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グループホームとのアンバランスな関係

 かつてtwitterでグループホームへの不満を述べたことがあったのだけれど、その当時のことを思い出してこの記事を書いた。要は、グループホームが患者を選ぶという倒錯した実態が一部にあって、それには構造的な原因があるのじゃあないか、という話だ。

はじめに|確認事項と問題提起

 グループホームという言葉は介護保険法上の共同生活介護と総合支援法上の共同生活援助の二つについて用いられているけれど、これから書くのは後者の方。仕事の関係上精神障害者向けと知的障害者向けの事業所の話で、身体障害者向けの事業所についてはほとんど網羅していない。
 グループホームとはいろいろな文脈で接点がある/あったのだけれど、今にして思うのは「入居者と事業者のパワーバランスがおかしくないかい?」ということだ。ちなみに、グループホームすべてがそうだと言いたいわけではないので、以下は当地にそういう事業所がある、という記述的な話である。まあでも私はこれ、個々の事業所の問題ではなくある程度構造的なものなんだと思っている。

事業者と入居者のパワーバランス

 大都市に一般化していい話かはややアヤシイものの、当地のような大都市で実際にグループホームへの入居を支援するとわかることとして、グループホームは狭き門である、ということが多い。人気のある事業所はいつも倍率が高く、いつ空きが出るかもわからない事業所もあり、他方でいつも空室がある事業所には大体それなりにネガティブな理由があって、そもそもグループホーム市場の供給として機能していなかったり(ハナから無視されていたり)する。最近はグループホームに新種の補助金が出ているらしくて、いまいち出自のわからない事業所が雨後のタケノコのようにグループホームを建てて、案の定人が来ないので延々と宣伝がまわってきている。それでもなおグループホームの需要自体は充足せず、空き待ちをする人や入居を断られる人がそれなりの数いて、グループホーム市場のミスマッチは大きいと感じさせる。そういう市場で何が起こるかというと、売り手と買い手のパワーバランスが崩れて事業者が入居者を選ぶ、という構造が生まれるわけだ。

入居者を選ぶプロセス

 事業所にコンセプトがある場合は、それに合致する人が入居者として選ばれる。家族的な雰囲気を重視するところ、自立性を重視するところ、特定の障害にフォーカスしたところなどがある。精神障害者向けで圧倒的に多いのは統合失調症の方を想定したオーソドックスなタイプで、最近は若年者や虐待、発達障害などにフォーカスした事業所もあるが、まだまだ少ない。一般企業で総合職を経験した気分障害の患者さんが違和感なく入所できるような事業所はほとんど聞かない。依存症の人も概してハードルが高い。そういう要素以外にも、うちは共同生活住居だからとか、夜間は人がいないからとか、喫煙者はお断りとか、いろいろな制約がある。グループホームごとに入居基準があって、入居基準に合致する人を事業所が選ぶ、というプロセスがあることが重要だ。結果的に、いずれのグループホームにも合致しない人が出てくる。まあでもこれは「措置から契約へ」という形で行政当局が支援を差配する権限と責任を失った時から予測できたことではある。

選ばれる入居者になるために

 グループホームを目指す患者さんには受難が待っている。グループホームに選ばれるような立派な患者にならなくてはいけない。自分の障害のことをきちんと"弁えて"いるとか、日中活動に参加する意欲があるとか、支援者の指示に従うとか。障害程度区分によってサービス報酬が傾斜されるように制度改正されてから「区分いくつ以上(かつ、いくつ以下)の人」というたいそう丁寧なご指定を頂くことも増えた。
 書いていてちょっとゾッとするけど、実際にそういうプレゼンテーションをしないと目当てのグループホームにはなかなか選んでもらえないのだ。そこにはありのままもその人らしさもへったくれもない、選ばれし患者へ至る受難の道がある。そもそも、患者が支援者に合わせるなんて倒錯した話だと思うけど、よくあることなんだなこれが。

グループホームにも事情があるんですよ

 支援者として選ぶ側にも選ばれる側にも立ったこともあるので、選ぶ側たる事業者からの事情を書いておくと、そもそも事業の報酬が少なすぎて多様な入居者にアジャストするだけのマンパワーを用意できない、ということは確実にあるのだ。家賃相場は上がってるのに住宅扶助は増えないからアクセスのいい土地にはなかなか事業所を構えられないのもあるし、サブリースだから大家からいろいろとNGを食らってしまうっていうのもある。
 でも、ちゃんとしている事業所というのは、当事者を選ぶプロセスが必然ではなく予算制約等の限界に依ることをよくわかっているのも確か。だから申し訳なさそうにお断りを入れてくるし、入居できないことが希望者自身の問題ではないことをきちんと言ってくれるし、それ以外でもできる限りの誠実さをきちんと見せてくれるものだ。反対にいい加減な見立てで申し込んできた支援者を突っぱねたりもする。希望者の立場からもそのあたりの葛藤がよく見えるので、そういう事業所のことはすごく頼りにしているし信頼している。患者さんにも堂々と提案できる。大変な仕事なのにありがたいことですよ。残念ながら、少なくない事業所が自分たちが選ぶ側にいることを自明視しているように見えるけれども…

