリーブオイルを回しかける。黄味がかったクリーム色にエメラルドグリーンが色鮮やかに映える。

 寝る前は飲食禁止とか、カロリーが高いとかを気にしすぎる人は、人生の半分くらい損をしているんじゃないかと思う。健康管理以上に心の管理が大切なんだよ。そう強がりながら、沸き上がる背徳感をクッキー缶に封印する。

 今夜の熟成チーズのお相手はウィスキー。こんな夜更けにはやっぱりウィスキーがいい。小さなショットグラスに夫と二人分のウィスキーを用意する。思えば、子どもの頃は、お酒はもちろんチーズも苦手だった私が、今や父が楽しんでいたウィスキーを飲み、ブルーチーズのような個性的なチーズも食べれてしまう。随分と大人になったものだ。

 唇をすぼめて琥珀色のウィスキーをチュッとほんの少し口に啜り込む。3秒もすると舌先がピリピリし始めて、急いで飲み込むと、口内のウィスキーが触れた部分がジンジンする。オリーブオイルを纏ったチーズを一欠片かけら口に放り込む。面白いことに、ウィスキーのアピールは舌先から始まるのに、チーズは舌先から2センチほど内側から。オリーブオイルの爽やかな苦味に乗って、チーズの刺激が舌の両脇にまで届くと、耐えられなくなった唾液が一気にワッと溢れ出す。オリーブオイルで少し柔らかくなったチーズを舌で上顎に押し付ける。塩味やコクがウィスキーでまどろんだ舌の草原に放たれてチーズの花が咲く。そして、再びウィスキーを注ぎ込むと、ようやく本来の牛乳の味がして、ウィスキーが甘い微笑みを浮かべる。

 あまりの美味しさに連獅子となり首を振る。憑かれたように、ウィスキーとチーズを交互に口に運ぶ。決して一度に沢山の量を口に投じず、少しずつ、少しずつ味わっていく。ついに「あぁ…………」と思わず目を閉じて恍惚とする。

「どないしたん?」
「ん、天国まで下見に行ってましてん」

 酒とおつまみが私を天国へと誘い込む。どちらが欠けても天国にはいけない。何だろうか。酒とおつまみというのは、別々でも美味しいのに、一緒になると相乗効果で格別の美味しさを生み出すことがある。だからといって、絶対の組み合わせかどうかは誰にもわからない。在るか無きかの最高のパートナーを追求するのか、手元にあるパートナーといかに楽しむのか。男と女のように実に複雑で奥が深い。

 そんな、どうでもいい事を考えていると、ふいに夫と目が合い、コチンとグラスを合わす。今日、何度目かの乾杯。ウィスキーとチーズが溶け合って体に染み渡るにつれ、少しずつ体温が上がっていく。空っぽだった胃と心が温かい。

 中年夫婦の夜更けはこうして過ぎていく。若い頃のように愛を語るでもなく、子どもの教育論争に火がついて冷戦状態に陥るでもなく、ウィスキーを片手にチビチビと、静かに熟成チーズを味わいながら。

 天国は近い。ウィスキーと濃厚完熟チーズの仲はしばらく続きそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?