『ルポ 虐待サバイバー』を読んだ
縁あって本書を手に取り、読んでAmazonにレビューを落としてきた。noteでは本のレビューとは直接関係のない個人的な見解やらなにやらを書きていきたいと思う。
脳機能障害→虐待という図式の危うさ
本書を読むと、というか高橋和巳先生の話を聞くと、脳機能障害のある人は子どもを産み育ててはいけないのか?という疑問が湧いてくる。虐待をなくすという文脈でそのロジックを限界まで突き詰めると、そういう話にいってしまいそうである。
一応書いておくと、高橋先生も著者も脳機能障害=共感性なし=虐待みたいなクリアカットな図式は提示していなくて、全称命題を避けて枠組に安全マージンを作っている。それは慎みであり、社会に対するexcuseには違いない。けれど、同時に葛藤の極地において圧力を逃がす抜け穴にもなってしまう。「うちの親は違うかもしれない!」という穴だ。
おそらく、そのあたりのギリギリのバランスを取ろうとすると、原因を特定しつつそちらは掘り下げずに、虐待を受けた人のこころのあり方を理解するために私たちが変わるべき、というソリューションになるのだろう。それが配慮だとすれば痛み入ることだけれど、この国の障害者差別の歴史を考えると、本当は虐待と脳機能障害の結びつきを示唆する程度でさえ、世に出されるのは恐ろしいと思う。しかし、私のちっぽけな頭では反証できないくらい、虐待を生き延びた人たちの語りがその正確さを物語っていると痛感する。
親のポジションからはどう見えるか
翻って、共感性を欠き、子どもと愛着関係を結べないとされる、親の立場からはどうだろう。
飽くことなく求める子どもと完全な連動関係を維持すること、子どもからのサインをキャッチすること、音や動きに合意のある意味を提示して了解すること。そして、父親役を含む第三者による暴力から子どもを守ること。それがどれだけ大変なことかを考えると、うまくできない人がいること自体にはさほど疑問の余地はないように思う。うまくできない人たちにすべて所定の診断が下っているわけではない。ただ、診断がついていない場合も含めて、彼らにとって子育てはあまりにも大変すぎるのだ。そして、彼らは特別怠けているわけでも悪意があるわけでもない。その人なりに、ほかの人たちと同じように懸命だったりいい加減だったりしながら生きて、そして子育てをしている(いた)けれど、それが社会的合意の範疇を外れていたり、子どもの健康な心理発達には不適切だったりするだけだ。たとえそのことで邪悪な人間に見えるとしても、それは性格でも人格でもない。ときに不適切に見える振舞いをするところまで含めて、対人関係や社会的合意を読み取って理解するという超高度な脳機能の障害なのだと思う。脳科学や医学的な妥当性を争う余地はあっても、倫理道徳的な講釈を差し挟む余地はそこにはない。
私がかつてべてるに関する記事を読んでいた時、幻覚妄想によって子供を殴ってしまった親を周囲の人たちが「病気だからしょうがない」と励ましていたことが忘れられないでいる。あれは障害者福祉の文脈では正しい。しかし虐待には違いないのだ。彼らに限らず、障害者福祉の文脈ではよく見かける出来事ではある。そして子どものこころがそこに置き去りになっていることも。
矛盾に架橋する試みたち
私に言わせれば、社会的養護も現代アタッチメント理論も、虐待状況における親子の相反するポジションに無理やり整合性を与えようとする、絶望的な試みなのだと思う。
フロム=ライヒマンによる分裂病原性の母概念はその極端な試みの一つだったと思うが、虐待サバイバーを統合失調症と誤認し、また子どものポジションから母親を攻撃した。あの論理が焼かれたのは必然だったと思う。
現代アタッチメント理論は「お母さんは悪くない」という社会倫理を密輸入するために巨大な形而上学の塔を築いた。彼らはまた、脳機能障害のある養育者×正常発達の子ども、という愛着障害の原型を見失っているから、霧散した対象を記述するために理論を腫大させた。