そもそも、なぜグループホームなのか

 現場にいて圧倒的に多いのは支援者からの提案で、アパート生活がうまくいかなかったからとか、一人暮らしの経験がないとか、あとは単に心配だからとか、一応理由はある。当事者の人が自発的にグループホームを希望するときもあるんだけれど、実は(…グループホームって言えば退院させてもらえるかも?)とか(…ケースワーカーがグループホームなら家賃を出してくれるって言うから)とか、彼らなりに支援者の都合に最適化された理由があることも多い。もっと素朴に患者仲間の話を聞いて興味を持ったみたいな話も聞くことはあるし、選ぶだけの肢が提示されてフラットな意思決定プロセスでもってグループホームに行くならそれは全然問題じゃないし、本稿でも問題にしていない。でも、そういう支援方針が決まるまでに、グループホームがどういうところでどういうニーズを充足するところで、どういう事業所があって、その人のニーズを満たす手段としてほかの選択肢より優位かどうか、という検討をちゃんとやっていないことが本当に多いんですのよ。支援方針に影響力の強い医師も福祉事務所のケースワーカーも、ほとんどの場合はグループホームについて実態的な情報は持ってないしね(病院の相談員と保健師は人による)。要は支援者がよく知らないから不安で安牌打ってるんだけど、施設に入所するためのコストは無視されていて、患者さんがそのコストを払ってるわけ。そもそも本人にとって安牌なのかもよくわからない。

グループホーム需要はかさ増しされている?

 上記のような、(なんとなく)アパートがだめだから(なんとなく)グループホーム、っていうチャート式或いはステップアップ方式ケースワークの結果でグループホームに行くことになった人は少なくないと思う。作っても作っても支援者がそういうノリでグループホームに患者を誘導していく構造があるから、当然のことように患者を選ぶグループホームが口を開けてるだけで生き残ることができている構造がある。「グループホームがいい」と思うケースは確実にある一方、「ホンマにグループホームでないとダメなんか?」というケースも多いという実感がある。その辺をよくわかっているグループホームはすごく危機感を持っていて、この歪な構造を抜け出して患者さんのニーズを満たそうと腐心している。

面倒だからアパートにする

 わたしはそういう風に「支援者に都合のいい患者」さんに仕立て上げるのが本当に嫌で嫌でしょうがないので、アパートに行けるならアパートにしたらいいんじゃないのっていつも思う。アパートに行くのに必要なことは地域生活全般に必要な事なんで、その人らしさへの介入も最小限かつ正当化しやすいかな、と思う。「望ましい変化」を強いるところは変わらんけどね。
 そういうわけだから、グループホームでもアパートでもどっちでも行けるならアパート、というのが個人的な見解。その方針を対外的に正当化するのが重要で、支援者の重圧や責任はそれなりにある。根回しやプレゼン力、直接支援の力量も必要だ。本人にもがんばってもらわないといけない。中でも福祉事務所から転宅費用を引っ張るのが一番大変かも。これもまた一つのハウジングファーストではないかと思わなくもないけれど、今のところそういう美名が役に立った実感はない。
 
 まあ、本人がアパートに行きたいならやる価値はあるし、実はアパートに行ってよかったねって対外的に一番アピールできるのは、支援者が偉そうにするよりも「世に棲む患者」さんとして地域で生活している事実だったりするのだ。グループホームに限らず患者さんが地域で生活していることそれ自体が別の患者さんの希望になったりする。だからといって誰かにアピールするためにやることでもないけれども。

入居者と事業者のよい関係のために

 アパートを推すのには本人のため以外にも裏テーマがあって、それはかさ増しされた需要で食ってるグループホームを退場させるというものだ。(スケールがでかいけど割と本気です。)具体的には、ケースワークをきちんとやったうえで必要な場合に支援としてグループホームを提案し、ちゃんといい仕事してくれるグループホームとお付き合いして、入居者を選別して適当な仕事をやっているグループホームを支援のネットワークから排除すること(を鋭意実践中)。同じように私も排除されるかもしれないけれどそれはお互い様。そうすることで金儲け目的で参入してきたような福祉をなめくさった素人やいい加減な仕事をやっている事業所を焼き払うことができるんじゃないだろうかと考えている。グループホームが生き残るために「支援者が患者を選ぶ」という倒錯から目覚めて初めて、本来の支援/被支援関係の構造的な素地ができるんじゃあないだろうか。もっとも、このやり方では予算制約の問題は全然解決しないからそっちは今も考え中。でも、当事者に選ばれる支援者が生き残るような、そういう競争的な構造が必要な面もあると思う。


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