斎藤学先生はその矛盾に肉薄した時期があったと思うけれど、結局そちらには進まなかったように見える。
本書を読むと、そういう試みたちの根底にある「お母さんのせいだ」も「お母さんは悪くない」も、虐待の理解にはバイアスになってしまうことがわかる。倫理的でなければ容易に人を傷つけるが、倫理的であるがゆえに見えなくなることもある。
能力という形で個人化することに異議申し立てをするのはわかる。社会的養護が十全であれば虐待は防げる、と言いたい気持ちはわかるつもりだ。私だってその方がいいとも思う。ただ、私はその立場には立たない。その主張は、「母も子も悪くない」という高潔な倫理観、或いは自身の愛着によって出口を封じられた、行き場のないエネルギーでしかない。彼らにとっては、社会という物言わぬ閉鎖回路に押し込めることでしか、この不条理をこころの内に留め置く方法がないのだろう。
それに、本書に出てきたサバイバーの方とその子のあり方を見れば、親子の愛着関係そのものが社会環境に中立だとわかるだろう。社会的にも虐待だと見なされる形式をとっていながら、余りにも社会的に追い詰められながら、子どもからは強烈な愛情希求とその満足のサインを読み取ることができる。社会的養護が重要になってくるのは、実際には愛着よりずっと上のレイヤーの話である。
ダブルスタンダードな支援者
障害福祉に身を置く者の端くれとして、脳機能障害を持つ人は精神的に健康な子どもを産み育てることはできないという主張に与するのは難しい。しかし、虐待もまた、もはや頬かむりできない。法や制度よりも私たちの理解を変えることが必要だと著者は言った。それでは、この矛盾した状況をどう理解すればいいのだろうか。
私は、虐待状況における親子の矛盾をそのままにすることにした。矛盾を解消するために無理やり統一解を捏ね上げることをやめた。だから私はこの領域に科学を持ち込むことに反対している。
障害を持って生きる苦しさや困難を聞き、支援する。同時に、健康に生きるために必要な質量の関心を注がれなかった人の生きる苦しみを聴き、時に親への感情を受け止め、新しい生き方を手に入れるための支援をする。子どものポジションに立って「なんて親だ」と思い、親のポジションに立って「子育ては大変だ」と思う。それは紛れもなくダブルスタンダードだ。でも、そこはダブルスタンダードでなければいけない。子どもには虐待を受ける謂れなど何もないのだから、子どもにとって堪え難い不条理に違いない。他方で、脳機能障害にも謂れがないのはもとより、現代の倫理と社会システム下では子どもを産み育てることも何も禁止されていない。
そこに不条理を見出して理解する力も苦境を乗り越えてよりよい生き方を手にする力も、脳機能障害を持った親ではなく、脳機能障害を持たなかった子どもの側にしかない。虐待状況において子どもにフォーカスする理由はそこにある。
そういうわけで、私には生まれ出で続ける虐待状況を封殺する術には思い至れない。社会的に合意できそうなポイントを見出すこともできない。無力だ。ただ、一人でも多くの人に、虐待の中に親子間の絶望的な矛盾があること、どちらかのポジションに立つことがもう一方の保障された所与の利益を侵害する状態にあることを知ってもらいたいとは思う。
おまけ
本書は、虐待を受けた子どもが脳機能障害を持っていると誤認されることを指摘しているけれど、虐待を受けた障害者もその虐待の影響も無視できないほどに大きいことは付け加えておきたい。また、教育虐待のような脳機能障害のない養育者からなされる虐待もある。そして、第三者としての父親役からの暴力も。本書が言及していない虐待は多い。それに、私は法や制度の変更も大いに求められることだと思う。ただし、それらはいずれも、本来的な意味での愛着とは別の話、ではあるのだけれど。
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